黙考のしじま

思索にふける苦行の軌跡

薄明の中に見えたものは

何に怯えてゐたといふのか。

夜明け前の薄明の中、

独りぽつねんと端座しながら、

吾は白い影を引き摺るそいつに対峙する。

そいつはオーネット・コールマンが好きだと行って

藪から棒に吾のレコード棚から

オーネット・コールマンのレコードを取り出して、

プレーヤーで針を落とし

その気鋭のジャズ・ジャイアンツの音を流し出した。

そして、かう切り出した。

――別離の難しさはいふに及ばず。されば、そなたは別離を何とする。

――ぽっくり死ねれば幸ひだが、煙草好きの吾はのたうち回って此の世との別離を迎へるだらう。

――ふっ、一応覚悟はできてゐるみたいだが、その前にそなたはするべきことがあらうが。

――この悪疫が蔓延する世においても仮に生が繋げるのであれば、それは吾にまだ遣り残したことがあるといふことで、それを是非しなければとは考えてゐる。

――それを口に出来るかね。

――ドストエフスキイに双肩出来得る小説を書くこと。

と、吾がいふとそいつはゆっくり瞼を閉ぢて、

天を仰いだ。

そして、かういった。

――それは仮令、そなたが生きてゐるうちに評価されぬといふ覚悟があってのことか。

――勿論。

――それは既に書き始められてゐるのか。

――勿論。

――すまぬが読ませてくれぬか。

――ああ。

吾はそいつに原稿を渡した。

そいつは、何度も

――う~ん。

と唸りながら、吾の小説を読んでゐた。

――これはまだ序章でもないんだらう。

――さう、まだ、序章にすら達してゐない。

――この涯なき長編小説を書き終へる自信はあるのかね。

――いや。それでも書けるところまで、書き連ねるつもりだ。

吾がさういふとそいつはレコードのB面をかけた。

暫く沈黙が続いた後、そいつが口を開いた。

――合理に呑み込まれるなよ。

――解ってゐる。

――合理ほど人を誑かすものはないからな。

――解ってゐる。

吾がさういふとそいつは徐に立ち上がって、

白い自分の影を踏んづけた。

――そなたの小説は、つまり、かういうことだね。

――さうともいへる。が、しかし、そればかりではない。自分の影を踏んづける類ひの小説は五万とある。吾の小説は影を切り裂くのだ。さうして自らの存在をずたずたにする。さすれば、宇宙顚覆の端緒になり得ると思ひなしてゐる。

――狂気の沙汰だぜ、それは。

――解ってゐる。

吾がさういふと、そいつはすうっと姿を消した。

と同時にオーネット・コールマンのレコードも終はった。

消ゆるのは吾のみや

宵の明星が皓皓と輝き

日没後の深き橙色の西の空を見詰めながら、

西方浄土といふ言葉が頭を駆け巡れば、

何処か感傷的な感情が込み上げてくるかと思ひきや

そんな感傷に浸る余裕は微塵もない私は

私の内部に巣くふ異形の吾の頭を噛み切る術を探しては、

私の内部、其処を私は五蘊場と名付けてゐるが、

その五蘊場を我が物顔で闊歩してゐる異形の吾が

のさばればのさばるほど

私の懊悩は深まるばかりで、

この私と吾との跨ぎ果せぬ乖離は

私の絶望の距離なのだ。

常人であれば私と異形の吾とはぎりぎりの折り合ひをつけて

このどうしようもない絶望を

飴玉を噛み砕くやうにして呑み込んでゐる筈だが、

私の異形の吾は軟体動物にして干し肉よりも硬くて

私の顎の力ではどうしても噛み切れぬのである。

つまり、私の五蘊場にのさばる異形の吾は変幻自在にして

想像を超えて伸縮に富んでゐるので

蛸を噛み切るやうには一朝一夕に行かぬ憾みをも

私は抱へ込むことになるのであるが、

異形の吾に対して手も足も出ぬ私を

異形の吾は嫌らしい顔で嗤ってゐる。

さうすると不老不死ではない私は何れ死を迎へることに相成るが、

異形の吾は私の死後も私の死を哄笑して生き延びるのだらう。

私の死後、異形の吾は誰かの五蘊場に住み処を移し

新たな宿主となったものを嘲弄し続け、

最悪の場合、新たな宿主を自殺に追ひ来むに違ひないのだ。

だからこそ、私は何としても異形の吾を鏖殺しなければならぬ使命があるのであるが、

非力な私に今のところ、為す術はなし。

詰まる所、消ゆるのは吾のみや。

さうして自同律の病に罹る未来人を私が異形の吾を鏖殺できぬ故に

新たに生んでしまふ汚名を被る恥辱を未来人よ、許し給へ。

ざわめき

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表紙

ざわめき

 

       積 緋露雪

 

――君にはあのざわめきが聞こえないのかい? 

――えつ、何の事だい? 

――時空間が絶えず呻吟しながら《他》の《何か》への変容を渇仰してゐるあのざわめく音が、君には聞こえないのかい? 

――ふむ。聞こえなくはないが……その前に時空間が渇仰する《他》とはそもそも何の事だね? 

――へつ、《永劫》に決まつてらあ! 

――えつ、《永劫》が時空間にとつての《他》? 

――さうさ。《永劫》の相の下で時空間はやつと自らを弾劾し果(おほ)せられるのさ。さうする事で時空間はのつぴきならぬところ、つまり、《金輪際》に追ひやられて最終的には《他》に変化(へんげ)出来る。

――へつ、それつて《特異点》の事じやないのかね? 

――……すると……君は《永劫》は《特異点》の中の一つの相に過ぎぬと看做してゐるのか……。しかしだ……。

――しかしだ、《特異点》は《存在》が隠し持つてゐる。つまり、時空間と雖も《存在》に左右される宿命を負つてゐる。即ち、時空間は《物体》への変化を求めてゐるに過ぎぬ! 違ふかね? 

――否! 《存在》は《物体》の専売特許じやないぜ。時空間もまた「吾とは何ぞや」と自らが自らに重なる不愉快極まりない苦痛をぢつと噛み締めながら自身に我慢してゐるに違ひない。

――では君にとつて《特異点》はどんなものとして形象されてゐるんだい? 

――奈落さ。

――ふむ。それで? 

――此の世にある《物体》として《存在》してしまつたものはそれが何であらうとも《地獄》の苦痛を味はひ尽くさねばならぬ。

――ふつ、それは時空間とて同じではないのかね? 

――さうさ……。時空間も《存在》する以上、《地獄の奈落》を味はひ尽くさねばならぬ。

――その奈落の底、つまり《金輪際》が君の描く《特異点》の形象か? 

――《底》といつても、つまり《金輪際》とは限らないぜ。もしかすると、へつへつへつ、《天上界》が《特異点》の在処かもしれないぜ。

――ちえつ、だからどうしたと言ふんだ? それはある種の詭弁に過ぎぬのじやないかね? 

――……自由落下……。俺が《特異点》に対して思ひ描いてゐる形象の一つに、《落下》してゐながら《飛翔》してゐるとしか《認識》出来ない《自由落下》の、天地左右の無意味な状態を《特異点》の一つの形象と看做してゐる……。

――しかし……、《自由落下》では《主体》はあくまで《主体》のままで、《永劫》たる《他》などに変化する事はないんぢやないかな? 

――ふつ、《意識》自体が《自由落下》してゐると考へるとどうかね? 

――へつ、それも《永劫》の《自由落下》かな? 

――ふつふつふつ、さうさ……。《意識》自体の《永劫》の《自由落下》……。どの道……《特異点》の相の下では《意識》……若しくは《思念》以外……その存在根拠が全て怪しいからな。

と、こんな無意味で虚しい事をうつらうつらと瞑目しながら《異形の吾》と自問自答してしまふ彼は、辺りの灯りが消えて深夜の闇に全的に没し、何やら不気味な奇声にも似た音ならざる時空間の《呻く》感じを無闇矢鱈に感じてしまふ、それでゐてぢつと黙したまま何も語らぬ時空間に結果として完全に包囲された状態でしかあり得ぬ己自身に対して、唯唯自嘲するのみしか術がなかつた口惜しさを噛み締めてゐた。この時空間のぴんと張り詰めたかの如き緊迫した感じは、彼の幼少時から続く不思議な感覚――それは彼にとつてはどうしても言葉では言ひ表せないある名状し難い感覚――で、彼にとつて時空間は絶えず音ならざる音を発する奇怪な《ざわめき》に満ちたある《存在》する《もの》、若しくは《実体》ある《もの》として認識されるのであつた。

――くくくあきききいんんん――。

 それは彼の脳が勝手にでつち上げた代物かもしれぬが、その時、時空間の《ざわめき》は例へばそんな風に彼には音ならざる《ざわめき》として聞こえてしまふのであつた。そんな時彼は

――ふつふつ……。

と何時も自嘲しながら自身に対して薄ら笑ひを浮かべてはその彼特有であらう時空間の音ならざる《ざわめき》をやり過ごすのであつたが、しかし、さうは言つても彼には彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられないのもまた事実であつた。それは彼にとつては時空間が《場》としてすら《己》を強ひられる事への《悲鳴》としてしか感じられなかつたのである。それ故か彼にとつては《己》は全肯定するか全否定するかのどちらかでしかなく、しかし、彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられない彼にとつては当然、全肯定するには未だ達観する域には達する筈もなく、只管(ひたすら)《己》を全否定する事ばかりへと邁進せざるを得ないのであつた。

 

…………

…………

 

――へつ、己が嫌ひか? 

――ふつふつ、直截的にそれを俺に聞くか……。まあ良い。多分、俺は俺を好いてゐるが故にこの己が大嫌ひに相違ない……。

――へつ、その言ひ種さ、お前の煮え切らないのは。

――ふつふつ、どうぞご勝手に。しかし、さう言ふお前はお前が嫌ひか? 

――はつはつはつはつはつ、嫌ひに決まつてらうが、この馬鹿者が! 

――……しかし……この《己》にすら嫌はれる《己》とは一体何なのだらうか? 

――《己》を《己》としてしか思念出来ぬ哀しい存在物さ。

――それにはこの音ならざる《悲鳴》を上げてゐる時空間も当然含まれるね? 

――勿論だぜ。

――きいきいきいんんんんん――。

と、その時、突然時空間の音ならざる《悲鳴》がHowling(ハウリング)を起こしたかのやうに彼の鼓膜を劈(つんざ)き、彼の聴覚機能が一瞬麻痺した如くに時空間の《断末魔》にも似た音ならざる大轟音が彼の周囲を蔽つたのであつた……。

――今の聞いただらう? 

――ああ。

――何処かで因果律が成立してゐた時空間が《特異点》の未知なる世界へと壊滅し変化した音ならざる時空間の《断末魔》に俺には思へたが、お前はどう聞こえた?

――へつ、《断末魔》だと? はつはつはつ。俺には《己》が《己》を呑み込んで平然としてゐるその《己》が《げつぷ》をしたやうに聞こえたがね――。

――時空間の《げつぷ》? 

――否、《己》のだ! 

――へつ、だつて時空間もまた時空間の事を《己》と《意識》してゐる筈だらう? つまりそれは《時空間》が《時空間》を呑み込んで平然として出た《時空間》の《げつぷ》の事ぢやないのか? 

――さう受け取りたかつたならばさう受け取ればいいさ。どうぞご勝手に、へつ。

――……ところで《己》が《己》を呑み込むとはどう言ふ事だね? 

――その言葉そのままの通りだよ。此の世で《己》を《己》と自覚した《もの》は何としても《己》を呑み込まなければならぬ宿命にある――。

――仮令《己》が《己》を呑み込むとしてもだ、その《己》を呑み込んだ《己》は、それでも《己》としての統一体を保てるのかね? 

――へつ、無理さ! 

――無理? それじやあ《己》を呑み込んだ《己》はどうなるのだ? 

――……《己》は……《己》に呪はれ……絶えずその苦痛に呻吟する外ない《己》であり続ける責苦を味はひ尽くすのさ。

――へつ、《己》とは地獄の綽名なのか? 

――さうだ――。

――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?  

――じやあ、お前は《己》を何だと思つてゐたのだ? へつ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ? 

――そもそもだ、《己》が《己》であつてはいけないないのか? 

――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》ぢやないかね? 

――ちえつ。

――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。

――えつ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げつぷ》と言つた筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい? 

――その《げつぷ》が四方八方至る所で起こつてゐるとしたならば、お前は何とする? 

――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさてをき、これは愚問に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね? 

――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。

――それは詭弁ではないのか? 

――詭弁? 

――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね? 

――つまり、お前は《存在》すれば即《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふ事か……。

――さうだ。

――ふつ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前である事が《悦楽》なのかい? 

――《悦楽》? ははあ、成程、自同律の事だな。

――さう、自同律の事さ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもつて自認出来るかね? 

――ふつ、自同律が不快とばかりは決められないんぢやないかね? 自同律が《悦楽》であつてもいい筈だ。

――じやあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 

――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。

――ふはつはつはつ。冗談も大概にしろよ。

――冗談? 《己》が《己》である事がそんなにをかしな事なのかい? 

――《己》が《己》である事の哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》である事の底無しの哀しさを。

――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へつ。

――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 

――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れる事は未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行つてもこのざわめきから遁れられないのさ。

――へつ、だからこのざわめきを何とする? 

――ちえつ、お手上げと言つてゐるだらう。率直に言つて、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふ事さ。

――それぢや、このざわめきを受け入れろと? 

――ふん、現にお前はお前である事を受け入れてゐるぢやないか! 仮令《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。

――くいんんんんんん~~。

――ふつ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げつぷ》をしたぜ、ちえつ。

――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げつぷ》じやなくて《存在》の《溜息》ぢやないのかね? 《存在》が《存在》してしまふ事の哀しき《溜息》……。

――へつへつ、その両方さ。

――ちえつ、随分、都合がいいんだな。それぢや何でもありじやないか? 

――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。

――当たり前? 

――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい? 

――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じやなくて《自存》か? 

――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれた事があるかね? 

――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現する事を秘かに渇望してゐるんじやないのかな……。

――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも? 

――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。

――何故さう思ふ? 

――何となくそんな気がするだけさ。

 有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶかは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじつと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》する事を余儀なくせざるを得ない彼にとつて、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであつたが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となつて彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであつた。

 

…………

…………

 

――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか? 

――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする? 

――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。

――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい? 

――ああ。ひと度《存在》してしまつたならば仕方がないんぢやないか。

――仕方がないだと? お前はさうやつて《存在》に服従するつもりなのかい? 

――《存在》が自ら《存在》する事を受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であつてもな。

――それは、つまり、《死》が怖いからかね? 

――へつ、《死》を《存在》自らが決めちやならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》する事の宿業を味はひ尽くさなければならぬ義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。

――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと? 

――ふつ、違ふかね? 

――くいんんんんんんん~。

 また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げつぷ》か《溜息》か、将(はた)又(また)《嗚咽》かがhowlingを起こして彼の耳を劈くのであつた。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかつた。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howlingを起こす事で、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかつたのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまつた《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかつたのであつた。

 実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やつとの事で捕まへた《吾》をごくりとひと呑みする事で《吾》は《吾》である事を辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送つてゐたのであつた。

 

…………

…………

 

――《存在》は全て《吾》である事に懊悩してゐるのであらうか? 

――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》である事に懊悩する《存在》は《存在》する。

――ふつ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうつて次次と飛び込んでゐるのだらう……。さうする事で辛うじて《吾》は《吾》である事を堪へられる。ちえつ、「不合理故に吾信ず」か――。

――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か? 

――何を藪から棒に。

――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい? 

――それは天地左右からの解放といふ事かね? 

――へつ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。

――重力からの仮初の解放? へつ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない! 

――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね? 

――…………。

――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのぢやないかね? 

――へつ、その通りだ。

――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう? 

――ちえつ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れた事による《至福》といふ事かね? 

――へつ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふ事の皮肉以外の何ものでもないさ。

――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》ぢやないのかね? 

――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木つ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。

――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へつ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持つてゐるからなのか? 

――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。

――へつ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 

――だつて《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふ事に熱中出来るんだぜ。

――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げつぷ》をするか――。へつ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。

――それはどうしてか? 

――元元《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちえつ。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。

――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 

――ちえつ、何でもを見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であつた試しがない。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。

――くきいんんんんんんんん~~。

 一時も休む事なくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであつた。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸する事を余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとつては未知に違ひない世界で、膨脹する事を宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであつた。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違ひない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであつた。

――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 

――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なつてゐるからだらう? 

――己が己に重なり損なふといふ事は、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられぬといふ事に外ならないといふ事だらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 

――自己増殖したい為だらう? 

――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 

――ふつ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。

――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 

――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。

――あるらむ? 

――へつ、さうさ、あるらむだ。

――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 

――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふ事だ。

――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 

――時空間が自己増殖するその切羽詰まつた理由は何だと思ふ? 

――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。

――妄想の自己増殖と来たか――。

――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着ゐた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 

――ふつふつ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬ事を聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 

――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 

――へつ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかつたならば? 

――宇宙の《餌》? それは一体全体何の事だね? 

――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。

――生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふ事は、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばつくりと開けてゐるといふ事ぢやないかね? 

――ふつふつ、それはまたどうして? 

――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》する事を許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。

――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 

――当然だらう。

――当然? 

――《他》の宇宙、ちえつ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふ事を認識する屈辱を味はひはしないぢやないか! 

――やはり、《吾》が《吾》を認識する事は屈辱かね? 

――ああ。屈辱でなくしてどうする? 

――ふつふつ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 

――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。

――それはまたどうしてさう言ひ切れるのかね? 

――それは、この宇宙に《吾》であるといふ事を屈辱を持つて噛み締めながらもどうしても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。

――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。

――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 

――へつ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開ゐた穴凹ぢやないかね? 

――それは《特異点》の問題だらう? 

――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。

――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちつともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふ事だね? 

――例へば、巨大Black hole(ブラツクホール)は何なのかね? 

――ふつ、Black holeが《他》と繋がつた此の世に開ゐた、若しくはこの宇宙に開ゐた穴凹であると? 

――でなくてどうする? 

――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ、さう考へた方が自然だらう? 

――自然? 

――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》する事で颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 

――ふつ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 

――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。

――さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹する事が可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げつぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げつぷ》ぢやないのかね? 

――ふつふつふつ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げつぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 

――無難? へつ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。

――嘘? どうして嘘だと? 

――へつ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。

――へつへつへつ、図星だね。

 此の世に《存在》するあらゆる《もの》の《存在形式》は、此の宇宙の摂理に従属してゐると看做しなしてしまひ、そして、それをして此の宇宙たる《吾》が《存在》する《存在形式》を、例へば「《吾存在》の法則」と名付ければ、必ずそれに呼応した「《他存在》の法則」が《存在》すると考へた方が《自然》だと思ひながら、その《自然》といふ言葉に《自然》と自嘲の嗤ひをその顔に浮かべてしまふ彼は、此の《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》もまた《存在》するに違ひないと一人合点しては、

――ふつ、馬鹿めが! 

と、即座に彼を罵る彼の《異形の吾》の半畳にも

――ふつふつふつ。

と、皮肉たつぷりに己に対してか《異形の吾》に対してか解からぬが、その顔に薄笑ひを浮かべては、

――しかし、《自然》は《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》の出現を待ち望む故に、《吾存在》を呑み込む《吾存在》がその《吾》に拒絶反応を起こしてはこの耳障りな断末魔の如き《ざわめき》が《吾》の彼方此方にぽつかりと開ゐた《他》たる穴凹から発してゐるに違ひないのだ。

と、これまた一人合点する事で、彼は彼の《存在》に辛うじて我慢出来るそんな切羽詰まつたぎりぎりの《存在》の瀬戸際で弥次郎兵衛の如くあつちにゆらり、こつちにゆらりと揺れてゐる己の《存在形式》を悲哀を持つて、しかし、心行くまで楽しんでゐるのであつた。

 

…………

…………

 

――なあ、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙における《存在》もまた奇怪千万な《光》へと還元出来るのだらうか? 

――つまり、それつて《光》の《存在》が此の宇宙たる《吾》=宇宙と《他》=宇宙を辛うじて繋ぐ接着剤と看做せるか、といふ事かね? 仮にさうだとすればそれはまた重力だとも、さもなくば時間だとも考へられるね? 

――ああ、何でも構はぬが、《吾》が《存在》すれば、《他》が《存在》するのが必然ならばだ、此の宇宙が《存在》する以上、此の宇宙とは全く摂理が違ふ、つまり、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙は何としても《存在》してしまふのは、《もの》の道理だらう? 

――ああ。

――そして、《吾》と《他》は何かしらの関係を持つのもまた《もの》の道理だらう? 

――ああ、さうさ。此の世における《他》の《存在》がそもそも「《他存在》の法則」を暗示させるし、《他》が《存在》すれば《吾》と何かしらの関係を《他》も《吾》も持たざるを得ぬのが此の宇宙での道理だが、さて、しかし、仮令《他》=宇宙が《存在》してもだ、此の《吾》=宇宙と関係を持つかどうかは、とどのつまりは「《他存在》の法則」次第ぢやないかね? 

――それは《吾》と《他》が関係を持つのは徹頭徹尾、此の《吾》=宇宙での「《吾存在》の法則」による此の世の出来事は、《他》=宇宙での「《他存在》の法則」に変換出来なければならず、つまり、換言すれば、《吾》=宇宙と《他》=宇宙の関係は関数で表わされねばならず、更にそれは最終的には光といふ奇怪千万な《存在形式》に還元されてしまはなければならぬといふ事だね? 

――ああ、さうさ。

――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふ事だね? 

――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢやないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙つて見知らぬ《他》は厳然と数多《存在》するぢやないか。 

――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふ事なく、一見《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持つてしまふと考へられぬかね? 

――へつ、つまり、此の宇宙も数多《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと? 

――へつへつへつ、その「大宇宙」もまた数多《存在》するつてか――。

――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると? 

――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。

――何故かね? 

――ふつ、唯、そんな気がするだけさ。

――そんな気がするだけ? 

――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとつては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。

――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会つた場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちえつ、それは爆発的に誕生すると言つた方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君はどう思ふ? 

――それは銀河同士の衝突を思つての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかつたに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききいんんんんん~~」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。

――へつ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげつぷだらう、その《ざわめき》は? 

――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげつぷさ。

――くくくききききいんんんんん。

と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであつた。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を

――あつは。

と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかつたのであつた。

――ぷふい。

 

…………

…………

 

――何がをかしい? 

――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺にはをかしくて仕様がないのさ。

――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へつ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にあるをかしさは、最早嗤ふしかないぢやないか。

――あつは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやつて《吾》と《他》は輪廻する。

――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふ事だらう? 

――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。

――《存在》の原質? 

――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもつてして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたつてゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通つて生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。

――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になつてしまふといふ事か? 

――だから、げつぷなのさ。《吾》はげつぷを発する事で朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちえつ、《吾》は《吾》である事を受容するのさ。

――受容するからこそ《吾》がげつぷを発する、否、発する事が可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢやないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。

――さう。全《存在》が己の事を自己同一させる事を拒否するのが此の世の摂理だとすると、へつ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負つた此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。

――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢやないか! 

――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。

――へつ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね? 

――特異点を見出してしまつた時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(をもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると? 

――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある? 

――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると? 

――ぶはつ。

――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちえつ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》する事で既に特異点を暗示しちまふのさ。

――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(をほ)せると? 

――現にお前は《存在》してゐるだらう? 

――くきいんんんんん――。

と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであつた。

 

…………

…………

 

――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。

――ふつふつふつ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。

――やはり、《存在》は仮初かね? 

――仮初でなけりや、何《もの》も《吾》である事に我慢が出来ぬではないか! 《存在》は《存在》において、《一》=《一》を見事に成し遂げ、此の世ならざる得も言はれぬ恍惚の境地に達するとでも幽かな幽かな幽かな幻想でも抱いてゐたのかね? 

――それぢや、お前がげつぷと言ふこの不愉快極まりない《ざわめき》は何なのかね? この《ざわめき》こそ《存在》が《存在》しちまふ事の苦悶の叫び声ではないのかね? 

――仮にさうだとしてお前に何が出来る? 

――やはり、苦悶の叫び声なんだな……。

――さう。《存在》するにはそれなりの覚悟が必要なのさ。だが、今もつて何《もの》も《吾》が《吾》である事に充足した《存在》として、此の全宇宙史を通じて《存在》なる《もの》が出現した事はない故に、へつ、《吾》が《吾》でしかあり得ぬ地獄での阿鼻叫喚が《ざわめき》となつて此の世に満ちるのさ。しかし、その《吾》といふ名の地獄での阿鼻叫喚は苦悶の末の阿鼻叫喚であつた事はこれまで一度もあつたためしがなく、つまり、地獄の阿鼻叫喚と呼ぶ《もの》の正体は、《吾》が《吾》である事に耽溺した末の《吾》に溺れ行く時の阿鼻叫喚、つまり、性交時の女の喘ぎ声にも似た恍惚の歓声に違ひないのさ。

――歓声? 

――さう。喜びに満ちた《存在》の歓声さ。

――ちえつ、これはまた異な事を言ふ。この不愉快極まりない《ざわめき》が喜びに満ちた歓声だと? 

――性交時の女の喘ぎ声にも似た《吾》が《吾》の快楽に溺れた歓声だから、へつ、尚更、《吾》はこの《ざわめき》が堪らないのさ。惚れた女の恍惚の顔と喘ぎ声は、男を興奮させるが、しかし、その興奮は、また、気色悪さで吐き気を催す感覚と紙一重の違ひでしかなく、つまり、酩酊するのも度が過ぎれば嘔吐を催すといふ事に等しく、女と交合してゐる男は、さて、どれ程恍惚の中に耽溺してゐる《存在》か、否、交合においてのみ死すべき宿命の《存在》たる《吾》といふ名の《地獄》が極楽浄土となつて拓ける――のか? 

――つまり、約めて言へば、この《ざわめき》は恍惚に満ちた《他》の《ざわめき》だと? 

――さうさ。

――すると、《吾》にとつて《他》の恍惚が不愉快極まりないのは、《吾》が《吾》に耽溺するその気色悪さ故にその因があると? 

――当然だらう。特異点では別に《一》=《一》が成り立たうが、成り立たなからうが、どうでもよい事だからな。

――へつ、そりやさうだらう。だが、《一》の《もの》として仮初にも《存在》せざるを得ぬ《吾》なるあらゆる《もの》は、此の世で《一》=《一》となる確率が限りなく零に近いにも拘はらず、《吾》は現世において《吾》=《吾》を欣求せずにはいられぬ故に、ちえつ、《吾》は《吾》に我慢がならず、その挙句に《吾》は《吾》を忌み嫌ふ結果を招くのではないか? 

――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾《吾》を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 

――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 

――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 

――当然だらう。

――当然? 

――所詮、《存在》は、ちえつ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。

――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。

――さうさ。《一》すらも、へつ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被つた《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被つた《存在》として此の世に現はれなければをかしいんだぜ。

――へつ、さうだとすると? 

――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 

――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。

――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へつ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 

――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげつぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。

――くきいんんんんん――。

 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであつた。

――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 

――ああ、さうさ。

――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 

――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまつた《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちえつ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。

――ちえつ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙つて一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。

――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 

――後は野となれ山となれつてか――。つまり、《他》によつて観測の対象になり下がつてしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちえつ、忌忌しい事だがね。

――だから、《存在》は皆《ざわめく》のさ。

――つまり、《一》者である事を《他》の観測によつて強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は-∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちえつ、実在出来ぬとすると、へつ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。

――くきいんんんんん――。

――だからどうしたと言ふのかね? へつ、哀しい《もの》だからと言つて、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を已められるかね? 

――へつ、已められる訳がなからうが――。

――土台、《吾》とは何処まで行つても《吾》によつて仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によつて観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。

――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 

――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であつて、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へつ、何時迄経つても已められぬのだ。哀しい哉、この《存在》といふ《もの》は――。

――へつ、男女の交合の時の愉悦? さて、そんな《もの》が、実際のところ、《吾》にも《他》にもあるのかね? 

――多分、ほんの一時はある筈さ。それも阿片の如き《もの》としてな。また、チベツト仏教では男女の交合は否定されるどころか、全的に肯定されてゐて、男女間の交合は悟りの境地の入り口でもある。

――つまり、男女の交合時、《吾》と《他》は限りなく《一》者へと漸近的に近付きながら、《吾》と《他》のその《一》が交はる、つまり、《一》ではない崇高な何かへと限りなく漸近すると? 

――へつ、此の世に《一》を脱するかの如き仮象に溺れる愉悦が無ければ、《存在》は己の《存在》するといふ屈辱には堪へ切れぬ《もの》なのかもしれぬな。

――だから、《吾》は《吾》を呑み込む時、不快なげつぷを出さざるを得ぬのさ。

――はて、一つ尋ねるが、男女の交合の時、その《存在》は不快なげつぷを出すのかね? 

――喘ぎはするが、げつぷはせぬといふのが大方の見方だらう。だがな……。

――しかし、仮に男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快を体現してゐると定義出来たならばお前はどうする? 

――ふつふつ。さうさ。男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快の体現だ。

――つまり、男女の交合時、男女も共に存在し交合に耽るのだが、詰まる所、男女の交合は、交合時にその男女は己の《吾》といふ底知れぬ陥穽に自由落下するのだが、結局のところ、《他》が自由落下する《吾》を掬ひ取つてくれるといふ、ちえつ、何たる愚劣! その愉悦に、つまり、一対一として、《吾》が此の世では、やはり、徹頭徹尾、《吾》といふ独りの《もの》でしかない事を否が応でも味ははなければならぬ。その不快を、《吾》は忘却するが如く男女の交合に、己の快楽を求め、交合に無我夢中になつて励むのが常であるが、それつて、詰まる所、自同律からの逃避でしかないのぢやないかね? 

――つまり、男女の交合とは、仮初にも《吾》と《他》との《重ね合はせ》といふ、此の世でない彼の世への入り口にも似た《存在》に等しく与へられし錯覚といふ事か――。

――くきいんんんんん――。

――でなければ、此の世を蔽ひ尽くすこの不快極まりない《ざわめき》を何とする? 

――それでは一つ尋ねるが、男の生殖器を受け入れた女が交合時悲鳴にも似た快楽に耽る喘ぎ声を口にするのもまた自同律の不快故にと思ふかね? 

――さうさ。男の生殖器すら呑み込む女たる雌は、男たる雄には到底計り知れぬ自同律の不快の深さにある筈さ。

――筈さ? ちえつ、すると、お前にも男女の交合の何たるかは未だ解かりかねるといふ事ぢやないかい? 

――当然だらう。現時点で《吾》は《死》してゐないのだから、当然、正覚する筈も無く、全てにおいて断言出来ぬ、《一》ならざる《存在》なのだからな。

――しかし、生物は《性》と引き換へにか、《死》と引き換へにかは解からぬが、何故《死》すべき《存在》を《性》と引き換へに選択したんだらう? 

――それは簡単だらう。つまり、《死》と引き換へに《性》を選び、《死》すべき《存在》を選ばざるを得なかつたのさ。それ以前に、《存在》とは《死》と隣り合はせとしてしか此の世に《存在》する事を許されぬのではないかね? 

――くきいんんんんん――。

――それはまた何故? 

――約めて言へば種の存続の為さ。

――ちえつ、つまり、種が存続するには個たる《存在》は《死》すべき《もの》として此の世に《存在》する事を許された哀れな《存在》でしかないのさ。

――だが、その哀れな《存在》で構はぬではないか。

――ああ。不死なる《存在》が仮に《存在》したとしてもそれはまた自同律の不快を未来永劫に亙つて味はひ尽くす悲哀! 

――それを「《吾》、然り!」と受け入れてこその《存在》ぢやないのかね? 

――ふつ、「《吾》、然り!」か……。しかし、《吾》は気分屋だぜ。

――だから「《吾》、然り!」なのさ。

――つまり、《存在》は、即ち森羅万象は、全て「《吾》、然り!」と呪文を唱へてやつと生き延びるか――。

――例へば《存在》が《吾》を未来へと運ぶ、若しくはRelayする《もの》だとしたならば?

――ふつ、つまり、DNAが《存在》を、否、《私》なる自意識を未来へ運ぶ乗り物と看做す、へつ、一つの「見識」ある考へ方を持ち出して、仮初の《合理》を得ると言ふ、つまり、現代の迷信にもなり兼ねない《科学》的なる《もの》を持ち出す馬鹿馬鹿しい話をしたいのかい?

――馬鹿な話? 何故に馬鹿な話と断定できるのかね?

――《科学》は絶えず時代遅れの概念になつちまふからさ。

――例へばここで「クオリア」といふ《もの》を持ち出して、人間の感覚、または、統覚について何かを語る事がすでに時代遅れと言ふのかね?

――さうさ。《科学》的なる思考は、若しくは概念は絶えず《更新》されるべく《存在》してゐるからさ。

――つまり、《存在》を意識する《吾》もまた「クオリア」だとして、その《吾》といふ《もの》が、仮初にも《科学》を受け入れるならば、《吾》なる《もの》、その《吾》といふ「クオリア」もまた絶えず《更新》されてゐると?

――違ふかね?

――さうすると、《吾》は《吾》によつて絶えず乗り越えられるといふ思考は、下らぬ自己満足でしかないといふ事か……。

――さうさ。「クオリア」を《吾》が《吾》に対する表象と同義語と看做すならばだ、《吾》なる《もの》はそれが何であれ「《吾》、然り!」と全的に自己肯定して此の世界を闊歩するのが一番さ。

――絶えずこの世界を《肯定》せよか――。

――然しながら、それが出来ぬのが《存在》のもどかしさではないかね?

――くきいんんんんん――。

――ちえつ、厭な《ざわめき》だぜ――。

――ここで謎謎だ。「絶えず虐められながら、また、その《存在》をこれでもかこれでもかと否定し続けられつつも、その《存在》は《存在》する事を痩せ我慢してでも《存在》する事を強ひられる《もの》とは」何だと思ふ?

――ちえつ、下らぬ。

――さう、下らぬ《もの》からお前はこれまで一度も遁れられた事はないのだぜ。そら、何だ?

――くつ、答へは簡単「《吾》」だ!

――ご名答!

――だから何だといふのかね?

――つまり、此の世の森羅万象は、ひと度《存在》しちまふと、最早それから遁れられぬ宿命にある。

――だから?

――だから、《吾》もまた《科学》と同様に絶えず乗り越えられる《存在》なのさ。

――くきいんんんんん――。

――それは逃げ口上ぢやないかね?

――逃げ口上? 何処がかね?

――つまり、《吾》も《科学》も「先験的」に乗り越えられねばならぬ《もの》と規定してゐる処が、そもそもその《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》からの遁走ぢやないのかね?

――ふつふつふつ。それは《吾》の幻想でしかない!

――つまり、「ごつこ」遊びと同じといふ事かね?

――さう。《吾》は絶えず「《吾》ごつこ」をする様に仕組まれてゐるのさ。

――しかし、現実においても《吾》が《存在》する以上、「ごつこ」では済まないのと違ふかね?

――さうさ。しかし、現実においても《吾》の事を自ら名指して「《吾》ごつこ」を無理矢理《吾》と見立ててゐる勘違ひした《存在》のなんと多い事か、ちえつ!

――ちよつ、待て! 《吾》は絶えず《更新》され其処から遁走する事を仕組まれた《存在》ならば、絶えず「《吾》ごつこ」、つまり、仮象の《吾》をのつぴきなぬ故にでつち上げざるを得ずにその仮象の《吾》を以てして《吾》は《吾》から絶えず遁走する術として「先験的」に仕向けられてゐるのぢやないかね?

――ふつ、さうさ。その通りだ。

――つかぬ事を訊くが、《吾》とはそもそもからして《更新》される《もの》として如何にして規定出来るのかね? つまり、《更新》される《吾》こそ見果てぬ夢の類でしかないのぢやないかね?

――つまり、《更新》される《吾》とは《吾》に関する進歩主義的な、ちえつ、何と言つたらいいのか、つまり、《吾》とは絶えず《更新》してゐる《もの》と看做す事で自己陶酔に溺れる。

――それで?

――つまり、《吾》は《更新》されるのぢやなく、唯、《変容》してゐる、否、《変容》する《吾》を夢見てゐるに過ぎぬのぢやないかね?

――だとして、何かご不満でも?

――いや、何、《吾》とは、哀しき哉、《吾》に忌避され、また、《吾》自身に追ひ詰められる堂堂巡りを未来永劫に亙つて繰り返されるのみの、夢幻空花なる幻でしかないのぢやないかね?

――だからどうしたと言ふのか! そもそも《吾》なる《もの》が《吾》を問ふ事自体、数学の再帰関数のやうなもので、《吾》の基底の値が決定されれば、その《吾》といふ再帰関数はたちどころに解けてしまふ代物ぢやないのかね?

――へつ、《吾》の基底の値が《存在》するか如くに絶滅せずに『汝自身を知れ!』と何時の時代でも問ひ続けて来た一種族が人間ぢやないのかね?

――くきいんんんんん――。

 と、またしても深い極まりない耳障りな《ざわめき》が彼の耳を劈くのであつた。暫く彼は黙してその不快な《ざわめき》が消えるのを待つて、そして、かう自身の《異形の吾》に吐き捨てるやうに言つたのであつた。

――ちえつ、厭な耳鳴りだぜ。

――ふつふつふつ。これは此の世の森羅万象がひそひそ話をして、そして、吾等の対話の行く末に聞き耳を欹ててゐるクオリアがこの耳障りな《ざわめき》の正体かもしれないぜ。

――何を今更。お前は、この《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時の《げつぷ》だと先に言つた筈だかね?

――だから尚更この《ざわめき》は、此の世に《存在》すべく強要された《存在》共達の、『《吾》は何処?』『《吾》は何?』といふ恰も迷子の幼児が泣き喚く様に似た切実な問ひでもあるのさ。

――何を言つてゐるのかね? 一体全体お前は何を言つてゐるのかね? 俺にはお前の言つてゐる事が全く理解出来ぬのだがね?

――つまり、《吾》は《吾》を呑み込む事で《吾》を《更新》させ、或ひは《吾》と《吾》との差異が《げつぷ》となつて発せられる事で生じる《吾》の《変容》にぢつと我慢し、この不快極まりない《吾》が《吾》である事の事実を、或る時は忌避し、或る時は追ひ詰めて、絶えず《吾》は《吾》といふ鬼を探す鬼ごつこに夢中な幼児の如く、つまり、《存在》の幼子でしかないのさ。

――《存在》の幼子とは一体全体何の事かね?

――つまり、《存在》はそれが何であれ《吾》といふ《もの》を探す青臭い《存在》といふ意味さ。

――つまり、《吾》は何時まで経つても成熟しないといふ事かね?

――否。《吾》は何度も成熟、否、爛熟したが、その《吾》はさうなると死臭を漂はせ、己の内部から腐乱して行くのさ。そして、その爛熟した《吾》は其処で死滅するのさ。つまり、成熟、若しくは爛熟した《吾》は、その《吾》が《存在》したとしても既に絶滅する外ない代物で、一方で、何とも青臭い思惟形式を持つた《吾》のみが『《吾》然り!』と言へずにその種を存続させ、後裔に《吾》探索を託すのさ。それ故に、青臭い《存在》のみが此の世に生き残つてゐる。

――ふむ。すると、《吾》が《吾》である事を『《吾》然り!』と歓声を上げて、その歓びを知つてしまつた《吾》は既に成熟してゐる故に、其処で種は残せず、その成熟した種は知らぬ内に内部腐乱を起こしていて息絶えるといふ事か――。

――くきいんんんんん――。

――種が存続するには、その種はまだ《変容》出来る余地のある青臭い《存在》でなければならないのさ、此の世の摂理は、へつ。

――つまり、青臭い未成年のやうな《存在》は、《変容》出来る伸び代がある故に、また、青臭い《存在》は寂滅するのに未練たらたらで入滅する故に、青臭い《存在》は、種を残せたのだか、《吾》が何なのか大悟してしまつた正覚者のやうな《存在》は、種を残す事すら、その必然性から既に脱落してゐる故に、只管、《吾》の腐乱をそのまま止める事なくぢつと黙して味はひ尽くす境地に至つてゐるといふのが、此の世の摂理かね? それつて、つまり、大悟した正覚者とは理性の奴隷の事ではないのかね?

――さて、理性的なる大人物は、正覚者と言へるのか、といふ問題が其処には横たはつてゐるのだが、私の私見を言へば、理性的な大人物とは《神》との契約の末に《神》の下僕に為り得た《存在》でしかなく、《神》無しの正覚者とは、その根本がそもそも違つてゐるやうな気がする。つまり、理性といふ《もの》が既に《神》の《存在》を所与の《もの》としてゐるのさ。

――くきいんんんんん――。

――ちえつ、また何処かで《吾》が《吾》を呑み込んで不快な《げつぷ》を放つたぜ。

――此の世に《存在》が《存在》する以上、この不快な自同律の齟齬を来たした《げつぷ》はなくならないぜ。

――つまり、此の世は《存在》の《げつぷ》、それを換言すれば、《存在》の呻吟に満ち満ちてゐる、ちえつ、不快極まりない不協和音に満ちてゐるといふ事か。

――絶えず、《存在》は《吾》に為りたくて仕様がないのだが、その《吾》は絶えず、《存在》から零れ落ちてゐるといふ、未来永劫に続く《吾》を追ふ「鬼ごつこ」をするだけで、その一生、つまり、《存在》が《存在》であり続ける閉ぢた時空間で、《吾》なる事を此の世の森羅万象は、ぢつとその不快を噛み締めてゐるのさ。

――ならば、大悟した正覚者はこの不快な《ざわめき》を何とする?

――別に何ともしない。正覚者は、この不快な《ざわめき》すらに此の世の法を見、そして、菩薩となつて、その慈悲に満ちた心で衆生を《吾》の安寧の地へと導くのさ。

――つまり、菩薩は此の世の森羅万象の懊悩を独りで背負ふ、逆Pyramidの階級社会のその底に安住の地を見出した、例へばドストエフスキイの大審問官に等しい《存在》かね。

――否。菩薩は、この自然、否、諸行無常なる世界を全的に肯定出来てしまつた哀しき《存在》なのさ。

――菩薩が、哀しい? これは異な事を言ふ。菩薩は愉悦に満ちた《存在》ではないのか?

――否。懊悩の陥穽の底無しの深淵に自ら飛び込んで、それまで懊悩の相であつた《もの》が、或る刹那、突然、相転移を起こし、愉悦、つまり、懊悩即愉悦の秘法を手にした選民の事をお前は大審問官と言つたのだらうが、菩薩が深い懊悩にあるのは火を見るよりも明らかだ。千里眼といふ言葉があるだらう。つまり、菩薩といふ《もの》は何でもその《存在》の《存在》する所以をその千里眼で見通す事が出来る《もの》が菩薩であり、正覚者なのだ。

――見通すだけ? たつたそれだけの事が菩薩の菩薩たる所以? ちえつ、馬鹿らしい。

――それでは尋ねるが、お前は、此の世の何を見通せるのか? 《吾》すらも見通せぬ《もの》が、果たせる哉、何を見通せる?

――つまり、菩薩は《吾》に明るい《存在》といふ事かね?

――否。それぢや、己が《死》すべき宿命にある事を認識する「現存在」に過ぎぬ。

――ならば、そもそも菩薩とは何なのかね?

――此の宇宙が存続する限り、その精神がその時代、その時代の「現存在」、或るひは、森羅万象でも構はぬが、その《存在》によつて精神がRelayされる《念》力を持つた《存在》こそが菩薩さ。

――《念》力? Occult(をカルト)か、へつ。

――ならば、此の宇宙史は何故に存続し続けるのか? つまり、何故に歴史が《存在》するのだ。過去の遺産を受け継がずば、歴史なんぞはそもそも《存在》しないだらう?

 彼は、只管、己の内部に棲まふ《もの》共の他愛のないひそひそ話をそれが為すがままに任せて、ぢつと耳を欹(そばだ)てて聞いてゐたのであつたが、その彼は、時折、気色が悪い薄笑ひを口辺に浮かべて、更に自己の内部の未開の地に棲まふ《もの》を弄(まさぐ)るやうに己の頭蓋内にぬつと仮象の手を伸ばして、その頭蓋内の闇に今もひつそりと身を潜め蹲つたままの未知の己を引き摺り出す事にのみ耽溺してゐるのであつた……。

――歴史とは、《存在》の未練たらたらの《念》によつてRelayされた《もの》によつて、漸く成り立つてゐる羸弱極まりない《もの》に過ぎぬといふのかね?

――《存在》が嘗て此の世に《存在》したんだぜ。その《存在》の《念》がそんな脆い《もの》の筈がなからうが。《念》程、此の世で強力な《もの》はないぜ。

――そして、菩薩かね? ふつ、ちやんちやらをかしい!

――しかし、或る国では死んだ《もの》は大概神的な何かへ昇華するのを何とする?

――しかし、《存在》が死したからと言つて、その《存在》は永劫に完結しない何かなのもまた確かだぜ。

――お前は、《げつぷ》と言ふが、それは《げつぷ》などではさらさらなく、《存在》の呻吟ぢやないかね?

――馬鹿が! 声にすら出来ぬ《もの》が五万と重ね合はさつてゐるからこそ《げつぷ》でしか表現出来ぬのが解からんのか。だから、お前にとつても、否、誰にとつても不快極まりない耳障りな《ざわめき》なのだ。

――つまり、《存在》が永劫に完璧なる《存在》に死しても尚、為り得ぬ故の己に対する齟齬が、この耳障りな《ざわめき》の正体とでも言ふのかね?

――これは散散話して来たが、此の世の森羅万象が、己に対して絶えず、齟齬を来たしてゐる事は、此の世が或る意味健全な事の筈だがね。大悟した正覚者はその《生》を、若しくはその《存在》を内部より爛熟させたが為に種を残す事無く自滅し、腐乱し行くに任せるままに己の死を存分に味はつた《もの》以外、大悟なんぞ出来やしないぜ。多分、大悟した正覚者は、どん底の絶望にある筈の《存在》の澱みを濁り酒を呷るが如く、一滴たりとも遺さずに飲み干した《存在》に違ひなく、しかし、そんな事は森羅万象の何《もの》も未だ為した《もの》はをらぬ筈で、それが出来た《もの》が正覚者に違ひないと思ふがね。つまり、どん底の絶望なんて知らぬが仏が一番いいに越した事はなく、《生》ある《存在》にとつてそれは死臭が漂ふ内部崩壊を齎すしかない危険極まりない毒薬に近しく、その絶望にあるに違ひない《存在》の澱みは、絶えず《存在》に呑まれる事を待ち続け、そして、その毒薬の如き《存在》の絶望で出来た濁り酒を、敢へて呷り大悟する事を渇望する大馬鹿者の出現を絶えず待ち望んでゐるのが此の宇宙ぢやないかね? この《存在》の絶望で出来た澱みは、然しながら、誰彼なく憑依する厄介者と来てゐるから、《存在》は彼方此方で呻吟するのだ。

――え? お前は一体何を語つてゐるのかね? さつき、菩薩は底無しの《存在》に必ず開いてゐる懊悩といふ陥穽へと自ら入水(じゆすい)する如くに投身し、その身を全て《他》に任せ切つた処で、忽然と《世界》は相転移を起こし、懊悩が即愉悦へと変化する極楽浄土が出現するのぢやなかつたつけ。

――それはその通りだが、ならば一つ尋ねるが、お前は菩薩かね?

――うむ。どう見ても違ふな。

――当然さ。その《存在》が菩薩かどうかを決めるのは徹頭徹尾《他》だからね。だから、死に行く《存在》は凄まじき《念》を此の世に未練たらたらに遺して、歴史を絶えず作り続けてゐるのさ。此の《念》は馬鹿には出来ない恐るべき力が秘められた《もの》で、《念》が宿つてゐてその宿主が死んでも此の《念》なる《もの》は死す事はなく、次の宿主を探してそれを見つけたならば、直ちにその《存在》に死すまで憑りついて、己の《存在》を呻吟させて已まないのだ。その結果、《吾》を呑み込む《吾》は、その《吾》に対して其処に《吾》とは決して相容れる事のない齟齬を来たした《吾》を呑み込まなければならず、《吾》たる《存在》は絶えず《げつぷ》を吐き出すのさ。その《げつぷ》が不快な《ざわめき》となつて此の世に遍在し、未来永劫に亙つて《吾》に為れず仕舞ひの怨嗟が絶えず此の世に満ち満ちてゐるからこそ、《吾》は何とか生きて行けるのさ。

――つまり、お前が《念》と言つてゐるのは精神のRelayの事かな?

――或ひはさう看做してもいいのかもしれぬが、しかし、一冊の本に宿る《念》の強靭さは、誰もが味はつてゐるので解かると思ふがね。

――しかし、お前の言ふ《念》は、例へば《生者》に憑依する霊の如き《もの》に思へて仕様がない。

――さうさ。幽霊さ。否、亡霊か。此の世に《死》した《もの》の《存在》を無視する事は一切出来ぬ相談だ。然しながら、《生者》は常に《死者》の思ひを裏切り続けながら日常を生きてゐる場合が殆どだらう。誰も何かをする時に《死者》や未だ生まれ出ぬ《未来人》に思ひを馳せ、それを念頭に置いて何かを行ふ事は皆無だらう。しかし、或る種の《存在》には霊が憑依し、また、未だ生まれ出ぬ《未来人》に思ひを馳せて《吾》を問はずにはゐられぬ《生者》が少ないが確実に《存在》する筈さ。

――だが、霊なのかどうかは知らぬが、《死者》の《念》を引き受けた《生者》がゐるとして、その《念》にもまた、生存競争が確実に《存在》する筈で、その証左に数多の《死者》、そして、未だ生まれ出ぬ《未来人》の《念》は、幾人かの限られた《存在》に象徴され行く。その《念》は、例へば書籍となつて現在に引き継がれてゐるが、それは絶えず《生者》の厳しい目に晒されて、《死者》の《念》は取捨選択されて、例へば、現在、膨大な数の本が出版されてゐるが、そのうち一体何冊が、百年後、千年後に、そのお前が言ふ《念》を残してゐるかどうか高が知れてゐるのぢやないかね?

――哀しい哉、その通りさ。現在の《生者》が全て《死者》になつた時点で、《念》として残るのは、微微たる《もの》だらう。だから、尚一層、残つた《念》は、《生者》への憑依は強烈で、《生者》を覚醒させる起爆剤になるだけの物凄い力を秘めてゐるのさ。だから、現在、読み継がれてゐる作品の《念》はそれはそれは強烈で、絶えず《生者》を鼓舞して已まないのさ。

――成程。それ故に、故人に対する根強い信仰が生まれ、そして、現在を生きる現代人は宗教のために戦争が出来るといふ訳かね? そんな《念》なら滅んだ方がましぢやないかい?

――だが、《生者》は誰も未来を知らない。此処で《個時空》の考へ方を当て嵌めると過去は未来に簡単に反転出来るので、それ故に、故人の生き方に範を求め、そして、《吾》を見出すのさ。

――《死者》の《念》を毒とも良薬とも全く解からずに《生者》はそれを呷るしかないのか――。

――《死者》の強烈な《念》を毒にも良薬にもするのはひとへに《生者》にかかつてゐる筈だがね。

――つまり、基督や仏陀ムハンマドやヤハウエやブラフマー神やヴイシユヌ神やシヴア神などの神仏として祈りの対象になつてゐる少数の《もの》の《念》は、《生者》の心を揺さぶらずにはいられぬ程に強烈で、《生者》はそれら《死者》や《神》の言葉に帰依する事で、不合理極まりない現実を生き続けてゐるとするとだ、《死者》の《念》が取捨選択されるとはいへ、それは、或る象徴的な《死者》の《念》に収斂するが、しかし、その背後には、連綿と数多の人びとに祈り続けられてきたといふ数多の《念》が隠されてゐて、《生者》はさうして残された《死者》の言葉の重みを感じずにはゐられず、それ故に、信仰が生じるといふ事か。ふむ。だが、この不合理極まりない《ざわめき》は一体全体どうした事なのだらうか? もしかすると、《死者》もまた《吾》を探して、その《吾》をごくりと飲み干したいが為に、この不快な《げつぷ》を発してゐるのではないだらうか?

――仮にさうだとしてどうしたといふのかね?

――さうすると、此の世に《吾》は元来《存在》していないのぢやないか? どう思ふ?

――ふつふつ。ぢやあ、お前は、お前の事を《吾》と思はないのかい?

――私は、己の事を半分は《吾》かもしれぬが、残りの半分は《吾》以外の何かで、それは今の処全く解からず仕舞ひで、《吾》は《吾》にとつてこれまで《吾》であつた例がないのが、実際の処だ。

――それは当然だらう。《吾》が全宇宙史を通して確率《一》として《存在》した事はないのだからな。

――それは《神》に対しても当て嵌まる事かね?

――当然だらう。此の世に《存在》しちまつた《もの》全てが、大悟しない以上、《神》もまた下唇をくつと噛んで、地団駄を踏んでゐるに違ひないのさ。ふつ、ところが、《神》と大悟が結び付く事は、全くの誤謬でしかないのさ。なにせ、仏教に《神》はゐないのだからな。

――だから、尚の事、《存在》が《神》と同等に対峙するには大悟する外ないのさ。

――つまり、正覚、若しくは大悟した《もの》は《神》的な《存在》に為り得るとお前は看做してゐるといふ事か。ふつ、馬鹿らしい。それは詰まる所、《神》といふ《有》と正覚、若しくは大悟の《無》との対決に終始し、その有様は誰もが虚しい《もの》だといふ事を予想出来る下らぬ代物だぜ。

――果たして、さうなのかね? 《有》と《無》の対峙なんて、此の宇宙が《存在》する限り絶対にあり得ぬ筈だがね。

――つまり、或る《存在》が大悟し《神》と対峙した場合、此の宇宙誕生前、若しくは此の宇宙の死滅後の何かを垣間見する事が可能に為り得るといふ事かね?

――それは例へば物質と反物質とが出合ひ、発光して消滅するやうに、此の世ならぬ位相で、ぱつと光を発するが如くに一瞬にして《有》と《無》との対峙が終はり、そして何かを生んでしまふ端緒に違ひないのさ。

――何を馬鹿な! 現に《有》と《無》は此の世に確かに《存在》し、だからと言つて《有》と《無》が出合つた処で何にも生まれやしないぜ。それはお前のみのお目出度い独断だらう?

――ああ、さうさ。しかし、此の世の《存在》、つまり、此の世の森羅万象は、《無》の様相も包有してゐるのは間違ひないだらう?

――《無》ねえ。それはむしろ《虚》ではないかね?

――《虚》か。ふむ。因みに虚数i×零は零かね?

――零だ。

――つまり、それらの事から導き出される事は、《虚》対《無》といふ事象が此の世に起こり得るならば、未だ《存在》には人知を超えた事象が含まれてゐるといふ事かね。

――多分、《有》対《無》も、《無》対《虚》も、《有》対《虚》も、《存在》次第で如何様にでも変はる事象に違ひない。事象が如何様にも変はる故に《吾》は厳然と此の世に《存在》するのと違ふかね?

――つまり、《吾》の《存在》が《有》、《無》、《虚》の事象を此の世に生滅させてゐると?

――さう考へるのが自然だらう?

――ふむ。自然ね。その《自然》といふ概念が《存在》の陥穽と違ふかね? 最後の処で、《存在》は必ずと言つて言ひ程《自然》を持ち出すが、詰まる所、お前は《自然》といふ概念はあらゆる《もの》が道理に適つてゐる状態と考へての事かね?

――さあ、解からぬ。

――解からぬ? ふつ、それぢや、お前は、何も解からずに《自然》なる言葉を持ち出したのかね? ふつ、如何にも「現存在」たるお前らしい物言ひだな。ならば、一例として私の考へを直截的に言へば、《自然》程不合理極まりない《もの》はない!

――何故に?

――現にお前は己の《存在》に疑念を抱いてゐる。それ程不合理な事はないだらう?

――ふつ、《吾》が《吾》を取り逃がす、此の世の理……つまり、《自然》が不合理極まりないか。それはその通りに違ひないが、《存在》は森羅万象、《自然》である事を渇望してゐるが、それを成し遂げた《存在》が、例へば人間以外の動植物であるとは看做せないかね?

――否、人間以外の動植物も決して《自然》であつた事はなく、これからも《自然》である筈がない。

――何故、人間以外の動植物が《自然》でないのかね? ならば、《自然》とは何なのかね?

――つまり、《自然》とは《存在》が《存在》でなくなる理とでも言つておくかな。これならば人間以外の動植物も《自然》とは無縁な《存在》と言ふ事になるだらう。

――《存在》が《存在》でなくなる理が《自然》ならば、それは《死》の事ではないのかね?

――ふつふつふつ、ならば《死》が《自然》と言ふ事でいいだらう? 何か不満でも?

――ならば《生》は何なのかね?

――簡単さ。《不自然》さ。

――馬鹿らしい! 《生》が《不自然》な筈はなからう。

――さて、その根拠は?

――現に私は此の世に生きてゐるからさ。

――高がそれだけの理由で《生》が《自然》な事と看做してゐるのかね? それでは一つ尋ねるが、何故に《生》なる《存在》はいとも簡単に《死》ぬのかね? 《生》である事が、特別な事だとは思はなぬのか! へつ、それは《生者》の傲慢といふ《もの》だぜ。だからお前には此の世に充謐してゐる《ざわめき》を耳障りな《もの》としてしか聞こえやしないのさ。少し耳を澄ましてみれば解かる筈だが、《有》、《無》、《虚》のげつぷたる此の世の《ざわめき》の一つ一つに喜怒哀楽が充謐してゐる事が解かる筈だがね。それが詰まる所、《存在》の《念》といふ《もの》だらう?

――つまり、お前は《念》といふ《もの》を情動の一種と看做してゐるのかい?

――それは、《念》に憑りつかれた《もの》が決めればいい事さ。

――へつ、お前もまた、《吾》といふ《念》が憑りつゐた《存在》だらう? ならばお前は《念》を何と看做してゐるのかね?

――《生》の起動力さ。

――ぶはつ。《生》の起動力と来たもんだ! 何を甘つちよろい事をほざいてゐるのかね?

――ならば逆に尋ねるが、お前は、この《ざわめき》、若しくは《念》を何と看做してゐるといふのかね?

――へつ、《死》の起因さ。

――はて、それは裏を返せば《生》の起動力と同じ事ぢやないのかね? つまり、《生》とは絶えず《死》へ向かつてまつしぐらに進む《もの》だらう?

――だが、此の世は、《生者》に比べれば、《死者》と未だ出現せざる未出現の《未来者》の方が圧倒的な数で、《生者》は多勢に無勢で、《死》の、若しくは《未来》の論理によつてのみ現在を生きてゐるのぢやないかね?

――成程。《生》は《死》、若しくは《未来》の理で《存在》し、そして、呻吟し、《存在》は声為らざる《ざわめき》を発してゐるといふ事か。

――つまり、《生》が《死》、若しくは《未来》の理に律せられてゐるといふ事は、《過去》に《死》した《もの》の理に従つてゐるといふ事で、つまり、《生》は、《過去》と《未来》の「間」に《存在》する《もの》で、それが故に呻吟せずにはをれず、絶えず《吾》を呑み込む不合理を為す事で、此の世はそんな呻吟の《ざわめき》に満ち満ちてゐるのではないのかね?

――その考へ方が既に使ひ古された古く黴臭い思考法なのが気が付かぬのか。時間は決して一次元の《もの》ぢやないぜ。何度も言ふが《個時空》の考へを持ち出せば、時間もまた、否、時空間もまた∞次元でしかその本当の姿形を現はしやしないぜ。

――すると、此の世の《ざわめき》もまた∞次元で或る言語として立ち現はれるといふのかね?

――ああ。

――それぢや、此の世といふのは、∞次元へと至る為の跳躍板、つまり、未出現の∞次元の《世界》の礎へとなる単なる「過程」に過ぎぬといふ事かね?

――当然だらう? そもそも《未来》は《過去》に、《過去》が《未来》に簡単に一変する此の世の理は、《未来》と《過去》がくんずほぐれず諸行無常を演出してゐるのさ。

――しかし、さうとはいへ、此の世に《存在》しちまつた《もの》は、《存在》したが故にそれに対して理路整然とした理を求めずにはをれぬのぢやないかね?

――では、一つ尋ねるが、《存在》、ちえつ、それを《生》と言ひ換へれば、《生者》は《生者》の理をうんうん唸りながら捻出出来れば、《生者》はそれで満足すると思ふかい?

――否。

――ならば、《存在》は此の世の理、つまり、諸行無常に身を任せるのが一番理に適つてゐるだらう。

――さうかね? 実際の処、《存在》は諸行無常に身を任せたがつてゐると思ふかい?

――ふむ。

――《存在》が最も嫌悪してゐるのが諸行無常だらう?

――ふむ。さうさねえ。《存在》は諸行無常を嫌悪してゐる……か。つまり、それは、《存在》は常に《現在》に留め置かれてゐる事が我慢ならぬといふ事だらう? そして、それは森羅万象、皆、同じ筈だぜ。森羅万象が全て《現在》に留め置かれる故に諸行無常の世が生じてゐるのではないかね?

――《存在》が留め置かれるからと言つて《現在》は、しかし、止まつてやしない筈たぜ。或る《存在》が言ふ《現在》は、《他》にとつては《未来》か《過去》なのは《個時空》を持ち出せば解かるだらう? しかし、《吾》にとつては常に《吾》は《現在》に留め置かれ、そして、《吾》にとつては交換可能な外界の《未来》と《過去》から隔離されてゐる。

――否! 《存在》は成程、《現在》に留め置かれてゐるが、しかし、その内界では《未来》へも《過去》へも自在に行き来してゐるぜ。

――つまり、頭蓋内の脳といふ構造をした《五蘊場》では因果律は壊れてゐると?

――否、自在なだけさ。別に因果律は壊れちやいない。その証左に《存在》は絶えず《現在》にあるぢやないか。

――だから、《存在》は《ざわめく》のだらう? 「何故に《吾》は《現在》にあらねばならぬのか?」と。

――それさ。それ故に《吾》は《吾》をごくりと呑み込んで、《吾》が《吾》に齟齬を来たしてゐる故に、《五蘊場》に犇く《異形の吾》共が、一斉に《ざわめく》のさ。何故つて、《吾》が《吾》である事を強ひられる事程、《存在》が忌避してゐる事はないからね。とはいへ、《吾》は《吾》として《現在》に留め置かれる。其処で一つ尋ねるが、《現在》に留め置かれる宿命にある《存在》は、何故に《吾》なのかね?

――何を今更。それは今まで散散話して来ただらう。

――といふと?

――つまり、《吾》が《吾》として《現在》に留め置かれる事は、詰まる所、「単独者」、若しくは《孤》として《存在》する《吾》足る事を、《吾》の魂に刻み込む儀式なのさ。さうして、《吾》を魂に刻み込む際、それは《吾》を悶絶させる苦痛で《吾》は《ざわめく》外ないのさ。

――くきいんんんんん――。

――この耳障りな《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時のげつぷではなかつたのぢやないかね?

――さうさ。げつぷさ。

――それでは一つ尋ねるが、《五蘊場》は《存在》全てに賦与されてゐる《もの》なのかね?

――勿論。「現存在」では脳といふ構造をしてゐるが、意識が宿る《場》があれば、其処はもう《五蘊場》なのさ。

――すると、この耳障りな《ざわめき》と《五蘊場》との関係は如何様な《もの》なのかね?

――ふつ。つまり、《吾》が《吾》を呑み込んだならば、《五蘊場》を根城に《存在》全体に犇く《異形の吾》共、つまり、去来(こらい)現(げん)を自在に行き交ふ《異形の吾》共は、その呑み込まれた《吾》を喰らふ為に群がり、さうして、《吾》をすつかり喰らつた時に、《異形の吾》共は満腹の態でげつぷを彼方此方で発するのさ。そのげつぷは当然、《吾》には堪へ難い《もの》で、そのげつぷが耳障りがいい筈がないぢやないか!

――すると、《吾》とは、そもそも《異形の吾》共の餌かね?

――さうさ。お前は《吾》を一体何だと思つてゐたんだい? まさか、《存在》を支配下に置く「理性」と「悟性」を統覚した何かだとでも夢見てゐたんぢやないだらうな?

――《吾》が《現在》の主ではなくて、《存在》は何だといふのかね? 先にお前は《存在》には《念》が宿ると言つた筈だが、その《念》こそ《吾》の正体ではないのかね?

――さうだとしたならば?

――つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を絶えず呑み込む事で《五蘊場》に棲息する《異形の吾》共に《吾》といふ餌を与へて飼ひ馴らしてゐるといふ事か。――ふつ。その《異形の吾》共を飼い馴らしてゐる《もの》とは一体何かね?

――当然、《吾》さ。

――それぢや、全く矛盾してゐるぢやないかね?

――矛盾で結構ぢやないか。ふはつはつはつはつ。

――それぢや、主従関係が転倒してゐるぜ。つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む苦行を断行せざるを得ぬ故に、《吾》とその呑み込んだ《吾》といふ《念》は齟齬を来たし、それにもかかはらず、その《異形の吾》共の生贄として、否、人身御供として《吾》を捧げ、その《異形の吾》共の餌でしかない《吾》が、一方では、《異形の吾》共の主と来てゐる。一体全体お前が言ふ《吾》と《異形の吾》とは何なのかね?

――実在する化け物――かな。

――ぶはつ。《吾》が化け物かね? 《異形の吾》共が化け物かね?

――しかし、どちらも《吾》といふ《念》を喰らひ、或るひは無理矢理呑み込んでゐる。

――つまり、《念》は無尽蔵といふ事かね? 馬鹿らしい!

――《吾》が、《念》においてのみ《吾》からの出入りが自由としたならば?

――《吾》からの出入りが自由? それは魂が憧れ出るといふ事かね?

――さう。源氏物語の世界だ。そして、《吾》といふ《念》は、一人称であり、二人称であり、三人称であり、四人称であり、五人称である、云々、としたならば?

――何を言つてゐるのか解かつてゐるのかい? 四人称、五人称など想像出来る代物ではないぢやないか。

――さうかね。時間を自在に行き交ふ、つまり、∞の時間次元を自在に移動可能な《もの》を四人称、そして、《孤》=《全体》といふ曲芸が出来ちまふのが五人称と、色色と想像出来るもんだぜ。

――何を! 時間を自在に行き交ふのは単に記憶を辿り、或るひは、『ああなりたい』といふ未来の《吾》を想像する、いづれにしても単に《吾》の夢想でしかなく、また、《孤》=《全体》とは、現代のIT社会では既に実現された仮想空間の事でしかないのぢやないかね?

――ほらほら、四人称、五人称といふ言葉を表白した途端に様様な思索が渦巻く様相を呈してきたぢやないか。

――それがどうしたといふのかね?

――初めにLogosあり。

――ふつ、創世記かね? つまり、言葉が生まれると、それに派生する思索が山のやうに連なつて来るだらう?

――否。その現象が元元《存在》してゐた《もの》に言葉を与へるだけで、頭蓋内の闇でずつと眠り続けた或る《もの》がむくりとその頭を擡げ、そいつが、頭蓋内の闇で黙考を始める。つまり、《異形の吾》共の親玉が、不意と思考を始めるのだ。さうすると《吾》といふ《念》は歓喜する。

――歓喜かね? 懊悩と違ふのぢやないかね?

――どちらでも結構ぢやないか。《異形の吾》共の親玉が目覚めその頭を擡げたのだからな。そして《異形の吾》共の親玉が目覚めると、一息で《異形の吾》共を呑み込んで『ぶはつはつはつはつ』と高らかに哄笑する。

――つまり、対自の出現かね?

――否。《異形の吾》だ。そして、《吾》は自問自答をその《異形の吾》の親玉と始め、《吾》はその魅惑に幻惑され、その対話から一時も離れられなくなる、《吾》は最早其処から遁れる事が出来ない程に、《異形の吾》との対話を蜿蜒と繰り広げる事に為る。

――それは暇人のやる事だ。多くの《存在》にはそんな暇などないのが実情だぜ。

――ところが、一度《異形の吾》共の親玉がその頭を擡げ、《異形の吾》共を一飲みすると「げつぷ」をするのだ。

――また「げつぷ」ね。

――その「げつぷ」が《吾》の魂を揺さぶつて仕方がない。さうなると、《吾》は《異形の吾》の親玉とさしで話をせずにはをれぬのだ。

――そして、その《異形の吾》の親玉は《吾》をも呑み込むのだらう?

――ああ。《吾》も一飲みで呑み込まれる。そして、《異形の吾》の親玉は、「げつぷ」でなく、哀しい「しやつくり」を始めるのだ。

――「げつぷ」に飽き足らず今度は「しやつくり」かね? しやつくりを始めた《異形の吾》は、若しくは《吾》は、不快でならぬだらう?

――さう。不快だ。《吾》が《吾》に抱く此の不快は、果たせる哉、《生》の起動力なんだぜ。

――《生》の起動力? つまり、それは、《吾》といふ《存在》の根源の処に、《吾》に対する不快が必ず《存在》し、《吾》に対する不快なくしては、此の諸行無常の《世界》では生きられぬといふ事だね? それが変容の受容なんだね?

――此の世はそんなに甘く出来ちやゐないぜ。唯、《吾》の根源に不快といふ感情が《存在》する故に、《吾》は、時時刻刻と変容する《世界》で《生》を繋いで行けるのさ。

――つまり、《吾》は《吾》の変容を甘受出来る《もの》なのだらう?

――否。その逆さ。時時刻刻と変容する諸行無常の《世界》において、《吾》のみが未だに《吾》である事のどうしやうもない不快に、《吾》は《吾》に、若しくは《異形の吾》共に我慢する為に《吾》は《吾》を呑み込み、そしてげつぷをする。そして、げつぷがこじれて、それは仕舞ひにはしやつくりとなる。

――くきいんんんんん――。

――では、そのしやつくりは《吾》にとつて何なのかね?

――《吾》が《吾》である事の悪足掻きさ。そして、その《吾》の齟齬は、《吾》も《異形の吾》共も甘受するしか術がないのさ。

――何の術かね?

――存続さ。

――別段、《吾》も《異形の吾》共も存続する必然はない筈だぜ。

――しかし、《吾》も《異形の吾》も自滅出来やしない。唯、《世界》が戦争状態とか自然が凶暴な牙を剥いてゐるとかいふ極限状態の《世界》においては別だがね。そんな状況下では《吾》は只管《生》を望む。

――《世界》に《死》の確率が増すと、それに反比例するやうに《吾》は《生》を求めるこの事象を何とする?

――何、さう言ふ極限状態は《吾》の内部では日常茶飯事の事でしかないさ。つまり、さういふ極限状態の《世界》に置かれた《吾》は、絶えず、内部で執り行はれてゐる《吾》を呑み込むと言ふ荒行が、外部に現実の《もの》として表出したと《吾》は本能的に感じて、《吾》は《吾》の存続を只管欣求するのさ。つまり、極限状態の《世界》に置かれる《吾》とは内外が反転したに過ぎぬのだ。

――さうすると、《吾》とは何時も自死の崖つぷちにゐるといふ事かね?

――さうさ。そして、その崖つぷちの底を覗き込んでは軽い眩暈に見舞はれてゐる。その上、しやつくりが止まらないと来てゐるから、始末に置けんのだ。しやつくりしてゐる《吾》が崖つぷちに佇立してゐるんだぜ。何時、その崖に落ちても不思議ぢやない。

――仮に《吾》が酩酊してゐるとしたならば?

――へつ、《吾》は何時も《吾》に酩酊してゐる《存在》ぢやないかね?

――すると、《吾》の存続とは何時も綱渡り状態といふ事かね?

――当然だらう。だから、《世界》には《死》が満ちてゐるのさ。

――つまり、その崖つぷちにゐる《吾》は翼が欲しいのだらう?

――否。それぢや『フアウスト』宜しく堕天使、メフエストフエレスに為るのが関の山さ。さうぢやなく、これは何度となく言つてゐる事だか、《吾》といふ《念》がその力を発動すれば、《吾》は《吾》から自在になり得るのさ。

――そんな夢物語をどの《吾》が信ずるといふのかね? 取り敢へず、《吾》は《吾》の崖つぷちから遁れるべくその術を見つけ出して、何としても生き延びる事が何よりも先決だらう?

――だから、それが《吾》が《吾》を呑み込む苦行によつて見出される筈なのさ。

――くきいんんんんん――。

――《吾》を呑み込む苦行によつて一体何が見出されるのかね?

――自然といふ《もの》に馴致した《吾》さ。

――自然ね。その自然が《吾》に牙を剥ゐたならば、《吾》は《死》する宿命にある筈だが、それでも自然に馴致する事が、《吾》を呑み込む苦行の目的かね? へつ、ちやんちやらをかしいぜ。何故つて、「現存在」は《世界》を超える、つまり、《吾》は自然を超える何かになる事のみを渇望してゐるからさ。

――一つ訊ねるが、《吾》もまた、自然だらう? その自然の《吾》が自然を超えるとは、その事自体矛盾してゐるぜ。ちよつ、お前の言に従へば矛盾してゐるからいいのだらうがね。

――くきいんんんんん――。

 彼の頭蓋内の闇で、対話する《吾》と《異形の吾》との尽きる事がない黙話以外、

――くきいんんんんん――。

 といふ、世界がぴんと張り詰めたやうな緊迫した状況の中、ぢつと自身の《存在》に我慢し続ける彼は、《吾》をして次のやうに語らせたのであつた。

――それ以前に、生物は、《水》以上の何かと言ひ切れるかね?

――ふむ。《水》ね。生物は《水》を超えられぬな。

――詰まる所、生物とは、Amino(アミノ)酸や蛋白質などが溶け込んでゐる《水》に過ぎぬとはいへ、それでも《存在》は如何なる《もの》でも《吾》を追ひ求める宿命にあるならば、その《吾》は、へつ、自然を全く越えられぬ《水》の異形でしかないのぢやないかね?

――例へば、《水》が不自然としたならば?

――《水》が不自然ね? しかし、《水》こそ自然の象徴ではないかね?

――それは、不純物が混じつた《水》たる生物のみに通用する道理でしかないぜ。此の世には《水》以外にも数多の物質が《存在》する。

――だから何だといふのかね? 知的生命体にのみ《吾》が宿る訳ではないぜ。《吾》といふ《念》は、如何なる《存在》にも宿るんだぜ。

――しかし、己の懊悩を表白出来るのは、知的生命体以外あり得ぬと思ふがね?

――それは《存在》に対する先入見でしかないぜ。《吾》が宿つた《存在》は、それが如何なる《存在》でも《吾》である懊悩を何らかの形で表はしてゐる筈さ。《世界》をよくよく観察すれば、それがよく解かる筈だぜ。

――具体的に言ふと?

――何千年といふ時間で《もの》を見ればいづれも何らかの変容を蒙つてゐるに違ひない。つまり、如何なる《存在》も《吾》が《吾》である事が我慢ならぬのさ。

――ならば、何故に《吾》は《吾》を呑み込む苦行をするのかね? 全くそんな事をする必然性はないと思ふがね?

――例へば、《吾》を見失つた《吾》は、《吾》を《吾》と断言出来るかね?

――ふむ。例へば多重人格者の《吾》とは何かといふ事か――ふむ。

――これで解かるだらう? 《吾》が《吾》を敢へて呑み込むのは、《吾》が唯一無二の《吾》である事を持続する為に必須である事を。

――しかし、《吾》は、《吾》の発生において、否、《吾》といふ《念》が宿る時、《吾》は《吾》である事なんぞ望んではゐない筈だぜ。

――それは本当かね? 俄かには信じ難いがね? 此の世に《存在》してしまつた《もの》は、《吾》が何であるのか、如何なる《存在》かを知りたいのが自然の道理だらう?

――ふつ、自然の道理ねえ……。

――《吾》が知りたい《吾》とは、《吾》によつて純粋培養された「本当」の《吾》の事かね?

――何を明後日の方を向いてしゆべつてゐるのかね? 《吾》に純粋培養された《吾》とは一体何なのかね? それは、詰まる所、《吾》の骸でしかない筈だぜ。

――さう。《吾》は《吾》の骸を不知不識に追ひ求めてゐる。つまり、《死》が《生者》たる《吾》に決定的に欠けてゐる《もの》だ。

――ふむ。何故に《死》なのかね?

――《死》が「本当」の《吾》だからさ。

――ぶはつ。《吾》の究極の目標が《死》かね? 《死》なんぞ時をぢつと待つていれば自然とやつて来る《もの》ぢやないかね? つまり、《死》を別段追ひ求める必然性はありやしないぜ。

――だから尚更、《生》は《死》を追ひ求めるのさ。

――それはまた、何故にかね?

――《生》は《死》へと《死》すまで超越出来ぬからさ。

――それぢや、ない《もの》ねだりと何ら変はりはしないぜ。

――《生》とはそもそもない《もの》ねだりをする《もの》ぢやないかね?

――だから、《存在》は《吾》を求めるといふのかね? 《吾》にとつて決定的に欠けてゐるのが、《吾》といふ事か――ふむ。それでも《吾》は《吾》として仮面を被つてゐる《存在》だ。顔無しでは一時もいられぬのが、此の《吾》さ。それ故に、《吾》は《吾》の《念》を呑み込み、そして、げつぷをする。さうして、《吾》はそんな《吾》に打ち震へてしやつくりをする外ないのさ。それが、《吾》を《存在》の崖つぷちに追ひ詰める事であつてもだ。何故ならば、《吾》は此の諸行無常の浮世に《存在》しちまつてゐるから《吾》は《吾》として此の世に佇立する宿命にあるのさ。

――くきいんんんんん――。

――つかぬ事を訊くが、《吾》はどうあつても《吾》でなければならぬのかね?

――さあ。それは解からぬ。解からぬが、《吾》は此の世に《存在》する以上、《吾》である事から遁れられぬ大いなる矛盾にあるのは間違ひない。

――つまり、《吾》とは矛盾の坩堝といふ事かね?

――当然だらう。さうだから《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む苦行をせねばならぬのさ。《死》すまで、《吾》でゐる為にな。

――《死》しても《吾》は《吾》ではないのかね?

――それは《死者》のみぞ知るだ。

――お前はどう思つてゐるのだ?

――私は、《死》しても《吾》は未来永劫《吾》であるに違ひないと看做してゐるが、さて、さうすると、《吾》は《吾》に堪へ得るのかが不明なのさ。

――神や仏に《死者》は変容しないといふ事だね、お前の考へでは。

――ああ。《吾》は《死》しても尚、どす黒い欲望を抱ゐた《吾》であるに違ひない。つまり、《死者》もまた、《吾》といふ《念》を呑み込んでげつぷをしてゐるのさ。でなければ、此の世で絶えず不快な耳鳴りが聞こえる筈はないのだ。

――くきいんんんんん――。

――ならば、《異形の吾》とは一体全体何なのかね?

――《吾》の出来損なひ。

――《吾》の出来損なひ? 本当にさう思つてゐるのかね? 寧ろ、《吾》の理想と違ふのぢやないかね?

――《吾》の理想であつても《吾》の出来損なひには変はりはない。

――《吾》が《吾》の出来損なひであつて、《異形の吾》は《吾》の本然と違ふのぢやないかね?

――《吾》の本然もへつたくれもありやしないぜ。あるのは、此の未完の《吾》のみで、その《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む事で漸く《吾》なる仮面を被つてゐるに過ぎぬのさ。

――どうあつても《吾》は諸行無常の此の世に《存在》する為には仮面を被らなければならぬのかね?

――ああ。どうあつても《吾》は面がなくちやならない。何故つて、《吾》に面がなけりや、《吾》を呑み込む時、呑み込んだ気がしないからさ。

――ぶはつ、それだけの為の仮面かね? 馬鹿らしい。

――さう。《吾》の相貌とは、所詮そんな《もの》さ。《吾》が《吾》である目印でしかないのさ。

――しかし、その《吾》の相貌が《吾》の《存在》に大きな役割を果たしてゐるとしたならば?

――だから?

――つまり、《吾》において、初めに顔ありき、なのさ。

――何故に、初めに顔ありきなのかね? 《水》の不純物に過ぎぬ《吾》においては、初めに顔などありやしないぜ。初めに《一》なる受精卵があるのみだ。

――その受精卵こそが《吾》の相貌の《一》例になる。

――ふむ。受精卵こそが《吾》の相貌の《一》なる《もの》ね。それつて、詭弁ぢやないかね?

――勿論、《吾》の相貌は何でも構はぬのさ。

――何故に?

――顔とは、面とは、相貌とは、顔貌とは、それが何であれ、仮初の《もの》でしかないからさ。此の世が諸行無常のやうに、《吾》の相貌も変化して已まぬ。仮初に過ぎぬから《吾》は絶えず《吾》を呑み込んで「げつぷ」をするのさ。「げつぷ」こそ自己確認の最たる《もの》なのさ。例へば、「現存在」の受精卵は、細胞分裂をし、自己増殖する過程で、地球上に出現した全生物に変化しながら、最終的に「現存在」の赤子へと変容するが、つまり、《吾》は、此の世に赤子として誕生したときに既に全生物史を体現してゐる百面相なのさ。然しながら、百面相なるが故に《吾》を象徴する面がどうしても必要になる。其処で、《吾》は、《吾》の《念》の宿り木としての仮初の《存在》として「現存在」に宿り、《吾》の相貌を手に入れるのさ。

――へつ、それでは言つてゐる事が矛盾してゐるぜ。私は、《他》を見る時、《他》の相貌は振動していて、《一》なる《もの》としては顔が見えぬのだ。絶えず揺れ続けていて、様様な顔が《他》の相貌には現出するのだ。決して《他》の相貌が《一》に纏まる事がないぜ。

――それで?

――つまり、私において《他》の顔貌は、無数の顔の重ね合はせに過ぎぬのさ。決して《一》なる仮面としては見えぬのだ。

――それでも《吾》は《一》なる仮面を被るのさ。そして、《吾》は摂動する。摂動せずにはをれぬのだ。何故つて、《吾》が《吾》である事は、どうあつても《吾》にとつては受け容れ難い苦悶でしかないからさ。

――ならば、何故に、仮面を被るなどと言ふのかね?

――《零》の面が必要なのさ。

――は? 何を言ひ出すのかね? 《零》の面が《一》なる仮面と何の関係があるのかね? そもそも《零》の仮面とはいつたい何の事なのかね?

――《吾》は、《一》の仮面ではなく、飽くまで《零》の仮面だからさ。

――その証左は?

――《吾》が《吾》である、といふ命題は此の世でこれまで一度も成立した事はないからさ。

――はて、それぢや、何の説明にもなつてやしないぜ。

――何、簡単な事さ。《吾》とは、千年前に《存在》してゐたかい? また、千年後に《存在》するかい? どちらも否だらう。つまり、《吾》は《死》すべき《もの》故に、初めに無であり、末期も無に向かふ《存在》だ。つまり、《吾》は無の仮面、それを単純に数字に当て嵌めれば《零》が仮面を付けただけの泡沫(うたかた)の《存在》でしかない。

――それは論理の飛躍と言ふ《もの》でしかない。それでは此の私とは《一》者ではないのかね?

――千年単位で見れば無でしかない。

――千年単位で「現存在」を語る事こそ詭弁でしかないぜ。

――本当にさう思ふのかね? しかし、「現存在」の極少数でしかないが、その少数の「現存在」が生み出した、或ひは発見した作品なり法則なりは、千年は生き残る《もの》だらう? 千年経つてもびくともしない、例へば、ギリシア哲学のプラトンアリストテレスの著作物は、今もつて、その力を失ふ事無く、現代を生きる「現存在」に対して感銘を与へ続けて已まない。

――しかし、それは、限られた人人でしかない。その他大勢の千年前、否、二千年余り前か、その古代ギリシアの時代に生きてゐた数多の人人の消息は、現代では 失はれてしまつてゐるではないか。

――では、一つ訊ねるが、古代ギリシアの人人と現代の人人と、何時の時代にか決定的な断裂があつて、古代ギリシアの人人と現代人とに何か決定的な違ひは日常においてあるかね?

――文明の利器のあるなしといふ大きな違ひがあるぢやないか。

――そんな事は瑣末な事でしかない。「現存在」が生きる事において、古代ギリシアの人人と現代人では何か決定的な、ドストエフスキイ曰く、物理的な変化はあるかい?

――寿命が決定的に違ふぜ。

――ならば、寿命が延びた現代は、古代ギリシア哲学を超えた何かを創造出来たかい?

――少なくとも現代思想古代ギリシアに匹敵する筈だがね。

――くきいんんんんん――。

――ちえつ、不快な耳鳴り、否、《吾》のげつぷであり、しやつくりだつたな。これは不愉快極まりないが、それはともかく、現代思想には千年生き延びる膂力が果たしてあるかね?

――少なくとも、思想史としては残る筈だぜ。

――そんな事は言はれる迄もなく、誰もが解つてゐる筈だが、私が訊いてゐるのは、果たして現代思想は千年後も生き生きとその輝きを失はず、千年後の人人に影響を与へてゐると思ふかね?

――さてね。だが、多分、千年後の人人に現代思想は少なからずの影響を与へてゐる筈だとは思ふがね。

――はて、それは何故に?

――現代は、渾沌としてゐるからさ。渾沌は創造の源泉だらう?

――ふつ、渾沌は今に始まつた《もの》ぢやないぜ。百年前には既に渾沌の世は始まつてゐた筈だがね。つまり、現代は百年前に比べて、更に輪をかけて渾沌の度合ひが深まつたのみで、渾沌が何かの創造の源泉だつた事は稀にしかありやしない。

――当然だらう。歴史に名を残す《存在》は、何時の時代でも一握りの《存在》でしかないのは《もの》の道理だらう。

――つまり、現代とは玉石混淆に過ぎぬといふ事だね。どれが千年後に生き残るかは《神》のみぞ知るだね。

――多分、現代の非主流派が、千年後迄生き延びてゐる可能性が高い。

――それはまた、何故にかね?

――何時の世も傍系に甘んじて、或ひは虐げられ、その「現存在」が存命中には全く評価されなかつた《もの》が、意外にも後の世に多大な影響を与へてゐる《もの》が少なくないからさ。

――つかぬ事を訊くが、お前は現代思想に詳しいのかね?

――いいや、全く。

――それで、千年後がどうしたかうしたと語るとはちやんちやらをかしいぜ。

――現代思想は、読んでいて面白くないのだ。

――それはお前の個人的な嗜好に過ぎぬぢやないか!

――だが、思想であつても、私をわくわくさせない《もの》など千年後も生き生きしてゐるなんて考へられる筈はないだらう?

――自家撞着だぜ、お前の言つてゐる事は。つまり、《吾》が《吾》である事はないと言ひながら、思想においては《吾》の好悪で判断するこの大矛盾を何とするのかね?

――《吾》が《吾》である事はあり得ぬが、然しながら《吾》が不完全な形であつても此の世に《存在》する《吾》が、思想においてそれを《吾》の好悪で判断しても別に構はぬがね。

――それが詭弁なのさ。

――ならば訊くが、《吾》において《他》とは何なのかね? 少なくとも《他》は《吾》でないといふ事は、何事においても前提条件になつてゐるのは何故かね?

――何、簡単な事さ。《吾》は《他》であり得たかもしれぬその蓋然性に眩暈を起こすのさ。さうでありながら《吾》が《他》なしに一時も持続出来ぬ皮肉を噛み締める。それで十分だらう。この哀れな《吾》の屈辱を味はふのは。

――つまり、千年前も千年後も《吾》が存続する為には《他》を殺して喰らふといふ事かね?

――さうさ。しかし、屠殺する仕方は、多分、近未来には人の手からロボツトに変化してゐるだらうがね。つまり、《生》を殺す殺し方は、如何に人の手から遠い処で行はれるかを芸術的なまでに自動化する筈さ、此の人類といふ《もの》は。多分、Monitor画面越しに人はあらゆる事を行うといふ事を目指すに違ひない。

――それはまた、何故にかね?

――楽だからさ。それだけの事さ。

――しかし、或る種が、楽を求めた刹那、その種は絶滅への道にまつしぐらぢやないかね?

――さう。緩慢なる絶滅への道さ。倒木更新は、生物史で起こらなければならぬのさ。人類なんぞ絶滅すべき最たる《もの》さ。

――それはまた何故に?

――約めて言へば、下らぬからさ。

――ふむ。下らぬねえ? それではお前はお前自身の自滅を願つてゐるといふ事かね?

――さあ、それは解からぬ。唯、私は生き恥を晒して生きいてるのは確かさ。

――だからと言つて、それが《他》も同じだとは思ふのは僭越といふ《もの》だせ。

――ならば、お前は何故に《生》にしがみ付いてゐるのかね?

――へつ、私はもしかすると既に死んでゐるかもしれぬぜ。まあ、それはそれとして、変容する《吾》の行く末を見定めたいだけさ。

――それこそ詭弁だぜ。

――さうかね? 三世恒常なる《存在》をお前は夢見ないかね?

――三世恒常、つまり、過去、現在、未来を超えた超然たる《存在》への変貌を夢見るといふ事か――ふむ。それは、《死者》が既に行つてゐる事だらう。《死者》は《生者》にとつて、三世恒常な《存在》さ。例へば、プラトンが現在に至つても尚、その思想が生き生きとしてゐるのは、ソクラテスが《存在》した事にもよるが、しかし、プラトンが書を遺したからだらう。

――つまり、文章、否、文字に《吾》は宿ると?

――さう。《吾》は文字に宿る《念》なのさ。

――くきいんんんんん――。

――さて、つまり、《存在》とは、文字により、置き換はる何かといふ事かね?

――多分、さうなのさ。書く事でやうやつと《吾》がその漫然とした輪郭を多少はくつきりと浮かび上がらせる事が可能なのさ。

――さうかね? 私は、書く事によつて益益混迷の中へと突き進む《吾》を見出すがね。

――それは、お前の変容がまだ不十分だからに過ぎぬ。絶望を知つてしまへば、否応なく《吾》は《吾》を文字に認(したた)めるに違ひない。

――それは言霊信仰と同じぢやないかね?

――勿論! 言霊の《存在》を信ずればこそ、《吾》は《吾》を《念》と言つてゐるのさ。

――つまり、《念》は言語に上手く乗れるといふ事かね?

――別に言語に拘る必要はない。絵画や彫刻や音楽だつて《念》は乗るからね。

――それでもお前は言語を選んだのだらう? それは何故だね?

――心像において色や形や音は邪魔だからさ。

――抽象絵画は? 将又、現代音楽は?

――抽象絵画にしても現代音楽にしても、今度は心像の幅が大き過ぎるのさ。

――つまり、言語が最も自在に心像を喚起するといふ事かね?

――さう。つまり、《念》の乗り物として言語においてこそ、多少の自在が保持される。

――奔放なる心像の表出は厭だと言ふ事だね?

――さう。何事も過剰はよくない。過剰であると、結局、己の好む《もの》のみを選ぶ傾向があるからね。何故つて、《吾》は過剰に対して絶えず防御反応を引き起こし、過剰を選別して、平常へと無理矢理引き摺り下ろす。その選別の時、《吾》は《吾》の好みに応じて選別してゐるのが普通なのさ。そして、過剰は《吾》を極度に疲れさせる。これがいけないのさ。例へば抽象絵画や現代音楽は、余りに過剰に私に語り掛けてくるので、観たり聴いたりする時、唯唯、疲れるだけなのさ。況して漫画は尚更私には過剰な情報量がある故に読むと途轍もなく疲れるのさ。

――それぢや、情報過多な現代ぢや生きてゆけないぜ。

――何、情報を遮断しちまへば、それで済むだらう?

――情報を選ばずに遮断するか――ふむ。しかし、それぢや、山に住む仙人と何が違ふのかね?

――別段違はなくとも構はぬではないか。

――ならば、山に籠る方がどれ程《吾》には生き易いか、今更言ふに及ばずだね、

――また、山に籠るには若過ぎると思つてゐてね。例へば仏門に入るとして得度するのにまだ若過ぎると思つてゐるのさ。

――つまり、後後は仏門に入らうと?

――さあ、それは解からぬが、唯、情報に溺れずに思索に耽る静かな生活は送りたいと願つてゐる。

――そんなもの、今やらなくて何時やるといふのかね? 時は待つて呉れやしないんだぜ。

――だから、私は情報を遮断してゐると言つた筈だぜ。

――それで何か悟れたかね?

――いや、 何も。

――ふつ、当然だな。

――さう、悟る事なんぞ端から望んでいない。

――しかし、思索には耽りたいといふ我儘は推し進めようとして我を通さうとする。この大いなる矛盾を何とする?

――別に、どうともしないぜ。矛盾をちやんと抱へ込む事が、思索の源泉になるからね。

――ふむ。しかし、自在を求める事によつて我執に囚はれるといふ袋小路は、混乱のもとだぜ。

――所詮、《吾》は混乱、へつ、渾沌としてゐる《もの》なのさ。

――それを言つちやお仕舞ひだぜ。

――さうかね? 《吾》は渾沌故に思索を望む《もの》ぢやないかね。

――その方便としての言語だね?

――さういふこつた!

――ならば、《念》を言語に盛る形式は見つかつたかい?

――いや、まだ手探り状態さ。唯、ドストエフスキイに匹敵する《もの》はものにしたいがね。

――へつ、何と高望みな事よ。ドストエフスキイと来たもんだ。ふつ、それは非常に非常に非常に難しい事だぜ。

――だから望む処なのさ。

――それは詰まる所、不可能を可能にしたいといふお前の願望だらう?

――不可能を何とか可能にするべく、《吾》は思索する筈だがね。何故つて、《吾》が此の世に《存在》しちまつた事を受け容れるその仕方は、人それぞれ違ふやうに思へるが、ところが、《吾》がこの得体の知れぬ《吾》を受け容れる「受難」は、《吾》を困惑させ、《吾》は戸惑ふばかりなのだ。

――それと ドストエフスキイと何の関係があるといふのかね?

――ドストエフスキイの巨大作群は、私の魂を揺さぶつて飽きさせないのさ。

――だから?

――だから、《生》が面白いのさ。

――へつ、そんな事でお前は《生》を繋ぐといふのかね? それぢや、未だ見ぬ未来人に対して合はせる顔がありやしないぜ。

――さうかね? 私は、それ故に、ドストエフスキイを超えた《もの》を認めたいと思ふのだがね。

――それが、無茶苦茶なのさ。ドストエフスキイを超えるだつて? それは永劫に亙つて不可能だぜ。

――だから、この《吾》は《生》を繋げるのぢやないかね。超えるべき《もの》に出合ふといふ幸運は、さう簡単にはあり得ぬからね。

――否! 誰もが超えられぬ《もの》の《存在》を認識してゐるぜ。例へばお前はお前の親を超えたと思つた瞬間があるかい? ないだらう?

――つまりだ。この《生》には、元来、超克するべき《もの》を最も身近な処に坐させるのさ。しかし、《吾》はどう足掻ゐた処で親とは死別する運命にある。これは何《もの》も避けられぬ事だ。つまり、親は超えられぬままに、《吾》の元から彼の世に出立し、《吾》は独りで、若しくは、伴侶を得、子を儲けて「自立」する事を余儀なくされる。

――それとドストエフスキイと何の関係があるといふのかね?

――つまり、人生とは不可思議で面白いといふ事さ。

――それぢや、何の説明にもなつていないぜ。例へば国旗に文字を書き込むのは、多分、日本人以外ゐないと思ふがね。つまり、日の丸に文字を書き込む日本人は、他国に比べて今も尚、言霊信仰が、さうとは自覚してゐなくとも、厳然と《存在》してゐると看做せる。その日本人であるお前は、お前の魂を揺さぶつて已まないドストエフスキイの巨大作群には、言霊が確かに《存在》するその証左を見てしまつたからぢやないのかね?

――それ故に、日本人は言霊を、この高度科学技術文明社会においても原初的な力が宿る《もの》として、無意識に感じ取つてゐるとも言へる。

――それつて何故なのかね? 何故に日本人のみ国旗たる日の丸に文字が書き込めるのか――。

――文字が神聖で冒すベからぬ《もの》として、今も古代の習俗が残つてゐるからだらう?

――つまり、国旗に文字を書き込む日本人といふ《もの》は、私が言ふ《念》といふ《もの》を不知不識のうちに信じてゐるといふ証左だね?

――《念》ずれば伝はり、成し遂げられるといふ信仰が今も根付いてゐるのさ。それ故に、私は、日本語でドストエフスキイを超える作品を書きたいのさ。

――それが無謀な神をも畏れせぬ所業だといふのさ。

――だが、何《もの》によつてか、ドストエフスキイを乗り越えねばならぬのは人類に託された宿題な筈だ。

――しかし、それつて既に何人もの先達が挑戦してゐる筈だが、しかし、それでも尚、断然ドストエフスキイの方が輝いてゐるのが実情だらう。

――だからといつて、この無謀とも言へる挑戦に挑まなくてどうする? 「現存在」ならばどうあつてもドストエフスキイに挑戦しなければ、己に対する屈辱は尚更益すばかりで「現存在」は死に追ひやられるのみさ。また、ドストエフスキイにぶつからないでやり過ごそうなどという輩は思想なんぞ語る資格すらない。そして、恥ずかしくて「現存在」を《吾》と名指す事など生涯、否、未来永劫に亙って出来やしないんだぜ。乗り越えるべき「壁」は高くて頑丈なほどいいに決まつてゐる事は言はずもがなだらう。そして、現代においても尚、その輝きに微塵の陰りもないドストエフスキイの巨大作群には、強烈至極な《念》が宿つてゐるぢやないか。それ故に乗り越え甲斐があるのさ。

――さう思ふのであれば、さうすればいいだけのことだらう。そんな事、此処で公言するものでもないだらう。やりたければ好きにすればいい。

――何を他人事のやうに言つてゐるのかね。この問題は全人類に投げかけられている大問題なんだぜ。ドストエフスキイが全人類に投げかけた問題を解かずして、未来があると思ふかい? 

――そんなことお前に言はれずとも重重承知してゐるがね。更に言へば、二十一世紀の現代において、ドストエフスキイが生きてゐた時代に持ち越しにされてゐた問題が世界各地で噴出してゐるこの事態は、再びテロルの時代を齎したわけだが、さて、この凄惨な事態に対して「現存在」には何が出来るのか考へざるを得ず、これを避けて抛つておくと、テロリストを世界各地にばらまくだけといふ事を知つてしまつた「現存在」はどうすべきか狼狽へてゐるばかりなのである。

――だから尚更、「現存在」は日常にテロルがあると言ふ「現在」に戸惑つてゐるんぢやないかね。

 彼はさう黙考の中に沈潜しながら、人間のどうしやうもない性に対して絶望する外ないのかと、深い哀しみに魂魄が圧し潰されさうになりながらも、こんな時代だから尚の事、生き延びなければならぬと覚悟するのであつた。とはいへ、テロルに及ぶ《もの》達の、その深い「人間」に対する憎悪は何に起因するのだらうと思ふのだが、それは現在世界で起きてゐるテロルの殆どは、近親憎悪に思へなくなかつたのである。しかし、近親憎悪程、此の世で厄介で残酷な事はなく、また、その闇の深さは底無しに違ひなく、それは、多分に互ひに争つてゐるどちらかが剿滅する迄続くに違ひないと思へなくもないのであつた。

――近親憎悪? 言ふに事欠いて近親憎悪だと? つまり、現在世界を蔽つてゐる暗い暗い暗い影は、骨肉の争ひに過ぎぬと言ふのかね。お前の見方は、現在世界で起きてゐるテロルは近親憎悪以上でも以下でもないと言ふ事なのかね? これは異な事を言ふ。仮に未だ宗教が存在してゐなかった太古の昔であつても、戦争は、哀しい哉、厳然と存在してゐた筈だがね。つまり、宗教にテロルの起因を求めるのは間違ひだぜ。多分に「人間」の死生観が変化してしまつたと看做した方が賢明だらう?

――つまり、己の死は己独りで完結させるものではないと?

――ああ。テロルとはそもそも自爆者独りで完結するものと言ふ考えは全く存在せずに、身も知らぬ《他》をなるべく多く死に巻き込むと言ふ事がその使命だらう。つまり、死は日常のあらぬ処に何時も転がつてゐるのさ。さうして此の世を蔽ふ《ざわめき》には身も知らぬテロリストに殺された無辜の人たちの怨嗟も混じり始めたのさ。だから、それは耳を劈く程に鋭く強烈な音にも変化しちまふのさ。

――つまり、テロルに巻き込まれた無辜の人たちは未だに己の死を自覚してゐないと?

――当然だらう。彼らは未来永劫己が死んだとは思ひもよらぬ筈だ。更に悪い事に、テロルで死んだものは大概異教徒か宗派が違うものに殺されてゐる。これ程残酷な事はないだらう。

――つまり、テロルに巻き込まれて死したものは、「現存在」の自由の最後の砦たる死を、無理矢理剥奪された何かへと強制的に変化させられた哀しむべき存在なのだらうか。

――大いに哀しむべきと思はれるのだが、それでも一体全体何事が起きたのかを全く知らずに死んでしまつた彼ら彼女らは、此の世を恨んで彷徨ひ続けると言ふ、何ともやるせない、しかも、恐ろしき存在へと必ず変化してゐて、死した彼女彼らは誰彼と見境なく憑依しては、更なるテロルを実行するのかもしれぬな。

――死の連鎖か……。怨恨は死の連鎖を生む化け物だ。況して己の死も知らぬものが「現存在」の自由の最後の砦たる死を知らぬ以上、残された親類縁者においてもよからぬ恨みとしてそれは発露し、やがてはテロルを実行するのか……。

――その状況の混沌としたものが現在だ。世界は何処も彼処も恨みと鎮魂の入り交じつた暴風の中で、各人は歯を食い縛つて大地に屹立するのだ。

――つまり、此の世に屹立する事に異常な労力を必要とする、何とも生きづらい世が再び百年ぶりに到来したのだ。世界が個人で閉ぢて温温と過ごせる時代は既に過ぎ去つてゐて、世界には不意に身も知らぬテロリストが出現し、世界は阿鼻叫喚の様相を呈し、一気に爆風で開かれ、そのぞつとした有様は、誰にとつても足が竦む恐怖が支配する暗黒時代の始まりかも知れぬのだ。

――暗黒時代? 暗黒世代と言へば、中世の西洋が将に暗黒時代と形容されるが、しかし、研究が進むにつれ、以外と庶民は逞しく生き、活気があつた時代として見直されてゐる。しかし、百年前のテロルの時代は、世界の冷戦構造で一旦封印されたかに見えたが、それは、テロリズムよりも強大な恐怖で世界を蔽ふ事で、テロリストの憤懣は雲散霧消してゐただけなのかも知れなかつたのだ。さうして、その箍が外れた現代、世界各地でテロルが毎日のやうに起きてゐるが、それはしかし、限定的、かつ局所的な恐怖を醸成はするが、世界は尚も安寧の中に殆どの世界は胡座を舁いてゐる。

――だから、《吾》が《吾》を呑み込むといふ事には、既に雑音が、ノイズが絡みついてゐて、《吾》は雑音に塗れた《吾》を呑み込むのだ。さうして、相変はらず《吾》はげつぷをするのだが、そのげつぷは、もう不快極まりない音ならざる奇怪な音で《吾》はもう、苦笑ひするしかないのだ。

――それはもう、げつぷではないのぢやないかね?

――さう。もうげつぷではなく、うんうんと唸る呻吟に近しい、もしかすると苦悶の断末魔かもしれぬのだ。

――さうだね。此の世は理不尽に殺戮されたものが余りにも多くなつてしまつた。それら永劫に報はれぬ不合理のうちに殺戮されたもの達の断末魔が、《吾》が《吾》を呑み込んだときのげつぷを、かき消してしまつたといふことだ。既に慈悲深い世界に抱かれてゐた此の世の春の時代は終焉してしまつた。今は何処も阿鼻叫喚が逆巻く、怨恨ばかりが跋扈する身震ひする外ない世界に変貌してしまつた。何たることか! 怨恨は怨恨を誘ふ永劫に続く連鎖を生み出してしまふ。或る処に怨恨が生まれてしまつたならば、最早、怨恨の連鎖を断ち切る術を「現存在」は持ち合はせてゐないのだ。

――だからといつて、憤死するわけもなからう。怨恨を抱いたものが憤死するだけの覚悟は最早、現代は抱かせない論理が優先する。とはいへ、今も、憤死するだけの覚悟を持つた強者は存在し、チベツトの僧は、その先陣を切り、体制に反発して憤死するのだ。しかし、憤死もまた怨恨を生むのみで、やがて、それは闘争へと発展するに違ひないのだ。チベツトの僧達の憤死は、それを望んでゐる。導火線になる事を望んでゐるのだ。果てしなき闘争、それは戦争に違ひなく、それをチベツトの僧は待ち望んでゐるのだ。

――既に我慢の限界か? 「現存在」は存在自体に我慢の限界を迎へてゐるのか? だとすると、再び、実存主義の時代が到来するのかね?

――さあね。だが、新語造語を作らなければ此の世を語り果せる言葉を最早「現存在」は持ち合わせてゐない。だから、《吾》はげつぷしか吐けないのだ。言葉を持ち合はせてゐないからこそのげつぷは、多分、《吾》の哀歌、若しくは悲歌に違ひない。

――つまり、Swansongといふ事か。ならば、最早、此の世には哀しみしか意味を持たぬと言ふ事か。ふつ、つまり、現代は哀存主義か、将又、悲存主義の時代という事かね?

――つまり、現代では無の無化を徹底的に行つたために、此の世に存在したものは絶えず太陽光に等しき光に晒されて、《吾》の恥部を万人に晒してゐるのだ。その恥部とは《吾》の素面だがね。何故って、「現存在」ほど仮面好きもをらず、「現存在」とは仮面族の別称だらう。

――まあ、そんなところかな。だが、素面見たさに《吾》を隈無く検査と称して調べ上げたのは、これまた、「現存在」のどうしやうもない性だらう。今は、脳にSpotlightが当たてゐるが、人工知能とともに脳も解析されるのもさう遠くはないだらう。だが、その時、「現存在」は己の立ち位置をどうするのか、難しい問題に出遭ふ筈で、それに堪へ得る存在論を「現存在」は構築せねば、多分、半数以上の「現存在」は路頭に迷ふ筈だ。

――何故、路頭に迷ふと?

――拠り所がなくなるからさ。

――何の拠り所かね?

――人工知能を搭載した「肉体」を持ったAndroid(アンドロイド)、若しくはRobot(ロボット)の登場で、意識が万人の目に晒される事になる。さうなると、存在はAndroidかRobotかに関して徹底的に解析した方が、格段に解りやすく、それは、Programming言語で翻訳可能な筈で、意識が白日の下に晒されるのさ。そこで、「現存在」は解析された意識に準ずるやうにと強要され、それができないものは、社会に適応できず、Dropoutする筈さ。

――果たして意識がその尻尾を出すと思ふのかい? 神と言ふ「インチキ=崇高」をでつち上げて信仰する「現存在」のその浅薄でありながら、不可解な、そして、奥ゆかしい意識は、さて、神神しいものとして「現存在」の眼前にその姿を現はすと思ふかい?

――さてね。唯、人工知能と競合するものは数多出てくるのは、甘んじて受け容れなければならぬ。しかし、その一方で仮にも人工知能を奴隷にできた暁には、「現存在」は貴族然として思索に耽る存在として此の世に存在する事になると思ふかね?

――どのみち、人工知能と共存しなければならない世界に既に「現存在」は置かれてゐて、これから生まれてくる未来人は、先験的に人工知能が存在する世界に出現させられる。だからといって、「現存在」は己を卑下する必要はないのだが、しかし、何においても人工知能の方が優秀という事態に出遭ってしまふと、己が特権階級に属すると言ふ観念を抱けるのかどうかは不明だがね。それ以前に、赤子は人工知能をどう理解するのだらうか。

――何、心配いらないぜ。物心が付いてAndroidとかRobotとかの言葉を知れば、既に其処には或る観念が付随してゐて、やがてAndroidもRobotも「現存在」と違ふ存在である事はぼんやりと区別する筈さ。

――ぼんやりとかね?

――さう、ぼんやりとだ。哀しい哉、青春の苦悶を経験しなければ、AndroidもRobotも赤子にとってはぼんやりとした観念しか持てぬのだ。存在の魔に囚はれた時に始めて、自同律と他とAndroidとRobotの存在様式の在り方が違ふといふ事を身を以て知らされる。

――それは知らされると?

――さう、知らされるのだ。自意識が肥大化する思春期を過ごし、やがて《吾》を持ち切れぬ事にはたと気付いた《吾》のみが、「存在とは何ぞや!」と無言の世界に対して問ひを発する。しかし、《吾》はどうしやうもない屈辱感に苛まれながら、無言の世界に対して名指し始めるのだ。その段になると《吾》は、やうやつと《吾》が特別な存在でない事を、つまり、その他のものとして同等の単に名があるのみの存在でしかない事を心底思ひ知らされるのだ。

――其処には絶望しかないんだらう?

――さう、絶望があるのみ。だから《吾》は哲学に、文学に、信仰に、或ひは科学に縋る。さうやつて《吾》は《吾》を誤魔化すのだ。

――だが、《吾》はそんな中途半端な状態に堪へ切れず、《吾》を虐めながら弄くり回すのだ。

――へつ、それでも何にも答へは見つからないぜ。

――そんな事は百も承知さ。承知しながら、《吾》を酷使せずにはをれぬ。さうして《吾》は《吾》を破壊し、廃人になるのさ。廃人になりさへすれば、後は絶望も、苦悩も、何にもありやしない。

――しかし、廃人なるまで、《吾》を虐め抜いた《吾》を知らぬぜ。

――当然さ、廃人になる前に、殆どの《吾》は自死を選んでゐる筈さ。

 彼はふうつと一息吐くと、何処か顔が引き攣つた嗤ひをその顔に浮かべ、眼窩に爛爛と輝く眼で、虚空をぢつと眺めたのであった。彼には、果たして虚空に何が見えてゐたのだらうか。多分、それは、観念がある異形の姿を纏つて虚空に出現し、共食ひをしてゐる悍ましい光景だつたのかもしれなかった。

――それではお前は何なのかね?

――廃人さ。

――自ら廃人と言ふのは、廃人でない証拠だぜ。

――しかし、《吾》はとつくの昔に廃人になつてしまつたのだ。何故つて、《吾》は到頭《吾》を持ち切れなかつたのだ。だから、今は、言葉にならないげつぷを吐くのみのしがない存在に成り下がつちまつたのさ。最早、世界に対して、この無言の世界に対してぐうの音も出ぬ《吾》は、只管《吾》を

呑み込む事でやうやつと《吾》は《吾》である事を自覚させてゐるのさ。

――其処には自同律の不快は存在するのかい?

――いや、もうないね。感覚が全て麻痺してしまひ、快不快を感ずる感覚など全て失つちまつたのだ。

――何故、 其処まで、自己を追ひ込んだのかね?

――さうせずば、俺は此の世で生き残れなかったのさ。何としても生き残るべく、唯生き残る事にのみを廃人になりながらも縋つたのだ。でも、死んだ方がどれだけ楽か! しかし、この楽がいけない。楽こそ滅亡の端緒なのだ。楽したいが為に死を選んでも、それは終始自己満足に成り下がり、誰も、その死したものの観念などに思ひを寄せぬ、残酷な世界の一面が見えてゐたからね。

――それだけ語れるのであればお前が廃人な筈はないぜ。

――どうもご勝手に。しかし、俺は最早此の世界に対して無抵抗な輩の一人にしかなり得ぬのだ。哀しい哉、思春期に抱いたこの世界に対峙する《吾》の存在と言ふ大仰な夢は露と消えたのだ。

――それが廃人、へっ、それがお前の行き着いた結論かね。

――だから俺はげつぷをしているのさ。この何とも不快なげつぷをね。

――舌の乾かぬうちに不快と言ったな。まだ、快不快の感覚は残つてゐるんぢやないかね?

――いや、 もう快不快の感覚は残つてゐない。げつぷを不快とか感じるのは感覚ではなく、俺の観念の記憶に過ぎぬのさ。遠い昔の記憶にげつぷは不快だ、といふ記憶が残つてゐて、その残滓がげつぷは不快だと思はせてゐるに過ぎぬ。

――へつ、嗤はせるな! お前の何がお前をして《吾》を潰滅するに任せたと言ふのだ。お前は、哀しい哉、まだ、此の世に存在する。お前は潰滅はしてゐないのだ。

――唯、俺は死者の代弁者にはなり得るかも知れぬとは思つてゐるがね。

――それは思ひ上がりに過ぎぬぜ。お前は、生者であるが死者ではない。

――しかし、耳を劈く死者どもの断末魔ははつきりと聞こえるのだ。そして、死者の多くは、自らの死を受容してゐないんだぜ。をかしいだらう。死者は大概己の死を知らぬ生者として此の世を跋扈してゐるんだぜ。ほら、其処に自らの死を知らぬ死者の霊が漂つてゐるぢやないか。へつ。

 

 

 こんなひそひそ話が世界のあちこちで毎時行はれてゐる……。それがぎわめきとなつて俺の耳を劈くのだ。

 

(完)

宇宙顚覆への果てしなき執念が燃え立つ

もとは単なる自己愛から発したとはいへ

此の宇宙への憎悪は果てを知らぬ。

油断をすると直ぐに私の周りを囲繞(いにょう)し、

さうすると私はどうしやうもなき息苦しさに襲はれ

此の宇宙から逃げ出したくなるのではあるが、

それは叶はぬ夢でしかなく、

無際限に続く此の宇宙から遁走できぬ私は

――はあはあ。

と酸素を求めて水面に口を出す金魚のように

息をすることに相成りし。

初めは此の宇宙から逃げ出したいと思ってゐたにすぎぬ其の憎悪は

次第に宇宙顚覆といふ大それた考へへと至り、

どうあっても己の存在を守衛するべくには

最早此の宇宙の顚覆しかなしとの思ひに至り

私はその手立てを執拗に考へをりし。

 

さて、一口に宇宙顚覆といふが、

相手はもしかすると無限をも呑み込んでゐるかもしれぬ宇宙であるので、

私がどんな権謀術数を企てたところで

高が知れてをり

此の宇宙は顔色一つ変へることなく

涼しい顔で私を嗤ってをるが

それが益益私の憎悪に火を点け

私の腸(はらわた)は煮えくり返るのである。

さうして私はまづ此の宇宙から身を隠す術を探したのであるが、

闇の中に身を置くと居心地がいいことに気が付いたのであった。

暗中模索。

この状態が辛うじて私が私でをれるぎりぎりの処で、

屹度闇には宇宙の肝が隠れてゐるのかもしれぬと思ひつつ、

私は好んで闇の中に身を置いたのであった。

 

私は来る日も来る日も考へに考へ抜き

どうやって此の宇宙を顚覆するのが最善かを考へた処、

――ええい。

とばかりに宇宙が青ざめる架空の書物を書き上げるのが

一番宇宙顚覆に近しいのでないかとの思ひに至り

私はそれ以来、宇宙を顚覆するのみの目的で

物語を書き連ねてゐる。

その内容は果たせる哉、存在論になり

今在る存在の有り様をひっくり返せれば

宇宙は否応なく顚覆する筈だと

そんな思ひに燃え立ってゐる。

埴谷雄高ではないが、

一生を賭けて未完の巨大作が書ければと

それだけを心の拠り所として

只管、韜晦な物語を書き綴ってゐるのだ。

それは宇宙にだけ読ませるために書かれたもので、

読者は必要なし。

それ故に韜晦な物語となってしまふが

それは致し方なしと

私は只管宇宙に向けてのみ書いてゐる。

小説 祇園精舎の鐘の声

小説 祇園精舎の鐘の声
 
 地獄の竈(かまど)で焚かれた熱湯風呂に入れられたやうな、そんな苦行を強ひられた異常に気温が高かった酷暑の夏も漸く終はりに近づいたのか、ここにきてやっと初秋めいてきた九月の十六夜の日、夕刻から小川よりは大きいが大河とは言へない在り来たりの川の右岸を百メートルくらい歩いたらくるりと踵を返しては何度も往復を繰り返してゐた倉井大輔は、何やら深刻な苦悩を抱へ込んだやうな思ひ詰めた表情をしながら、時折ぶつぶつと呟きつつ時間といふものの本質を弄るやうに時が経つのを過ごしてゐたのである。倉井大輔をそのやうな行動に駆り立ててゐたものの正体は自同律の苦悶であった。倉井大輔はもうすぐ三十路を迎へる年齢なのであったが、青臭い青年特有の自同律の問題に未だに囚はれてゐて、尚悪いことに世界といふものに、宇宙といふものに対して何故だか解らぬが、己に対して抱いてゐたやうに憎悪を剝き出しにしてゐたのである。
 もの皆よくよく見れば、一つとして同じものがない。それと同じやうに頭蓋内に棲む異形の吾は倉井大輔が異形と呼んでゐるやうに内部の吾も一つとして同じものがないのが当然のことであった。しかし、それが倉井大輔には苦悩でしかなかったのである。何故、私と内部の吾はかうも互ひに反目し合ふのか。それに対して常人であれば、巧い具合に青年の間に折り合ひをつけて、内部の吾を飼ひ慣らし、猛獣使ひではないが、どんなに内部の吾が暴れやうが涼しい顔をして内部の吾は主人の私の一言で、尻尾を嬉しさうに振る仔犬のやうに馴致されてゐるものであった。ところが、倉井大輔は内部の異形の吾に共振してしまって、奇妙なことに私を異形の吾どもと一緒に総攻撃を仕掛けるのである。それは凄惨なことであった。
 何が凄惨かと言へば、免疫が異常を来して己を攻撃し、己の体軀が畸形してゆくやうに異形の吾どもに共振した私がこの倉井大輔といふ心、或ひは魂、或ひは魂魄を総攻撃して、自己浸食し、例へば私の魂は歪められ、ムンク「叫び」の人間のやうに奇妙にひん曲がってしまった私の魂は、見るも無惨に倉井大輔といふ人間を支へるのにも息絶え絶えで、奇声を上げるしかないのであった。時折、奇声を上げる倉井大輔に対して、家族もう慣れっこであり、近所の人も倉井大輔に対しては目を合はすのを避け、挨拶も早早に倉井大輔からは一歩引いた関係のまま、関係を深める人はゐなかったが、そんな他者に感(かま)けてゐる余裕などなかった倉井大輔にとってキルケゴールほどではないが世間から疎んじられ単独者といふ状況は願ったり叶ったりで倉井大輔にとっては悪くはなかったのである。
 それにしても異形の吾どもと一緒になっての私の吾への総攻撃は倉井大輔の精神を蝕んでゐたのは間違ひなく、倉井大輔のいつも疲れ切った虚ろな目は彫りの深い倉井大輔の眼窩の奥で異様な光を発しながら、その目で内部を覗く人特有の何処を見るでもなく視点が定まらず、かといって何かを凝視してゐるのが闡明するこれまた奇妙な目つきをしてゐた。その奥二重の目玉がぎろりと動くと、幼子は必ず泣き出し、そこには魔物が宿ってゐると言ってもいひ一目倉井大輔の眼光鋭き虚ろな目を見てしまった人ならば、もう決して忘れられない嫌な記憶として脳裡に焼き付いてしまふのであった。
 さうかう川の右岸をぶつぶつと独り言を呟きながら往復してゐた倉井大輔は、すると、不意に何処かから梵鐘が聞こえたやうな気がしたのであった。
――ぐおおん。
 梵鐘の複雑にして清浄な響きは倉井大輔に唐突にかう呟かせたのである。
――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も、遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
 何故か倉井大輔は『平家物語』がお気に入りの物語で、そこで死んで行く平家の人間たちに何か自己を重ねては奢れる吾も久からずと、やがては倉井大輔を総攻撃する異形の吾どもと私も必衰の途を辿るのを恋ひ焦がれるのであった。
 然し乍ら、倉井大輔の内部に棲む異形の吾どもが奢ってゐるとは思えず、敢へて言へば奢ってゐるのはどちらかといふと倉井大輔自身の方ではないかと思はざるを得ぬのである。それは、言はずもがなであるが、倉井大輔が此の世に存在してゐること自体に原因があったのであった。此の世に存在することは、そもそも悪であると倉井大輔は考へてゐた。これは倉井大輔が物心ついたときには既に倉井大輔の心に芽生えてゐた感覚で、まだ幼くてそれを名指せは出来ぬ倉井大輔は、しかし、世界に屹立する度に心にもの悲しくも渺渺とした隙間風が吹き荒び、絶えず倉井大輔は憂愁に包まれ、何かちょっとのことでも泣き出す始末なのである。幼い倉井大輔には何故泣いてしまふのかその理由は解らず、只管己の存在に我慢することを強ひられたのであった。幼き日日の倉井大輔は泣くことでやうやっと心の平衡が保たれてゐたのである。さうだからこそ、倉井大輔は内向的な青年へと成長した。絶えず己の心の動きを観察してゐなければ、一時もその場にゐられぬ羞恥に苛まれながら、倉井大輔は存在に対して我慢してゐたのであった。
 また、倉井大輔は倉井大輔を囲繞する時空間が倉井大輔のところだけきつく締め付けてゐるやうな感覚を絶えず持ち続けてゐて、実際、倉井大輔はいつも息苦しさを催してゐたのである。これは世界の倉井大輔に対する嫌がらせにしか思へず、世界からの疎外感は倉井大輔を益益、内向的な青年へと駆り立て、その孤独感は筆舌尽くし難い屈辱を倉井大輔に齎すばかりなのであった。それが何に由来するのか言葉で名指せるために倉井大輔は乱読したのである。文芸書や哲学書はもちろんのこと、数学や物理学などの本まで手を伸ばして、とにかく手当たり次第本を読んだのであった。その中で、倉井大輔の心を揺り動かしたのは『平家物語』を初めとする古典の数数、理論物理学の専門書とプログラミングの、特にアルゴリズムの本と数学書哲学書とフョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーの巨大書の数数、そして、武田泰淳埴谷雄高小林秀雄の書なのである。就中、最も心が揺れ動かされたのは埴谷雄高の『死靈(しれい)』なのであった。『死靈』の主人公の三輪與志に心惹かれつつも倉井大輔が瞠目したのは黙狂の黒川健吉なのであった。それは世界からの疎外感に加へて、時空間すら意識せずにはをれぬ息苦しさに苛まれてゐた倉井大輔は、存在の弾劾を行ふ黒川健吉のその思索の膂力の強さにある種の憧れを抱いたのかもしれぬ。
 ところが、倉井大輔には埴谷雄高の『死靈』では全く物足りなかったのもまた、事実であった。何が物足りなかったかといふと、埴谷雄高の思索のどれもが『死靈』では詰めが甘かったのである。少なくとも倉井大輔にはさう思はれた。三輪與志の「自同律の不快」にしても、三輪高志の「夢魔の世界」にしても、「愁ひの王」にしても、黒川健吉の「最後の審判」にしても、狂言回し的な存在の首猛夫のその存在自体のどれもが、例へば数学で喩へるとよくて高校数学で止まってゐるのであった。高校数学でかは記憶が曖昧で忘れてしまったが、虚数が登場した時点で止まってしまってゐるのである。数学の面白さはそこから先がずっと面白いもので、虚数が出たならば少なくともオイラーの公式までは思索の触手を伸ばして欲しかったものである。それ故、『死靈』の「虚体」はペラペラに薄っぺらいのであった。少なくとも倉井大輔にはさう思はれた。
 だから、倉井大輔は乱読したのである。ペラペラの虚体では倉井大輔の苦悩は全く解きほぐせなかったのであった。とはいえ、数学や物理学にのめり込んでゆく現代哲学でも倉井大輔の苦悩はちっとも晴れなかった。それならば哲学書を読むよりも数学書や物理学書を読んだ方がずっとましで、だから、倉井大輔は数学と理論理学の書物を熱中して読んだのである。それで解ったことといへば、いづれも宗教には及ばないといふことであった。だからといって、宗教に倉井大輔はのめり込むには抵抗があったが、宗教書を読むのは楽しかったのは事実であった。何故、哲学や数学、物理学が宗教に及ばないかといふと、盲信したものは最早何を言はふが聞く耳を持たず、尚、悪いことに哲学も数学も物理学も疑問、それを言ひ換へれば懐疑から出発してゐる時点で宗教には永劫に及ばないのは火を見るよりも明らかであった。さらにいえば、哲学も数学も物理学も宗教的世界観を証明するものでなければ、それは明らかな誤謬なのである。
 その間隙を突いたのは古典の作品の数数であったのである。少なくとも百年は時代の荒波に揉まれて生き残った作品には「普遍的な何か」が秘められてゐるに違ひない。さうでなければ、永い年月の間世代を超えて読み継がれる筈はなかった。だから、古典作品のどれもが面白いのである。倉井大輔にとって就中、『平家物語』がすこぶる面白かったのであった。
 しかし、倉井大輔の苦悩は深まりこそすれ、解きほぐされ、濃い霧が晴れることはなかった。視界不良。これが現在の倉井大輔の立ち位置である。
 倉井大輔は梵鐘につられるやうに川向かうの城址の土塁のさらに向かうに寺が点在している門前町へと歩を向けた。それは寺の墓地に眠ってゐる死者どもが倉井大輔の魂を擽(くすぐ)ったかのやうに倉井大輔にさうさせたとしか思えぬ行為であった。さうでなければ、倉井大輔
城址の土塁を越えて門前町まで逍遥する筈はなく、倉井大輔にとってその意思を動かすのは此の世で圧倒的多数を占める死者の誘ひのみであった。
市の史跡となっている城址の土塁は鬱蒼とした雑木林に包まれ、倉井大輔は月夜の夜にその雑木林を彷徨するのが好きであったが、陽がどっぷりと暮れた今、その土塁の雑木林は濃い闇を纏ひ、倉井大輔を誘ふのであった。闇の誘惑には抗へない倉井大輔は、その性格に趨暗性を持ち合はせてゐたのである。倉井大輔の内面と強く共振する闇。闇は頭蓋内の闇と地続きとなり、やがて倉井大輔は闇の中を歩くことが、何やら頭蓋内を彷徨ひ歩いてゐる錯覚に襲はれ、濃い闇を纏ふもの皆が今にも何か別の何かに変貌するのではないかと思ふと、何やら倉井大輔の心はざわつくのであった。それは昼間の間はぢっと己であることに堪へてゐたものが闇を纏ふと昼間の我慢が爆発し、ものの欲望のままにその姿を変へるのではないかと倉井大輔は心の何処かで期待してゐたのは確かであったが、闇を見ると声にならぬものの囁き声が聞こえるやうな気がして倉井大輔の心は高揚するのである。それは深海生物が闇の中で己の欲望、つまり、「生きる」といふ欲望が結晶したGrotesqueな姿は、神神しいほどに蠱惑的であると思ふ倉井大輔にとって、闇は欲望を呑み込むに十分な資格がある何かであった。
 しかし、倉井大輔には、どうしても闇とBlack holeは全く結び付かぬものなのである。巷間では安直に闇=Black holeといふ思考停止した比喩が罷り通ることに対して苦苦しく思ひ、その比喩は全く間違ってゐると巷間の安易な思考に反目してゐたのであった。倉井大輔はBlack holeはシュヴァルツシルトの地平線以外は光に満ち溢れるものとしか思へぬのである。閉じ込められた光でBlack hole内部は眩い光で満ち溢れてゐなければ道理が立たぬと倉井大輔は真面目に考へてゐた。だから、倉井大輔にとって闇=Black holeとはならず、Black holeは闇の対極にあるものに違ひないと、つまり、Black holeはDarkの象徴ではなく光の、つまり、Light holeと名付けられるのが本来の姿を現してゐると考へてゐた。倉井大輔における闇とBlack holeの齟齬は常人には気が触れたものとしか思へぬ思考に違ひないが、闇にBlack holeを重ねる愚行は闇に失礼だと思はずにはゐられなかったのである。倉井大輔にとって闇は自由の象徴であり、欲望が現はれるものなのであった。百鬼夜行や疑心暗鬼は闇の為せるものであったが、それは自由に対する存在の怯えでしかないと倉井大輔は考へてゐた。
 闇に対する怯えは現存在の自由に対する怯えの直截的な反映でしかない。全き自由に放り出されたあらゆる存在は戸惑ふばかりで雨に濡れた仔犬の如くぶるぶると震へ、足が竦むに違ひない。さうでなければ、馬鹿者である。自由の恐怖を知らぬものは幸せ者であるが、大馬鹿者でしかない。果たせる哉、所詮存在に自由は背負へぬ代物である。重力に縛られ、自然法則に縛られるからこそ、存在は大地に屹立でき、歩行できるのであった。
 しかし、闇の中では一歩歩を進めるのにも一大決心が要り、びくびくと一歩を踏み出したならば、存在は闇の中を闊歩せねばならぬのである。自由の闇の中を闊歩せずしてどうして自由が満喫できるのか。やがて闇に目が慣れ、闇の中を次第に自在に逍遥できるやうになるのだ。さうなれば、存在は大胆になり、やがて、頭蓋内の闇と外部の闇の境目が消えて、それらは地続きとなり、現存在は奇妙な感覚に襲はれる。天地左右が曖昧になり、その場にへたりと座り込む。天地左右が曖昧の中、現存在は最早歩行不全に陥る。さうして妄想は肥大化の道を歩み、現存在の内部で押さへ付けられてゐた異形の吾群が、わあっと溢れ出、暗中の其処彼処を跋扈し始める。それも束の間、伸びをした異形の吾たちは私の周りをぐるりと取り囲み私を呑み込まうとして手ぐすね引いて待ってゐるのだ。つまり、異形の吾どもの自由の足枷がこの私の存在なのである。邪魔者は消せ、それが異形の吾どもの流儀であった。
 倉井大輔は土塁の雑木林の中をぶらつき、異形の吾どもを自由にするべき、倉井大輔は異形の吾どもの人身御供になるべく、腰を下ろして胡座を舁きパイプ煙草を吹かし始めるのである。殺気に満ちた異形の吾どもとは対照的に倉井大輔は余裕綽綽なのである。倉井大輔の心は清澄で諦念の境地にあったのか、最早自我を押し通すことに何の意味も見出せないと悟ったかのやうに融通無碍なのであった。さうなると返って異形の吾どもは倉井大輔に躙り寄ることすらできずに、その場で地団駄を踏む以外術がないのである。それは何故か。倉井大輔は風に柳で、倉井大輔自身が自由に解放され、異形の吾どもはその神神しさに圧倒されるのである。その時の倉井大輔は、無敵であった。後光が射すとは将にこの時の倉井大輔のことで、倉井大輔が発する後光に異形の吾どもは怯むのである。
 煙草を吹かしながら、倉井大輔はといふと、闇と戯れて為すがままに自我を棄てるのであった。自我を棄てるとはどういふことかといふと、倉井大輔は闇に紛れて闇に同化することのみに心血を注ぐのである。さうすると、倉井大輔はあらゆるものに対する執着が消え、それが束の間であらうが、一時の間、あれだけ執着してゐた苦悶から解き放たれるのであった。
 嘗て「透明な存在」と己を名指して幼子の頭部を切断し、小学校の校門の前に切断した頭部を置いて、己の底知れぬ「欲」のその底の闇を見て、闇色に己を染めることで己の存在を確かめるといふ悍ましいことをしでかした思春期の少年がゐたが、闇色に染まることで神をも恐れぬ自由を行使できるといふ幻想に憑かれたその少年は、己が闇色に染まったことで自由に対する畏れを喪失し、幼子の頭部を切断するときに飛び散る血腥い血に蠱惑され、更に闇に惑溺しながら、夢中で幼子の存在を頭部のみで象徴するといふ残虐な行為を敢行してしまったそれを、当時、「心の闇」といふ言葉で語らうとした精神分析学者たちは、そもそもが間違ってゐて、心とはそもそもが闇であり、心の闇といふ言葉自体が矛盾してゐるのであるけれども、それさへ気付かぬものが精神分析を行ふこの浅はかな愚者どもを「専門家」たらしめるこの社会の仕組みは余りに皮相的で、重層化されてゐないからこそ神をも畏れぬ少年が己を軽軽しく「透明な存在」などと偉さうに言ひ切れてしまひ、悍ましい行為を――それは底無しの悍ましさであり、尋常ならざる蛮行である――行へてしまふ禁忌を犯すといふ一面ではFetishism(フェチズム)の「欲」を満たす、つまり、その少年は「死」若しくは「死体」好事家でしかなく、生命を「死」に至らしめることでしか存在を確かめられぬといふFetishismの為せる業であり、生から死へと移る苦悶の様に性的興奮を覚え、何度もMasturbation(マスターペーション)を行ひ、己の「欲」を満たしてゐた筈である。少年は、最早、その「欲」を満たすといふ快感から逃れられず己の「欲」を満たすのであれば、人殺しをしてもいいと自分で自分を許してしまった、つまり、禁忌を犯すのも厭はず、箍が外れたやうに、または糸が切れた凧のやうに己の「欲」の赴くままに自由を行使してしまったのであった。その少年は、幼子の切断した頭部を小学校の校門の前に置くことでしか、自己主張できなかった哀しい存在なのであるが、しかし、小賢しくもその少年は、幼子の頭部発見後の社会を嘲笑ふかのやうに声明文を新聞社などに送りつけ、其処に「透明な存在」と己を名指してゐたと倉井大輔は記憶してゐるけれども、高が「死」若しくは「死体」好事家に過ぎぬその少年をその世代の象徴のやうに取り上げたMass(マス) media(メディア)と其処に出演する名ばかりの精神分析学者ども愚者は、とんちんかんなことしかいはず、少年が唯単にMasturbationがしたいがために人殺しをしたといふことには一切触れずに――倉井大輔はフロイトは殆ど信用してはゐなかったとはいへ、フロイトLibido(リビドー)は精神分析の基本だと思ふのだが、当時、Libidoといふ言葉には全く触れられてゐなかった――「心の闇」といふ言葉遊びに終始してゐたのである。
 闇はさう軽軽しく遣ふものではないと倉井大輔は思ふのであった。あの少年はMasturbationの快楽に溺れたいがために人を殺して、頭部を切断したに違ひない。闇の中に胡座を舁いて座す倉井大輔は、己が闇色に染まることの危ふさに思ひを馳せるのであった。
 闇に染まるとは自己喪失の最も楽(、)な術であったが、全身これ闇色に染まってみせた「透明な存在」のその少年は、さうすることで、反社会的な行為を全て自己肯定してゐたのであらうか。仮にさうならば、何に依って自己肯定できたのであらうか。思ふに、その「透明な存在」と己を名指して悦に入ったであらうその少年は、己を「透明な存在」と名指したことで、自己免罪符を己に与へ、とはいへ、それは徹頭徹尾欺瞞の中での足掻きでしかないのであるが、「透明な存在」と名指して己を宙ぶらりんの状態に保留する形で、または、返って「透明な存在」といふAmorphous(アモルファス)様に己を規定することで、少年の内部に巣くふ異形の吾が自在を嗜むことを覚え、その少年に対して拍手喝采を送り、もしかしたならば、その少年は異形の吾に丸呑みされてしまったのではなからうか。つまり、その少年は魂魄すら闇色に染まってしまったのではなからうか。人身御供としてその少年は既に異形の吾に丸呑みされてゐたことで、「にんげん」であれば越えられない一線を何の迷ひもなく、猫殺しに始まったといはれる殺戮といふその少年にとっては性欲を昂進させ、これ以上ない至福の時、それはMasturbationによるOrgasm(オルガズム)を深く深く深く堪能するためのオカズ(、、、)としての殺戮であって――それは血腥い臭ひを放たなければならず、その臭ひが少年のMasturbationには必要不可欠で、血の臭ひを嗅いだだけで少年の性器は勃起した筈だ――その少年にのみ当て嵌まる「にんげん」であれば必ず嘔吐を催すその独特の自己耽美の世界を創出するべく、少年は生き物を血祭りに上げたに違ひない。殺戮が「美」と結び付いてしまったその少年と、その少年を丸呑みしたに違ひない少年内部で大手を振るってゐた異形の吾が手を携へて「美的世界」に惑溺しながらMasturbationをして果てるOrgasmを体験したその少年は、生き物を殺戮する度に異常興奮した筈である。その挙げ句が、その少年よりも羸弱な幼子を殺して、血腥い臭ひを思ひっきり堪能できる首の削ぎ落としなのだ。その時のその少年の惑溺ぶりは尋常ぢゃなかったに違ひない。興奮も絶頂を通り越した自己陶酔に惑溺する悦楽も気絶するほどで、その少年の悦楽の欲求は男性といふよりも女性のOrgasmの欲求に近しいのかも知れず、その少年の欲深さは底知れぬもので、凄惨な現場でその少年は何度も何度も射精しながら、幼子の首を削ぎ落としてゐた筈である。
 それでその少年に何が残されたといふのか。射精後の虚脱感、つまり、どうしやうもない虚無が残された筈である。その虚無を求めてその少年は殺戮を次次と犯してゐたといふことになるが、少年では手に負へない虚無に対してその少年はどう対処したのであらうか。その少年は、だから、呪はれたやうに生き物を殺して回ったのだ。その虚無をしてその少年は己を透明な存在と叫ばせたのだらう。心の叫びといへば聞こへはいいが、それは徹頭徹尾その少年が招いたことである。その尻拭ひは自分でする外ないのだ。誰に己が虚無を訴へたところで、誰も聞く耳を持ち合はせてゐない。その挙げ句が幼子を殺戮し、首を刎ねて小学校の校門の前に置くといふ蛮行に走らせた。それがことの顚末である。当時少年であったそのものは、現在、何処かの街中で常人のやうに日常を送ってゐるが、あのときの恍惚状態は決して忘れられず、虚無に再び囚はれたときには風俗店に通ふか、激しいMasturbationをするか、恋人か伴侶がゐれば、強引な性行為を行って己のLibidoの捌け口にしてゐるのかもしれぬ。或ひは自傷行為を繰り返して己を傷つけてゐるやもしれぬ。しかし、過去の狂気の沙汰は消せないのだ。その重い重い重い十字架は、一生背負ってゐなければならぬ。自棄を起こさうが、その十字架はくっついて離れない。それが罪といふものだ。或ひは宗教に救ひを求めてゐるかもしれぬが、宗教は、慰みになるかもしれぬが神はそのものを救ひはしないのだ。神は唯見守ってゐるだけに過ぎぬ。
 倉井大輔はふうっと煙草の煙を吐いて、まだ己に巣くふ異形の吾を叩き出すやうに己を内省したのであった。闇に染まると闇色に染まるとでは雲泥の差がある、と倉井大輔は思った。倉井大輔は己が「にんげん」に悖る存在に堕すことは望んでゐなかったので、闇の雑木林の中で、倉井大輔を取り囲む異形の吾どもに対峙し、異形の吾どもに倉井大輔が丸呑みされるのではなく、倉井大輔が異形の吾どもを全て丸呑みせねばならぬと覚悟を決めたのである。
――ごううううん。
 倉井大輔は再び梵鐘の音を聴いたやうな気がした。それが空耳であるのは解ってゐたが、倉井大輔はそれで人心地がついたのであった。
――ふうんっ。
と、倉井大輔は踏ん張り気合ひを入れると、異形の吾どもを一匹づつ捕まへてはぐしゃりと握り潰し丸めてはごくりと呑み込み始めたのである。
 全ての異形の吾を丸呑み終へた倉井大輔は、
――ぐへっ。
と、げっぷをしたのである。それが倉井大輔と異形の吾どもとの差異の全てであった。げっぷが出るからこそ倉井大輔はまだ、異形の吾どもに占有されてゐないと思へるのであった。
――異形の吾どもとはどう足掻いても一生、否、私といふ念が存在する限り必ず付いて回るものだから、何とか上手く付き合ひたいものだが、さうは問屋は卸さない。異形の吾どもは私の念が何かへまをやらかせば、『きゃっきゃっ』と嘲笑し、私の念が少しでも満足しやうものなら私を異形の吾どもの尻尾の槍で、チクチクと突く。どうあっても異形の吾どもは私を不快にさせずにはゐられない。しかし、さうでなくちゃな。
 倉井大輔家は闇に包まれた雑木林を抜けると寺の墓場に行きたいとゆらりゆらりと歩き出したのである。眼前には昇り始めたばかりのどす赤く異様な十六夜の月があった。倉井大輔にとって赤い月は中中好きになれないものではあったが、しかし、その異様さには惹かれずにはいられぬ魅力があり、どうしても赤い月に目を奪はれてしまふのである。それは怖い物見たさに近いものがあった。その異様さが際立つ赤い月ではあったが、異様故に何物にも代へがたい存在なのである。唯一無二の存在は異様であればあるほどその存在感を誇示し、その存在感に一度囚はれると、蜘蛛の巣に引っかかった羽虫の如くじたばたすればするほど糸に搦め取られてこんがらがり、もう蜘蛛に体液を吸い取られて死すまで身動きが取れないのにも似て、倉井大輔は赤い月に生気を吸い取られるやうな感覚に囚はれてゐた。その感覚がまた、倉井大輔を酔はせるのであった。その当時、倉井大輔は死の匂ひがすれば、惹かれずにはいられぬ危ふい状態にあったのである。それは何故であらうか。それは、この私の思ひ通りに行かぬ私自身を捨て去り、つまり、死んじまって私からの脱出をといふ思ひもしてゐたが、どうせ死しても自由の身にはなれぬだらうと、倉井大輔は死の道すら残されてゐない自身を呪ってゐた。自分で自分を呪ったところで何もいいことはありゃしない。それは己で己を喰らふウロボスの蛇のやうに自滅の道を辿るしかなかったからである。それもとても中途半端な仕方での自滅の道に違ひなかった。
――赤い月よ、吾の生気を吸い取れるだけ吸い取ってくれ。さすれば、吾、少しは生へと縋り付く力が湧いてくるやもしれぬ。今は生きたいのだ。だが、私ときたら、死ばかりを考へてゐる。この矛盾は、ちぇっ、嗤っちまふよな。自分ではどうすることもできないくせに、死なんぞ、大それたことを思ふ大馬鹿者とはこの私のことだよ。
 近くで見た人は倉井大輔は幽霊に見えたことだらう。ゆらりゆらりと気配を消すやうに歩く倉井大輔は、然し乍ら、その異様な歩き方とは対照的に自分では一歩一歩大地を踏み締めて生の感触を噛み締めながら歩いてゐたのであった。倉井大輔は詰まる所、生に飢ゑてゐたのである。それに倉井大輔の肉体がもう、魂についていくのがやっとだったからである。この魂が肉体に半歩でも先立つ状態が倉井大輔を夢遊病者か幽霊のやうに見せてしまふのである。この魂と肉体のずれは倉井大輔も自覚してをり、決して倉井大輔は肉体と魂の二元論には与してゐなかったが、この埋めやうもない魂と肉体のずれは、否が応でも現存在には魂と呼べるものがあり、気が逸るといふ感覚とは全く違ふ幽体離脱しさうでゐて肉体は幽体になんとかしてしがみついてゐる状態が、正しく倉井大輔の状態なのであった。幽霊のやうにゆらりゆらりと歩いてゐる倉井大輔は、その内部を覗けば鬼の形相で肉体から逃げ出やうとしてゐる魂に置いてきぼりを食はないやうに必死なのである。もし、倉井大輔が魂を追ふことを已めたとしたならば、それは最早甦生不可能な地獄のまた底にある深地獄とも呼ぶべきところへと堕す行為に外ならず、それは輪廻転生といふ救ひ様のない、つまり、現世とは断絶した無間地獄とは全く意味の違ふ永劫地獄へと転げ落ちる生ける屍を意味してゐたのであった。さうなると質が悪く、倉井大輔が正気を取り戻すには十年単位での時間が必要になるほどに、倉井大輔は絶望の中で藻掻き苦しむ歳月を幾星霜も過ごさなければならなかったであらう。
――ちぇっ、あの赤い月がせせら笑ってゐやがる。そんなに可笑しいか。おれが鬼の形相で必死に魂にしがみつくことが。
 赤い昇り立ての月は、しかし、せせら笑ってなどをらず、地球の大気を最後まで通過した赤色の波長の長い太陽光が月面で反射して地球に降り注いでゐるに過ぎず、単なる物理現象として月は赤いのであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。然し乍ら、その赤い月は倉井大輔には異様にしか見えず、数理的な論理と倉井大輔の感情とのこの跨ぎ果せない巨大な溝は如何様にもできずに倉井大輔は、赤い月が身も蓋もない単なる物理現象に過ぎないと知りつつもどうしても赤い月に異様な胸騒ぎを覚えずにはゐられなかったのである。
 それは葛藤といふ言葉で片付けるには余りにも似つかはしくない様相をしてゐて、強ひて上げれば数理的論理と内部から鬱勃と湧き上がる感情との全く相容れない、つまり、お互ひが全く次元の違ふところで、向き合ふことが逆立ちしても不可能なものとして、あらぬ方を向いて対座するといふ言葉が相応しく、倉井大輔はといふと其処に無限の断裂を見てしまふのであった。それはいつまで経っても感情は数理的論理とは違ふ論理で太古の昔より全く進歩なくあり続けてゐる、つまり、倉井大輔の魂と肉体との関係と相似形なのである。それはFractal(フラクタル)な関係にあるともいへ、感情は抑圧してでも数理的な論理を受け容れなければ、倉井大輔が世界に押し潰されてしまふ生死を分けるほどに重大な意味を持つことなのであった。然し乍ら、感情は理性の言ふ事など聞く筈もなく、理性と悟性、そして感性に対しての感情の不服従の姿勢は一貫してゐて、感情を抑へつけるには理性による恐怖政治を布かなければ到底感情を抑へつけることなどできる筈もなく、然し乍ら、倉井大輔はといふと理性の恐怖政治にほとほと疲れてしまってゐたのである。現代社会に生きる現存在が抱へ込まざるを得ぬ科学的論理といふ洪水に呑み込まれることに倉井大輔は何のことはない、疲労困憊してゐただけなのであった。
 科学的論理と感情の鬩(せめ)ぎ合ひは、然し乍ら、どちらも己の立場を譲ることなく、話が徹底的に噛み合はぬのであった。それも当然のこととはいへ、土台、科学的論理と感情の論理が交はることは人類滅亡まであり得ぬと倉井大輔は諦念してゐて、科学と感情のどちらを優先させるかと問はれれば、倉井大輔は迷ひなく感情を優先されると答へる類ひの人間なのであった。それだから、倉井大輔はSystematicに余りに合理を追求する現代社会には途轍もない居心地の悪さしか覚えることはなく、「遊び」のない余りに合理的な現代社会は動物でもある人間の感情を何処かしら傷付けなければ成立し得ぬものと看做してをり、倉井大輔が日日生き残る度に感情はずたぼろに傷付けられるのである。
 尤も、倉井大輔は頭の中のことであれば、科学的論理は嫌ひといふよりも大好きなのであった。倉井大輔はこの矛盾に嘲弄の嗤ひを自身に投げ掛けるのであるが、しかし、倉井大輔はその本質においては数理理論が大好きで、寝ずにそれらの専門書を読み耽ること屡屡で、こんなに面白いものはないと倉井大輔は目を閉ぢながらいつも思ふのである。とりわけ倉井大輔が好きなものは、物理数学、就中、理論物理学で、大宇宙から物質の根源までを統一の理論で証明するといふ壮大な試みに感心しきりなのであった。
――とはアインシュタイン特殊相対性理論の概要の一部であるが、物質の質量がEnergyに変換可能といふ卓見は、光速度一定と言ふ事から導かれたものであるが、物質はEnergy、それも厖大なEnergy体に変換可能といふことは、詰まる所、形相と質料との微妙なBalanceの上に存在するものは、Energyとして四方八方に飛び散り、光が消滅するやうに最期は消えてなくなる可能性を潜在的に秘めてゐて、原子爆弾は、ウラニウム中性子を衝突させると核分裂反応が起きて、原子核が分裂するときに質量がほんのほんのほんの僅かだけ少なくなることで、何十万もの生きとし生けるものを殺戮できる莫大なEnergyを生み出す。これはアインシュタインの特殊相対論からの導き出されたことであるが、例へば一円玉一つが全てEnergyに還元できれば、人類はEnergy問題に悩むことなく暮らせるだけの厖大なEnergyを獲得できるのである。
 と、倉井大輔は不意にそんなことを思ひながら、門前町へと踏み出したのであった。家家には電灯が灯ってゐて、其処には日常生活が確かにあるのであった。しかし、もし、物質がEnergy体へと一斉に変化したならば、これらの日常は藻屑と消えて蒸発するのである。ものの有様は見やうによってはとても危ふい調和の中に存在してゐる。だから、日常は日日在り来たりながら尊ひのである。倉井大輔は態態(わざわざ)覗いたわけではなく、不図目に飛び込む市井の人人の日常が何とも愛ほしくて仕方がないのであった。其処には数理では語り尽くせぬ人間の日常が存在してゐたからである。
 一方で日常生活といふものを蔑ろにするとしか思へぬ高度情報科学技術文明の止まらぬ発展は、益益加速を速め、其処に莫大な富が眠ってゐるといふことで更に莫大な金が集まり、そして、日日革新の名の下に科学の粋が結晶したといふ製品が生み出され、それに群がる普通の市民がゐることで、更に富が集まり、更に文明の発展の加速が速まるといふ循環の旋風に科学技術とは全く無縁だった人人をも巻き込み、怒濤の文明の進軍が驀進するのである。その驀進に疲れた人人は部屋に籠もり、自ら文明の怒濤の進軍から脱落することで壊れさうな自己の保持を、若しくは自己の存続を維持するべく異様な文明の怒濤の進軍から零れ落ちて行くのであった。しかし、文明から振り落とされた人人は訳の解らぬBlack boxと化した文明の利器を避けるかといへば、決してそんなことはなく、籠もったことで、社会との繋がりを文明の利器により拓かれる仮想の社会の窓との回路のみを頼りにして孤独を遣り過ごすのである。
 尤も、社会から退避した籠もり人たちに戦略があるのかといへば、全くなく、追ひ詰められた末の已むに已まれぬ退避でしかないので、この文明の留まるところを知らぬ疾風怒濤の進軍のそのJargonで理論武装された難攻不落の要塞の如き有様に対して、自分をこれ以上壊されたくないので、籠もる外なかったのが実情なのであった。それでは籠もった人人はこの先どうしやうとするのだらうか。さう考へると、籠もった人人は何の見通しもなく、自死覚悟でこの留まるところを知らぬ高度情報科学技術文明の発展から退避したに違ひなのである。一方で文明の進軍は驀進を已めず、一方で籠もり人たちは文明の火炎旋風の如き様相を呈したその残酷な一面から顔を背け、後退りするしかないこの分断は、最早埋めやうもなく拡がるばかりなのであった。籠もった人人はそれを見て絶望しか感じ取ることはできず、未来に希望を見出すことは不可能に思はれたのか、一度引き篭もってしまふと部屋から出ることすらままならず、それは文明が魔王の如き暗き影を纏ひ、その暗き影が部屋から一歩でも出れば自分を呑み込んでしまふ恐怖に引き篭もった人たちはぶるぶると震へてゐるに違ひないのである。倉井大輔はといへば、流石に科学理論の洪水には疲労困憊してはゐたが、根は理論好きなこともあり、引き篭もることはせずに、尤も、文明の異様な熱狂とは距離を置く立ち位置でゐたのであった。それもまた、一歩間違へればヘトヘトに疲れた上の自死へと踏み出す踏み台になりかねず、危険な世界との関係にあるのも事実であった。
 この高度情報化科学技術文明の目覚ましい発展の、然し乍ら、問答無用の驀進は、ある人人にとってはとても生きやすい環境に違ひなく、時流に上手く乗れた人人にとっては笑ひが止まらぬであらうが、一方で、この高度情報化科学技術文明と水が合はずにありながら、それでも時流に乗り遅れまいと歯を食ひ縛り、必死にしがみ付く人人がゐて、多分、其方が大多数だと思はれるが、生き残るためにはいくら水が合はぬからといって、自分が生まれ落ちた時代に対してそれに真っ向から楯突く人は稀と思はれ、大抵は自分が生まれ落ちた時代に対して、文句の一つや二つはあらうとも適応しやうとするのが、そして、時代に自分の居場所を見つけては倹しい暮らしをして行くことで幸福を見出す人たちが殆どであると思はれるのである。ところが、天から絨毯爆撃で爆弾が降ってくることがない代はりに、災害で家が壊され已む無く家を追ひ出されるまで家の部屋に籠もる人人が膨大な数に上ってゐるのであった。それは先に書いたやうに高度情報化科学技術文明に傷ついた人人や、結果としてこの高度情報化科学技術文明に因があると思しき人間関係の拗(こじ)れで多勢に無勢で徹底的に、中には死すまで追ひ詰められたこともある、陰湿を極めた残酷な人間による仕打ちを受けたことで、人間不信に陥り、最早社会との接点を取り結ぶその術が断ち切られてしまった膨大な数の人人が籠もってゐるのである。在り来たりの人が極度の人間不信に陥ることは日常茶飯事で、また、それはある日突然やってくるのであった。それには例外は存在せずに、多数派の多勢に狙はれたならば、最早逃げられぬのである。その因はもしかしたなら多かれ少なかれこの高度情報化科学技術文明が齎す過重なストレスによるのか、陰湿極まりない虐めが始まるのであった。それに手加減はなく、徹底的に相手が苦悶の中で滅んで行くまで、虐めは行はれるのである。歯止めが利かぬのであった。それは幼き頃他者と一緒に群れなして外を駆けずり回って人の痛みや群れのルールなどを学ぶ機会を失ったために歯止めが利かなくなったともいはれてゐるが、虐められてゐる方は生き地獄である。虐めから逃れるためには死するか籠もる外ないのであった。絶望の世界から逃れるにはそれ以外ないのである。他者の普通の日常を奪った虐める側にしても事情は差して変はらず、やらなければ、やられるといふ関係性しか他者と関係が結べないその怯えが事の本質に横たはってゐるのであった。ハラスメントも同じやうなものであった。ハラスメントする側には本質として他者に対する怯えが潜んでゐるのであるが、当の本人はそれには全く気付かず、エヘラエヘラ、と嗤ひながら他者に対して徹底的なハラスメントを行ふのである。これまた、容赦がないのであった。これも、例へばAI(人工知能)と過度に関はらざるを得ぬ現代文明が、生身の対他者に対する怯えを増幅させてしまふからなのだらう。
 これほど文明の発展に人間が怯えてゐる奇妙奇天烈な時代は人類史上、もしかしたならば初めてのことかもしれぬ。文明が驀進する速度が、想像を遥に超えてゐるので一部の人間を除いては文明の発展は恐怖でしかないのである。この時代に仮に司馬遷が生きてゐて現代史を歴史書として書き残すならば、一体どんなものが書き残されるのだらうか。『史記』は司馬遷の冷徹なまでに人間を見る目は冴え渡ってゐて、歴史はあの当時は人間が作るものであったが、現代では歴史は文明のシステムが作るものに変貌してしまってゐた。人間の自由度は文明が発展すればするほど狭められてゐるやうな気がしてならず、実際さうに違ひないと思はれるが、それといふのもコンピュータを操れないものは社会から弾き飛ばされる現在、人間が存在するための必然の要素にコンピュータを操る――それはプログラムが組めるといふことである――ことがこの高度に発展してしまった文明のシステムに参加できるといふ、つまり、人間に先立ちコンピュータが存在するといふ奇妙な現代を司馬遷だったならばどう書き留めるだらうか。この複雑にして細分化した社会において司馬遷と雖も見晴るかすことは不可能なやうな気がする。まず、その複雑怪奇な社会のシステムの本質を司馬遷は見抜けるだらうか。どう転んでも社会の主役は人間ではなくコンピュータに成り変わってしまったことだけは確かである。システム障害が起きれば人間は為す術がないのである。一部のシステムを構築し、保守できる人間のみしかシステム障害が起きたとき、手出しはできずに、数多の人間は途方に暮れるのである。この何とも無様な人間を司馬遷が見たならば、司馬遷が『史記』を書いた頃との余りの違ひに腰を抜かすに違ひないと思はれる。社会の主役は依然として人間といへるものは、社会に疎過ぎるといへる。疾うの昔に社会の主役はコンピュータを筆頭に様様な機器や機械に取って代はられてしまったのだ。その証拠にコンピュータが人間に合はせることは絶対になく、人間が例へばプログラムを組むときにはコンピュータの論理に人間が合はせるのである。
 ところが、倉井大輔は現代の司馬遷と化して『史記』、若しくは『平家物語』のやうな歴史物を書かうと夢見てゐたのであった。それはメフェストフェレスに魂を捧げたファウスト博士にも困難なことは間違ひなかった。だからこそ、それは成し遂げられねばならぬと真面目に倉井大輔は夢想するのであった。ならば、文明の論理を身に付けねばならぬと、倉井大輔はプログラミングは勿論のこと、アルゴリズムなどの書籍を読み漁っては毎夜、コンピュータと睨めっこする日日を送ってゐたのであった。そんな倉井大輔は気分転換にと門前町の寺へ行き墓場で静かに考へ事がしたかったのであった。そのためには夜の暗闇が必要なのであった。
 尤も、倉井大輔はプログラミングが愉しくて仕方がなかったのである。例へばある回答を導き出すのにプログラミングは一通りではなく、何通りものプログラムが存在し、それはプログラミングを組む人の数だけ回答が存在するともいへるのであった。それが倉井大輔の論理好きの性質を擽り、倉井大輔がプログラミングの論理から離れられぬ理由の一つでもあった。
 プログラミングは徹底的に論理的である。その論理の一カ所でも間違へれば組んだプログラムは暴走するか、異常終了するか、得たい回答を得ることは不可能なのであった。それ厳格さが倉井大輔を魅了して已まぬのである。論理的に破綻してゐなければコンピュータはどんな論理も受け容れる。その点でプログラムを組むことはとても寛容なのであったが、一カ所でも論理が破綻してゐれば、その不寛容さは厳格極まりない。論理を組む綱渡り感が倉井大輔をしてプログラミングにのめり込ませたのであらう。だからといってそれで倉井大輔は社会の何たるかが解るとも思へず、唯、コンピュータによる文明の統制は綱渡りの論理で成り立ってゐるのではないかとは思へた。論理が論理で厳格に接合されたシステムは複雑怪奇なものになるかもしれぬが、しかし、其処に遊びが全くないので、一度一カ所でも論理破壊が起きるとシステム全体が正常に動かなくなり、システム障害が起きて社会は混乱を来すのである。其処で、サブシステムを構築してゐるのであるが、それは緊急時以外に使用されることがなく、概してサブシステムにはバグが含まれてゐることが多く、緊急時に作動しないこと屡屡であった。
 それでも文明は驀進することを已めぬ。それは何故なのか。文明の驀進から振り落とされる人は数多ゐるといふのにそんなものには全く目もくれず、文明の驀進は已むことがない。それは何故なのか。其処に人間といふものの有様の秘訣が隠匿されてゐると倉井大輔には思へるのであった。倉井大輔が思ふにプログラミングの論理が人間の欲望ととても親和性があり、ジル・ドゥルーズではないが、欲望機械と化した社会システムは、人間の底無しの欲望をコンピュータは受け止めてしまふところに文明の驀進の留まるところを知らぬことで人権の蹂躙がいとも簡単に行われるにも拘はらず、目まぐるしい速さで文明の驀進は已まぬのであらう。しかし、それでは倉井大輔は納得できぬのである。欲望機械の片棒を担ぐ厳格極まりないプログラムを組むといふ論理の世界が社会を支配する中で、不合理は一瞬でも目を潰れるといふ人間の存在論にも通じる深いところでの甘えの構造があるのではないかと倉井大輔は思ふのである。不合理からの逃避は実に居心地がいい筈に違ひなく、それを体現する途轍もなく論理的なプログラムで組み上げられた社会システムは、その中では不合理から解放され、飽くなき欲望を追求できる素地が整へられるといふ、つまり、人間のご都合主義の極みが高度情報化社会の真相なのではないかと倉井大輔は思ふのであった。
 不合理を回避することの脆弱さは、その社会システムの本質が砂上の楼閣でしかないことの表れに過ぎぬのではなからうか。それといふのも、科学者は自然には法則があると言ひ条、その法則は人間社会には不合理極まりないものであるといふ視点が徹底的に欠落してゐる。産業革命からこの方、自然法則と人間の文明による社会システムの位相のずれは拡大に拡大を重ね、その結果、振幅が大きくなった自然の有様に人間は翻弄され続けることに相成ったのであるが、現在は、その自然に人間社会が振り落とされるかどうかの瀬戸際なのである。それも科学者は論理的に分析し、それをシミュレーションして見せて、身も蓋もないほどに自然の傾向を指し示すのはいいのであるが、ならば人間の日常はそれに対してどう対処すればいいのかを全く語らぬのであった。結局、科学者といふ人種は徹底的に傍観者であって、生活のファクタをシミュレーションのデータとして組み入れることはできぬのである。つまり、数値にならぬものは、または数式にならぬものは科学的論理からはあってなきが如くに不問に付され、科学者が示すシミュレーションには全く反映されず、日常を営む生活者にとって科学者が指し示すシミュレーションは雲をも摑むやうな生活者との論理とは分断してしまってゐて、
――だから何?
といった具合に生活者の日常にそのシミュレーションを反映させる術は徹底的に欠落してをり、或る意味日常生活者には無意味なシミュレーションを示すことで科学者の論理的思考は止まってしまってゐて、科学の論理と日常の論理の乖離は目も当てられぬほどに悲惨極まりないのである。この一例からも解る通り、論理的な世界には日常が徹底的に欠落してゐて、科学者に日常といふものを問ふて見れば、お茶を濁すのが関の山であった。
 尤も、日常を生きる生活者にも非がないわけではなく、科学的データから想像力を働かせて日常がどのやうに悲惨なことに相成ってゐるのか理解できなければならぬのであるが、Jargonで凝り固まった科学的論理からそれを想像するのは殆ど不可能といはざるを得ぬである。しかし、それもその筈で、蛸壺での研究に勤しんできた科学者の論理など解る筈もなく、現代人の多くはこれだけ高度情報科学技術化された文明の中で暮らしながら、人類史上最も科学に疎い時代はなく、Jargonで理論武装する科学者に対して日常で使ってゐる言葉が全く通用しないのであった。これは全的に科学者の怠慢であって、Jargonでしか理論武装できないといふことは科学者は社会と断絶した蛸壺での存続を、つまり、科学者の醜悪な自己保身でしかないのである。世間ずれしたこんな科学者を何か意味あることを語ってゐるかのやうに丁重に扱ふ例へばTelevisionの司会者は何処まで行っても滑稽で、科学者と知ったか振りのTelevisionの司会者の話の噛み合はないことといったならば、ある種のComedyを見てゐるのと変はりがないのである。
 倉井大輔にとって科学のJargonは、然し乍ら、理解できるので、科学者が語る言葉や内容はよく解り、何の事はない、殆どの科学者が内容のないのことを語ってゐて、Jargonでしか自身の研究を、また、自身を語れぬ科学者の悲哀しか倉井大輔には感じられぬのであった。それは憐憫でしかないのである。
 月は赤銅色を脱し黄色から白色の輝きが増してゐた。白色の月光は何時も内部を覗き込むと倉井大輔には思はれた。柔らかい光の下で、月光は燦燦とは決して輝かないのである。その奧床しさに人類は何千年にも亙って魅了されてきた。月光の光輝が多分、生命誕生の瞬間からもの思ひに耽るのに最善の光度であったに違ひない。海の潮汐とも関連して月光は満月が最高の光度であるのであるが、満月の月光と雖も柔らかいのであった。この月光の柔らかさが存在に自由度を付与し、昔の魂が憧(あくが)れ出るといふ言葉に集約されてゐるやうに、月光の下であれば、太陽光下の強烈な光の下での私が私であることを強要されるといふことはなく、私は私であることを超えて正しく魂が憧れ出るに相応しい慈悲深くも妖気を放つやうな不思議な感覚に包まれるのであった。赤銅色のいかにも毒毒しい月光にはものを考へることを阻む魔術が漂ってゐるが、白色の月光はそれだけで倉井大輔に自己省察をする雰囲気を醸す柔和で優しい盧舎那仏の遍く世界を照らす光を彷彿とさせるものがあったのである。
 倉井大輔は文明の暴走を最早誰も止められぬ事に対しての忸怩たる思ひはあったが、コンピュータの論理が人間の論理を超えてしまった現状を嘆いてゐても始まらず、どうやってこの暴走する文明の驀進の中で、人間が人間の地位を保って人間といふものを或る意味では誇らしく――これは人間の堕落の始まりでもあるのであるが――日常を営む方策は何処かに潜んでゐないかと各家家に灯りが灯る門前町をふらりふらりと歩きながら考へてゐたのである。日常生活にも深く浸潤してゐるコンピュータによる文明システムは、誰もそれとは最早感度を失ってゐるが、コンピュータシステムの前では人間は下僕でしかないのである。徹底的にコンピュータシステムの前では人間の論理は通用せず、奴隷としてコンピュータシステムに従ふしかないのであった。それが倉井大輔には苦痛でしかなく、社会性の欠落してゐた倉井大輔は、社会の仕組みに絶対服従させられることには何時も悶悶とした思ひを抱かずにはをれず、
――ちぇっ。
と、舌打ちをしてから社会の論理に嫌嫌合はせるのである。
 だから、倉井大輔にとって日常は窮屈そのものであったのである。日常が窮屈といふのは、精神衛生上大変よろしくなく、それをストレスといふのであれば、倉井大輔には日常を生活することでストレスが過重にかかるのであった。これは、最早噴飯もので、窮屈な日常しか送れないことの屈辱に堪へる馬鹿らしさに内心では、
――はっはっはっはっ。
と、笑ひ飛ばしながらも日常の窮屈には暗鬱にならざるを得ぬのであった。何故高度情報化科学技術文明が便利を、言ひ換へれば「楽」を徹底的に追求することがこれほど倉井大輔には「苦」を齎すのか、この埋めやうもない乖離にはお手上げ状態で、当然、倉井大輔は日常が自分の思ひ通りにあるなどとは微塵も思ってゐなかったが、それにしても「楽」を求めての「苦」の現在化のアイロニーには文明の暴走が既に始まってゐて、最早それが破綻するまで誰も止められず、ドストエフスキイが『悪霊』の冒頭で引用してゐる豚の大群の自死の道をなぞってゐるのではないかと、つまり、現代人は皆、悪霊に取り憑かれてゐて己が呪はれた豚であることに気付かずに只管、自死の道を驀進してゐるに過ぎぬのではないかと倉井大輔には思はずにはゐられなかった。
 人類の智の粋を集めた高度情報化科学技術文明は、一つ間違へれば「悪」へ雪崩を打って突進する危ふさを今も携へてゐるが、倉井大輔にとっては「苦」でしかない文明の驀進は、最早留まるところを知らずに、只管前進するにあるとばかりに最早その進歩は誰にも止められぬ化け物と化してゐるとしか倉井大輔には受け取れなかったのである。何せ、人間の手にかかると殺戮は芸術の域に達するまでに殺戮兵器は悲惨な死を齎すが、それは人間の性と結び付いてゐるのか、将又、それは人間の本能なのか、高度情報化科学技術文明は余りに簡単に人を殺戮するのである。倉井大輔の「苦」の淵源を辿れば、それは文明が人間を余りに簡単に殺戮してしまふその危ふさに繋がってゐる。「楽」の本質は人間をいかに「楽」に殺戮するかにあるといふことが根底にあるこの高度情報化科学技術文明に倉井大輔は悍ましさを覚える契機なのであった。そこには「苦」しかないのも頷ける。文明に対してそんな見方しかできぬ倉井大輔は悲観論者なのかもしれなかったが、しかし、文明により、日日何人もの人間が殺戮されてゐるのは事実であり、これは覆すことはできぬ現実なのである。倉井大輔は人類が文明に躍らされて集団自決の道を歩まぬことを願ふばかりであった。
 この一見平和な日常を暮らしてゐるかに見える市井の人人が、文明が生み出したとんでもない殺戮兵器の数数によって殺されないことを冀ふしか倉井大輔にはできなかったが、やはり、倉井大輔は文明に対して楽観視はできぬのであった。世は既に倉井大輔にとって「苦」しか齎さない苦行の場でしかなかったのである。
 人間は究極的には楽土を齎すために己の願望を欣求する筈であるが、倉井大輔にいはせると「楽」を求めてゐる以上、楽土は苦行の修羅場でしかなく、人間が一番欣求してはいけないものは「楽」ではないのかと思ふのであった。堕落を欣求するならば「楽」を求めればよい、と倉井大輔は強く思ひ、便利もまた、曲者で、これまた「楽」に強く結び付いてゐるので、便利な社会は堕落の始まりに違ひなく、そこはもう苦行の修羅場と化してゐるのかもしれぬ。ここで、倉井大輔の論理は正しいと仮定すれば、高度情報化科学技術文明が目指すところは楽土ではなく血腥い苦行の修羅場、つまり、地獄ではないのかと看做せる。倉井大輔の考へが間違ひであって欲しいが、世界は力の論理で動いてゐて、どうも世界の彼方此方で血腥い戦争や闘争、争ひ事ばかりで、世界が平和であったことは人類史上一度もないのではなからうか。それが現代では武器が先鋭化し、結果として殺戮の仕方は芸術的なほどに瞠目せずにはゐられぬ悲惨極まりない殺し方で文明は人間を殺戮する。既に人間を殺すのに自律型人工知能を備えた無人殺戮兵器が登場してゐて、実際にそれにより、無惨に殺された人間は山のやうにゐるのが現実である。倉井大輔は此の世で最も嫌なことは人間により殺されることであったが、事態は倉井大輔の想像を超えてゐて、倉井大輔は考へをすっかり変へてをり、自律型人工知能を備えた兵器で殺されるのがもっと嫌であると考へるやうになったのであった。それもこれもその淵源を辿れば全て「楽」に行き着くのである。如何に「楽」、それは「遊び」のない論理的な世界にも当て嵌まることであるが、「楽」が悪弊の根源であるか倉井大輔が指摘せずとも誰もが少し考へれば解ることである。解らぬといふもは大馬鹿者であると自ら名乗ってゐるだけのことで、自ら恥ぢ入ればいいだけに過ぎぬ。
 倉井大輔の宿願は人類が「楽」を欣求しないことであり、万に一つでも人類が「楽」を欣求したならば、人類は破滅するに違ひないと真面目に考えてゐるのである。それだけ「楽」は人間の生き血を欲してゐて、その血腥さは歴史上随一ではなからうか。「楽」があれば、それは地獄の一丁目であることを倉井大輔は嫌といふほどに思ひなすのであった。つまり、「楽」は発明の父かもしれぬが、それは「悪」でもあったのだ。
 つまり、「楽」が生んだ最たるものが生者を彼の世へ簡単に送れる武器の数数である。更に悲惨なことに現代では死に行くものは誰が己を殺したのか解らないことであった。これでは死んだものは浮かばれる筈もなく、また、殺戮する方もGame感覚で生身の人間を殺すのだ。埴谷雄高の言ではないが、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
といふことが現代では益益先鋭化し、敵といふレッテルを一度貼られてしまふと最早手遅れで、自律型のAIを搭載した無人機で殺されるのである。これは逃げやうがなく、かうして殺されたものたちは決して浮かばれぬ。浮かばれる筈はないのだ。霊といふものが仮に存在するとすれば、自律型AI搭載無人機で殺されたものたちは己を殺したものを未来永劫に亙って探すために此の世を彷徨ひ続け、結局は己を殺した人間の敵は見つからず、此の世は無念の怨嗟による瞋恚の死者の霊で満ち満ちてをり、成仏できずに彷徨ふことを宿命付けられてゐる。つまり、浄土へも地獄へも行けずにこの地上を中有を過ぎても彷徨ふことで、彼の世への出立は一向に始まらぬのである。当然、輪廻転生などある筈もなく、この生者と死者の分断は敵として死んだ死者の誰をも跨ぎやうがないのである。Televisionで心霊番組がめっきり減ったのは、最早霊が笑い事では済まぬものになり、うようよとこの地上を彷徨ってゐる霊たちがいつ何時生者へ死者たちの一揆が起こるか解らずに生者はそこはかとない疚しさでビクついてゐるのが本人はそれとは気が付かぬとも生者の存在は存在するだけで脅かしてゐる此の世のアプリオリな恐怖なのである。これはアポリアでもあって高度情報化科学技術文明が招き寄せた現代を生きる人間の宿痾であり、普通に日常を生きてゐるのでは大抵の生者は精神的に参ってしまひ、残さされた道は自殺以外ないのである。この見えない恐怖は生きている以上誰の身にも降りかかるものであり、生者は生まれ出た刹那、浮かばれずにこの地上を彷徨ってゐる死者の呪ひに呪はれてゐて、生者はこの呪ひからどう足掻いても逃れられぬ十字架を背負って此の世に生を享けるのである。「楽」を追い求めた結果、死者の呪ひはある特定の人で完結することがなく、言はれなき呪ひに生者の誰もが呪はれてゐる。これが高度情報化科学技術文明の行き着いた狎れの果てなのである。敵の顔が解らぬ死者にとっては生者であるだけで最早「敵」でしかなく、死者の怨嗟を晴らすには生者であれば、殺す相手は誰でも良く、ここでも、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
箴言は更に先鋭化して息づいてゐて何時の頃からか生者と死者は反目する「敵」となって対峙することになったのである。Horror映画ではないが、Zombie対生者の果てしない戦ひがこれからは続くことになったのである。だから、現代では死がTabooとなり、然し乍ら、死者は生れてくる新生児以上に増えてゆくといふ人類全体がこれからは老ひてゆく未来を迎えることに相成ったのである。だから、現代では宗教は先鋭化するか退化するかの道を辿り、先鋭化した宗教はまた、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
を信条とするやうになってしまったのである。
 
つづく

審問官 第一章「喫茶店迄」

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審問官 第一章「喫茶店迄」

 

           積 緋露雪 著

 

 

私が思ふに、彼が絶えず「断罪せよ!」といふ内部から沸き上がつて仕方がない自己告発の声に悩まされ続けてゐたのは間違ひない。そのことを彼は彼が何か行動を起こさうとすると必ず内部で呟く者がゐると暗示していたのであつた。

 

…………

…………


――断罪せよ! 

 

…………

…………

 

彼は、当時から、そもそも己の《存在》自体に懐疑的であつた、といふよりも、自己の《存在》を自殺以外の方法で此の世から葬り去る事ばかり考へてゐたのである。

 

…………

…………


――両親の死を看取つたなら即座に此の世を去らう。それが私の唯一の贖罪の方法だ……。

 

…………

…………

 

彼には主体なる《もの》の《存在》がそもそも許せなかつたらしい。彼をさうさせた原因は、しかし、判然とせず、今もつて私には謎のままである。彼が、あの頃、埴谷雄高が名付けた奇妙な病気――黙狂――を患つてゐたのは間違ひない。
 彼はいつも何かを語らうとすると、言語がその構造を担保にしてゐる主語述語などといつた言語が現れるその言語自体の構造を見失つて、彼の頭蓋内の闇、それを《五蘊場(ごうんば)》と彼は名付けてゐたが、、その《五蘊場》では数多の言語が一斉に湧出し、渾沌に堕すその結果、無言になつてしまふとのことであつた。しかし、彼は無言とは言へ、それで全てを語つたといふのであつた。つまり、端的に言へば《黙狂者》以外の何《もの》でもなかつたのである。それは、
――俺は……。
 と、言つて彼が不意に黙り込んでしまふ事からも明らかに思へたのであつた。つまり、彼は自同律の陥穽に終生堕ち込んだまま、其処から這ひ出た事は一度としてなく、そして、彼はそれを「善し」と自己納得してゐる風でもあつたのである。
 しかし、彼は学生時代が終わらうとしてゐた或る日、忽然と猛烈に語り始め、積極的に行動し始めたのであつた。彼を豹変させ忽然とさう変へた原因もまた、私には判然としなかつたのである。

彼は大学を卒業すると、二十四時間休む間のない事で学生の間で有名だつた或る会社に自ら進んで就職したのであつた。

風の噂によると、彼は猛然と二十四時間休む事なく働き続けたらしい。しかし、当然の結果、彼は心身共に疲労困憊し、遂には不治の病に罹つてしまつたらしいのである。その後某精神病院に入院してゐるらしいとは、私も承知してゐた事であつた。

 

…………

…………

 

――自同律の不快どころの話ではないな。『断罪せよ!』と私の内部で何時(いつ)も告発する者がゐるが、かうなると自同律を嫌悪する外なく、その結果故に吾は自同律の破壊を己の手で己を実験台にして試みたが……ちえつ……人間は何て羸弱(るいじやく)な生き物なのか……ふつ……自己破壊と言へば聞こえはいいが……ちえつ……唯……病気になつただけではないか……くつ……自己が自己破壊を試みた挙句……唯……病気になつただけ……へつ……をかしなもんだ……だが……しかし……俺も死に至る病にやつと罹れたぜ……へつ……両親も昨年相次いで亡くなつたからもう自己弾劾を実行出来るな……。

 

…………

…………

 彼の死は何とも奇妙な死であつたらしい。態態(わざわざ)看護師を呼んではにやりと不敵な薄ら嗤ひを浮かべ突然哄笑したかと思へば忽然と息を引取つたらしいのである。

 

…………

…………

――断罪せよ……さうだ……お前をだ……其の《存在》自体が既に罪なのだ……。

 

…………

…………

 

何やら今も彼の言葉がこの時空間にゆらゆらと宇宙背景輻射の如く不可視な《もの》として漂つてゐるやうに思へて仕方がない……。

 

主体弾劾者の手記 

 

にやりと嗤つた途端、不意に此の世を去つたといふ彼の葬儀に参列した時、亡くなつた彼の妹さんから彼が私に残したものだといふ何冊にも亙つて彼が書き綴つた大学Note(ノート)を渡されたのであつた。英語と科学を除いて勿論彼は終生縦書きを貫いたのでその第一冊目に当たつていたと思はれる大学Noteの表紙にその大学Noteを縦書きで使ふ事を断言するやうに『主体、其れ主体を弾劾すべし!』と力強い筆致で筆書きされてあつたのである。

その手記は次の一文から始まつてゐた……。

 

――吾、吾を断罪す。故に吾、吾を破壊する――。

これは君への遺言だ。すまんが私は先に逝く。これが私の望む《生》だつたのだ。私はこんな人生で満足しなければ、へつ、罰が当たるぜ……。本当に私は幸せだつたのだ。

君もご存知の「雪」といふ名の女性が私の前に現れた時に私は《自死》しなければならないと自覚せざるを得なかつたのだ……。それは私が自意識に目覚めたときにすでに薄らと吾におぼえていた何とも物悲しい感覚なのであつた。

ふつ、自分で言ふのも何だがね……、私は皆に「美男子」と言はれてゐたので美男子だつたのだらう。君はどう思ふ? 

よくRock Band(ロツク・バンド)のU2の作品「WAR」のジヤケツト写真の少年(俳優:ピーター・ロワン)に似てゐると言はれてゐたが、ご存知のやうに私は変人だつたのでそれ程多くの女性にもてたとは言へないが、生命を生む性である或る女性の一部にとつては、私はどうしても私の《存在》が「母性」を擽(くすぐ)るのだらう、彼女らは私を抛つて置けず無理矢理――この言ひ方は彼女らに失礼だがね――私の世話をし出したのは君もご存知の通りだ。

しかし、私に関わつた全ての女性たちは私が金輪際変はらないと悟つて私の元から皆離れて行つた。雪もその一人だつたのかもしれないがね……。ふつ、自業自得だね。

私は雪と出会つた頃には埴谷雄高がいふ人間の二つの自由――子を産まない事と自殺する事の自由――の内、自殺の自由の行使の仕方ばかり考へてゐたが、私には、また、人間にはそもそも自由など無いし、また、宇宙は原則として自由なる事を許されてゐないとも自覚してゐたので、自殺してはならぬとは心の奥底では思つてゐたけれども、画家のヴアン・ゴツホの死に方には一種の憧れがあつたのは事実だ。自殺を決行して死に損なひ、確か三日ぐらゐ生きた筈だが、私もヴアン・ゴツホが死す迄の三日間の苦悩と苦痛を味はふ事ばかりその頃は夢想してゐたものだ。それほどに私は追ひ込まれていたのかもしれなかったのだ。それに自殺は地獄行きだから、死しても、尚、未来永劫《吾》であり続けるなんて御免被るといつた事も私が自殺しなかつた理由の一つだ。何故つて、地獄とは《吾》は卒倒することすら許されないところで、意識は未来永劫に亙つてずつと《吾》は《吾》として地獄の責苦を味はひ続けなければならないのさ。

今は亡き母親がよく言つてゐたが、私は既に赤子の時から変はつてゐたさうだ。或る一点を凝視し始めたならば、乳を吸ふ事は勿論、排泄物で汚れたおむつを替へるのも頑として拒んださうだ。ふつ、私は生まれついて食欲よりも凝視欲とでも言つたら良いのか、見る事の欲望が食欲より――つまりそこには性欲も含んでゐるが――優つてゐたらしい。赤子の時より既にある種の偏執狂だつたのさ。君が私を《黙狂者》と呼んだのは見事だつたよ。今思ふとその通りだつたのかもしれない。

そんな時だ、雪に出会つてしまつたのは……。

 

私が何故Television(テレビ)を殆ど見ず、街中を歩く時伏目になるのかを君はご存知の筈だが……、実際、私には他人の死相が見えてしまふのだ。街中で恋人と一緒に何やら話してゐて快濶に哄笑してゐる若人にはつきりと死相が見える……。体の不自由なご主人と歓談しながらにこにこと微笑み車椅子を押してゐるそのご婦人にはつきりと死相が見える……。Televisionで笑顔を見せてゐるTalent(タレント)にはつきりと死相が見える等等、君にも想像は付く筈だが、この他人の死相が見えてしまつた瞬間の何とも名状し難い気分……これは如何ともし難いのだ。それが嫌で私はTelevisionを見ず、伏目で歩くのだ。他人の死相が見えてしまつたときの私の慌てやうは解かるだらう? それはどうあつても抗ふことが出来ないもので、街を歩けば必ず一人くらゐの死相は見えてしまうものなのさ。

そんな私が馥郁(ふくいく)たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBench(ベンチ)で彼女、つまり、雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが、私が雪を初めて見た瞬間だつた。

その一瞥の刹那、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。そんな事は今迄無かつた事であつたが、雪を見た刹那だけそんな不思議な事が起こつたのであつた。それは、所謂以心伝心と言ふもので、雪との間においては、何故か、心が通じる「会話」が自然と出来たのだ。その時は、私は雪に声も掛けずにそのまま欅の木の傍らを通り過ぎたのだがね。しかし、雪に言はせるとその瞬間に雪は私に一目惚れしたらしいのだ。

しかし、その時を境として私は、雪が欅の木の下のBenchに座つてゐないかと、その欅の前を通る度に雪を探すやうになつたのさ。

君もさうだつたと思ふが、私は大学時代、深夜、黙考するか本を読み漁るか、または真夜中の街を徘徊したりしては朝になつてから眠りに就き夕刻近くに目覚めるといふ自堕落な日日を送つてゐたが、君とその仲間に会つたところで私は無言のまま、唯、君たちの会話を聞くに過ぎぬにも拘はらず、私は君とその仲間に会ふために夕刻になると大学にはほぼ毎日通ふといふ、今思ふと不思議な日日を過ごしてゐた訳だ。

話は前後するが、今は攝(せつ)願(ぐわん)といふ名の尼僧になつてゐる雪の男子禁制の修行期間は疾(と)うに終はつてゐる筈だから、雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じつた何とも言へない涙を流してくれる筈だから……。

さうさう、それに君の愛犬「てつ」こと「哲学者」が死んださうだな。さぞや大往生だつたのだらう。君は知つてゐるかもしれないが、私は「てつ」に一度会つてゐるのだ。君の母親が、

――家(うち)にとんでもなく利口な犬がゐるから一度見に来て。

と、私の今は亡き母親に何か事ある毎に言つてゐたのを私が聞いて、私は「てつ」を見に君の家に或る日の夕刻訪ねたのだが、生憎、君はその日は不在で、君の母親の案内で「てつ」に会つたのだよ。

「てつ」は凄かつた……。夕日の茜色に染まつた夕空の下、「てつ」の赤柴色の毛が黄金(こがね)色(いろ)に輝き、辺りは荘厳な雰囲気に蔽はれてゐたのさ。その瞬間、私にとつて「てつ」は「弥勒(みろく)」になつちまつた。私を見ても「てつ」こと「哲学者」、若しくは「弥勒」は全く警戒しないので君の母親は私と「弥勒」の二人きりにしてくれた。それはそれは有難かつた。暫く「弥勒」の美しさに見蕩(みと)れてゐると「弥勒」が突然、私に、

――うああお~んわーうわうあう~~。

と、何か私に一言話し掛けたのである。私にはそれが「諸行無常」と聞こえてしまつたのだ……。

今でもあの神神しい「弥勒」の荘厳な美しさが瞼の裏に焼き付いてゐるぜ……。さてさて、彼の世で「弥勒」に会へるのが楽しみだ……。

さて、話を雪の事に戻さう。

或る初夏の夕刻、君と一緒にあの欅の前を歩いてゐると、雪がBenchに座つていつものやうに何かの本を読んでゐた……。それがすべての始まりだったのかもしれないと思ふのさ。

 

…………

…………

 

話を先に進める前に君に言つておくがね、しかし、君には多分薄薄と解つてゐた筈だが、私が私であるといふ自同律を嫌悪する私は、性に対してもその通りだつたのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》の事だから何とか自身を納得させたがね、しかし、自慰行為は幻滅しか私に齎さなかつた。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかつた……。

 

…………

…………

 

君は「ⅹの零乗=1」《(x>0:0より大きい数の零乗は1となる》といふ事は知つてゐるね。私はこの雪との出会ひの時に、自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまつたのだ。皮肉なことだがね。これは何ともし難い私のLibido(リビドー)とも言える《死》の衝動だつたのだ。零乗の零と言ふアラビア数字の形が一回転した《もの》の軌跡に見え、零乗されたⅹなる《存在》は皆平等に1になる、つまり、私にとつてそれは現世での《一生》に見え、更に《存在》全てに平等に訪れる《死》をも其処に見てしまつたのだ。生命は死の瞬間確率1になる。否、もしかすると《存在》はその死の瞬間に零、若しくは∞、つまり、《無》、若しくは《無限大》に化けるのかもしれぬが、しかし、つまり、1=1といふ自同律は《死》で一応完結する筈さ。私はこれで自同律の嫌悪は終はるに違ひないと自覚せざるを得なかつたのだ……。そして、さう望んだやうに私はかうして死んだのだ。私はこれに満足してゐる。

――はつ。

 

…………

…………

 

ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまつた女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終はると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になつてしまつたのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまつたのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきつぱりと已めてしまつた……。

また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかつた。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が正しく私の嫌悪の元たる自同律の《快楽》だと知つてゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも、誰ひとりの女性も《脳内》の自分の具現化といふ実に不愉快極まる事を已めはしなかつたのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪といふのか……。

 

…………

…………

 

そんなときに雪が現はれたのだ。

私が君と連れだつて大学の構内を歩いてゐて、私が不意に欅の木蔭のBenchにゐた雪を見つけた時、反射的に私の足は雪に向かつて歩き始めてしまつた。その時、雪は読んでゐた本から目を上げ私を一瞥すると、私の全てを一瞬にして理解したやうに可愛らしい微笑を顔に浮かべた。私はその時に既に悟つていたのさ。雪は私を彼女の全《存在》で受け容れてくれたのだ。君にはこの時の雪と私の間で通じ合ひ、それをお互ひ一瞬で理解してしまひ、更には多分お互ひ同士それを明瞭に感じた筈である奇妙な或る感覚は、多分理解不能だと思ふが、《奇跡的》に他人同士が一目で全的に互いを理解する出来事がその時起こつてしまつたのだ。

吾ながら今もつてその時の事は不思議でならないがね……。

君は私が《黙狂者》だと認識してゐたので、君は多分私と雪との関係をこれまた一瞬で理解したのだらうね。君は駆け出して、私より先に雪に声を掛けたね。あの時は有難う。

――君、何の本を読んでゐるの?

――William Blake(ヰリアム・ブレイク)よ。

――それは丁度いい。良かつたならなんだけど、これから僕たちブレイクの《THERE IS NO NATURAL RELIGION》と《ALL RELIGIONS ARE ONE~The Voice of one crying in the Wilderness~》をネタにして、男ばかりだけど……飲み会みたいなSalon(サロン)みたいな真似事をしようとしてゐるので……君もよかつたら来ないかい? 

――……ええ、いいわよ。

――本当、ぢやあ、僕らと一緒に行かう。

雪が君と会話してゐる間もずつと雪は私を見て微笑んでゐたのは君も覚えているだらう。その時私には既に雪が尼僧の像と二重写しで見えてしまつてゐたのだ……。不思議なことなのだが、それは今も尚、私にとっては余りにも自然なことに思はれて仕方がないのさ。

 

William Blake著

 

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》

[a]

   The Argument. Man has no notion of moral fitness but from
Education. Naturally he is only a natural organ subject to
Sense.
  I  Man cannot naturally Percieve. but through his natural or
bodily organs.
  II  Man by his reasoning power. can only compare & judge of
what he has already perciev'd.
  III  From a perception of only 3 senses or 3 elements none
could deduce a fourth or fifth
  IV  None could have other than natural or organic thoughts if
he had none but organic perceptions
  V  Mans desires are limited by his perceptions. none can desire
what he has not perciev'd
  VI  The desires & perceptions of man untaught by any thing but
organs of sense, must be limited to objects of sense. 
  Conclusion. If it were not for the Poetic or Prophetic character
the Philosophic & Experimental woud soon be at the ratio of all 
things & stand still unable to do other than repeat the same dull
round over again

[b]

  I  Mans perceptions are not bounded by organs of perception. he
percieves more than sense (tho' ever so acute) can discover.
  II  Reason or the ratio of all we have already known. is not
the same that it shall be when we know more.
  [III lacking]
  IV  The bounded is loathed by its possessor.  The same dull
round even of a univer[s]e would soon become a mill with
complicated wheels.
  V  If the many become the same as the few, when possess'd,
More! More! is the cry of a mistaken soul, less than All cannot
satisfy Man.
  VI  If any could desire what he is incapable of possessing,
despair must be his eternal lot.

  VII The desire of Man being Infinite the possession is Infinite
& himself Infinite
     Application.   He who sees the Infinite in all things sees
God.  He who sees the Ratio only sees himself only.
Therefore God becomes as we are, that we may be as he is

《ALL RELIGIONS ARE ONE》
〔The Voice of one cryng in the Wilderness〕

  The Argument    As the true method of knowledge is experiment
the true faculty of knowing must be the faculty which experiences.
This faculty I treat of.
  PRINCIPLE 1st  That the Poetic Genius is the true Man. and that
the body or outward form of Man is derived from the Poetic Genius.
Likewise that the forms of all things are derived from their Genius.
which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit & Demon.
  PRINCIPLE 2d  As all men are alike in outward form, So (and with
the same infinite variety) all are alike in the Poetic Genius
  PRINCIPLE 3d  No man can think write or speak from his heart, but
he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from the Poetic
Genius adapted to the weaknesses of every individual
  PRINCIPLE 4.  As none by traveling over known lands can find out
the unknown.  So from already acquired knowledge Man could not ac-
quire more. therefore an universal Poetic Genius exists
  PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from each
Nations different reception of the Poetic Genius which is every where
call'd the Spirit of Prophecy.
  PRINCIPLE 6   The Jewish & Christian Testaments are An original
derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
confined nature of bodily sensation
  PRINCIPLE 7th  As all men are alike (tho' infinitely various) So
all Religions & as all similars have one source
  The true Man is the source he being the Poetic Genius

(出典:PENGUIN CLASSICS版 「WILLIAM BLAKE――THE COMPLETE POEMS」より頁75~77)

 

ヰリアム・ブレイク著

 

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳

 

「如何なる自然宗教(理神論)も在り得ない」

[a]

論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。

一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。

二 人間は自身の推理力によつては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。

三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかつた。

四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。

五 人間の希求は自身の知覚によつて限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求する事は出来ない。

六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。

結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に《存在》しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽くす(停止する)のみである。

[b]

一 人間の知覚は認識機構によつて制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上の事を知覚(認識)する。

二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された《存在》と同じである事はない。

三 欠落

四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち歯車複合体たる水車小屋に変容するであらう。

五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もつと!  もつと! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。

六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求する事が出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙つて与へられし運命であるに違ひない。

七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふ事は無限であり自身もまた無限である。

応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。

それ故、神は吾吾が《存在》する限り《存在》し、即ち吾吾は神が《存在》する限り《存在》するのであらう。

 

《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳

 

「全ての宗教は一つである」

荒野の一嘆き声

論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。

第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全《存在》物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。

第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちその事はまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。

第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話す事は出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。

第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出す事は出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかつた。故に全宇宙型詩的霊性は《存在》する。

第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受した事から派生する。

第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。この事は肉体的感覚の限界性から必然である。

第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。

真の人間は自身が詩的霊性である事の源である。

 

以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香つてくるのでね。

さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらぢつと見続けてゐた雪の目は、フランツ・カフカエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭き眼つきを一見髣髴とさせるやうに見えるが、しかし、よくよく見てみると雪の目は柔和そのものであつたのだ。

君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが、雪は未だ《男》に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどう仕様もなく、雪は《男》を目にすると自然と雪の内部に棲む《雪自体》がぶるぶると震へ出し、雪の内部の内部の内部の奥底に《雪自体》が身を竦(すく)めて《男》が去るのをぢつと堪へ忍ぶといつた状態で、雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。

その点、雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかつたのだらう。つまり、雪にとつて私は最早《男》ではなく、人畜無害の《男》のやうな《存在》、しかも、

――この人の人生はもう長くない……。

と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ《存在》を雪は理解してしまつたと、そして、また、そんな雪を、私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまつたのだ。これは一見不思議に見えるが、此の世で生きているならば、誰しも経験があることだらう。

と、そんな事を思ふ間も無く、あの時は無意識裡に私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさず、これまた全的に私の行為を受け容れてくれたのだ。

さて、私が何故《黙狂者》となつてしまつたかを君も薄薄気付いてゐた筈だが、それは私の人生が短く終はるしかないといふ事とも関係してゐたのだらうけれども、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出ようと、一斉に口から無数の言葉が渾沌としたまま飛び出さうとしてしまふからなのだ。多少、無念ではあるがね、人生が短く終はるしかない私にとつて、私の《未来》を閉ぢ込めてゐる筈の私の内部の《未来》は、結果として既に無きに等しいので、私の内部の《未来》には時系列的な秩序、若しくは構造が生まれる筈もなく、つまり、私の《未来》は既にまつ平らで薄つぺらな薄膜の如きものでしかなく、それは、つまり、無きに等しいが故に《渾沌》としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまつてゐるといふ去来(こらい)現(げん)の転倒が私の身には起きてゐて、それ故に《他者》にはそれが《無言》に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が既に私の身には起こつてゐたのだ。

君は私が雪の頭にそつと手を置いた時、私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の《言葉》を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて、ずつと黙つて私と雪との不思議な《会話》を見守つてくれたが、仮に心といふものが生命体の如き《もの》で、傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざつくりとKnife(ナイフ)で抉(えぐ)られ、あの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで《男》に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかつたのだ。それが痛痛しくも鮮明に私には見えてしまつたので、《手当て》の為に雪の頭にそつと手を置いたのだ。そのことは雪もまた、全的に理解していたのさ。

それにしても雪の髪は烏(からす)の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知つてゐるだらう。虹色を纏つたあの烏の羽の黒色程美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴつたりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きをも放つてゐた。

さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうつと消えたのが解つたかい? 

そして、君もご存知の通り、雪の目から恐怖の色がすうつと消えたと思つた瞬間、私は不意の眩暈(めまひ)に襲はれたのだ。

――どさつ。

あの時、先づ、私の目の前の全てが真つ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。しかし、意識は終始はつきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄つたが、私は軽く左手を挙げて、

――大丈夫。

といふ合図を送つたので君と雪は私が回復する迄その場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守つてくれて有難う。私が他人に私の体軀を勝手に触られるのを一番嫌つてゐる事を君は知つてゐる筈だからね……。

あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れないよ。

私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。あの時私の身に何が起きてゐたのかは明瞭過ぎる程はつきりと憶えてゐるよ。

それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真つ白になつたのは一瞬で、直ぐに深い深い深い漆黒の闇が世界を蔽つたのだ。つまり、当然私はその時外界は見えなくなつてゐたのだ。

するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現れるとともに深い深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に二つの勾玉の形をした光雲――光の微粒子が雲の如く集まつてゐたから光雲と名付ける――が現れ、左目の視界の周縁だと思ふ辺りを時計回りに、右目の視界の周縁だと思ふ辺りを反時計回りに、つまり、数学でよく見る二つの集合が交はつた図そつくりに私の視界にその光跡を残しながら、その光雲がぐるぐると私の視界の周縁を周り出したのだ。

そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑んだかと思ふ間もなく不意と消え、世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。

眩暈でぶつ倒れたままの私の視界全体に拡がつたその薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると、突然、赤赤と燃え上がる業火の如き炎が眼前に出現したのだ。それは正に血の色をした業火だつたよ。

その間中、例の光雲は視界の周縁をずつと廻り続けてゐた……。

私が悟つたのはその時だ。自分の死についてそれ以前は未だ何処となく他人(ひと)事のやうに感じてもゐたのだらう。私はまだ己の死に対して、覚悟は正直言つて出来てゐなかつた、が、私が渇望してゐた《死》が直ぐ其処迄来ているなんて……私はその時何とも名状し難い《幸福》――未だ嘗て多分私は幸福を経験した事がないと思ふ――に包まれたのだ。

――くつくつくつ。

私は眩暈で芝の上にぶつ倒れてゐる間《幸福》に包まれて、内心哄笑してゐたのさ。

しかし、燃え盛る業火は、私が眩暈から覚め立ち上がつても目の奥に張り付いて……ちえつ……今も見えてしまうのだがね。

さう、時間にしてそれは一分くらゐの後の事だつたよね。私が不図眩暈から覚め何事もなかつたかのやうに立ち上がつたのは。君と雪は何だかほつとしたのか互ひに顔を見合はせて笑つてゐたね。その時君は初めて雪と目が合つた筈だが、君の目には雪はどのやうに写つたんだい? 私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……。これまた、不思議に思ふかもしれぬが、人間、生きてゐると不可思議な経験の一つや二つあつて当然だらう。君にもそんな不思議な体験がある筈だがね。まだ、ないと思つてゐるならば、直にそれが身に染みて解かる筈さ。

眩暈から覚め何事もなかつたやうにすつくと立ち上がつた私を見て、君と雪は初めて見詰め合つて互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかつた。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチエ・チエンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は、彼女が既に持つてゐた《吾が道ここに定まれり》といつた強い意志を強烈に表してゐたのである。

―大丈夫?

と、雪が声を掛けたが、私は一度頷いたきり茜色の夕空をぢつと凝視する外なかつた……。

何故か――。

君は多分解らなかつただらうが――後程雪には解つてゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の炎が燃え上がるやうな業火が目の網膜に張り付いた事は言つたが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲が、大概は一つなのだが、最早消える事なく今もずつと時計回りに若しくは反時計回りにゆつくりと回つてゐる事である。そして、私はその光雲を人魂だと直感的に判断し、その判断を疑ふ事もなく、今も人魂だと信じてゐるのさ。そして、その人魂は私のものと他人のものとが同時に入り混じつてゐたのだ。つまり、誰か私が与り知らぬ他人が死を迎えると、たぶん、その死を迎へた人間の意識は解放され、全宇宙に向かつて爆発膨張する。そして、私はその爆発膨張した意識の残骸に感応し、私の眼による視界がそれを捉へるのだ。その結果として私の視界にその人魂が一足飛びにやつてきて、私の目玉はそれを捉へてしまうのさ。人間の体軀は殆ど水分で出来てゐる事と此処が北半球といふ事を考慮すると、時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何か――多分それは私自身の魂魄に違ひない――が憧(あくが)れ出て時計回りに回り、若しくは私の全く知らない赤の他人の魂魄が私に侵入し続けてゐる事を反時計回りといふ回転の方向は意味してゐたのである……。

勾玉模様の光雲が見えるのは大概一つと言つたが、時にそれが二つであつたり三つであつたり四つであつたりと日によつて見える数が違つてゐた。例へば、星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで、人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ《生きる屍》となつて杭の如く《存在》する私をして魂魄のカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉へられるのだ。だから多分、その光雲の一つは私の魂魄で、その他は死んだ《もの》の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまつたし、それで間違ひないと今も思つてゐるんだ……。

 

…………

…………

 

さて、君と雪と私はSalonの真似事が行れる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限つて古本屋には寄らずに真つ直ぐに喫茶店に向かひ、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。

私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文し、それから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだつた。

古本屋の主人との遣り取りはいつも筆談だつたので、馴染みの古本屋の主人は多分今でも私の事を聾啞者だと思つてゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文すると、どれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので、私は、埴谷雄高の『死霊(しれい)』を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しても尚、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等がそのまま取り繕ひもせずに直截的に書き記された文章で始まる現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の『富士』の初版本を選んだのだ。

『富士』を読む時は、私は何時もブラームスの「交響曲第一番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねる事に対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になつた時、埴谷雄高椎名麟三を誹(そし)つた事と、そして純真無垢といふのか天衣無縫といふのか、埴谷雄高曰く「女ムイシユキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死す迄泰淳さんは根に持つてゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもあるがね。

さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着く迄終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであつたのである。

馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒毒しい程赤赤とした満月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた燃え盛る業火の炎の色に似てゐたのである。

――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……。

その時、雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも、

――今暫くは逝かないで。

といふやうな切なる感情を以てして私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては無頓着なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫(そぞ)ろ歩きを始めたのであつた。

当然、私は伏目であつた。雪は私の右手首を握つて私を巧く《操縦》してくれたのである。雪が、私を捕まへてないと何処か、つまり《彼の世》へ行つてしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。そして、雪はかう切願してゐたに違ひないのだ。

――今は未だ逝かないで……。

 とね。だが、雪には済まないことなのだが、私はやはり、もうそんなに人生の時間がなかったのさ。

ここで話が横道に逸れるがね、君に私の《死後の世界》について預言しておかう。

私が死して後、私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》の様相を忠実に反映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を始め、私のゐない此の世がまあまあ過ごし易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思つてくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。

まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は、彼女が出家する迄に私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従つた事などは、雪の《男》に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばつくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合し、その傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があつての事で、多分に私の《存在》によつて雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に為り下がつたとはいへ、私も生物学的には《男》そのものだからね。

そして、雪は出家し攝願と為つた訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊(みそぎ)の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒え、その傷の《瘡(かさ)蓋(ぶた)》が剥がれ落ちると、攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。さうして、暫くすると、私も君もSalonの仲間も知つてゐる或る「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へと身を寄せる筈だ。さうして再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で、雪に逢つた時からずつと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子供を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で、雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の配偶者たるその「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙つて彼の世に持つて行くよ。

さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その悔恨に悶絶する程苦悩し続ける事になるが、君は雪の良き理解者となつて、雪の「愚痴」の聞き役になつてくれ給へ。お願ひする。さうする事で君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ、私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。

 

話を戻さう。

ところで、古本屋街を漫ろ歩きしてゐた私と雪との間には、雪がぽつりぽつりと一方的に私に話す以外殆ど会話は無かつた。

沈黙……。Salonの仲間とは違つた心地よさが雪との間の沈黙にはあつたのだ。互ひが互ひを藁をも縋る思ひで「必要」としてゐた事ははつきりとしてゐたので、多分、雪と私の間には――他人はそれを《宿命》とか《運命》とか呼ぶのだらうが――互ひに一瞥した瞬間に途轍もなく太い《絆》で結ばれてしまつたのは確かなのだ……。

 

…………

…………

 

――ねえ、この古本屋さんに入りましよう。

少し強めに雪に握られた右手首を通して、雪の心の声が聞こえて来たのであつた……。

その古本屋は雪の馴染みの古本屋だつた。少し強めに握られてゐた私の右手首から不意に雪は手を離し、雪にはお目当ての本の在り処が解つてゐたのだらう、私を古本屋の入り口に残したまま一目散に其方に向かつて歩を進めたのであつた。

その古本屋は、東洋の思想、哲学、宗教、神話等等の専門の古本屋だつた。

雪に取り残された私は、その古本屋内の仏典の本棚に向かつてゆるりゆるりと歩を進めたのであつた。

私は唐三藏法師玄奘譯(たうさんざうほふしげんぢやうやく)の般(はん)若(にや)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多(た)心(しん)經(ぎやう)が、その時どうした訳か無性に読みたくなつたのであつた。

「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經」

 

訓み下し

 

「觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまへり。

舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空、空はこれすなはち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。

舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くる事もなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くる事もなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に、恐怖ある事なく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三(あのくたらさんみやくさん)菩提(ぼだい)を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなはち咒を説いて曰く、

羯諦(ぎやてい) 羯諦(ぎやてい) 波羅羯諦(はらぎやてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎやてい) 菩提娑婆訶(ぼじそはか)

般若心經」

 

……くわんじざいぼさつ ぎやうじんはんにやはらみつたじ せうけんごうんかいくう どいちさいやく……と、真言を頭蓋内で読誦(どくじゆ)しようとしたが、「觀自在菩薩」の文字を見ると最早私の視線は「觀自在菩薩」から全く離れず「觀自在菩薩」の文字を何故にかぢつと凝視したまま視線が動かなくなつたのであつた。

『觀自在菩薩……何て好い姿をした文字だ……くわんじざいぼさつ……音の響きも好い……何て美しい言葉だ……』

不図気付くと、私の目に張り付いてゐた先程来の業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎよろりと出来得る限り垂直に回転させると、やつと視界の境に業火が見えるではないか。

『これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……』

私はゆつくりと目を閉ぢ、瞼が完全に閉ぢられた瞬間に姿を現す勾玉模様の光雲と業火を見つつ胸奥で何度も何度も……『觀自在菩薩』……と唱へたのであつた。

暫くすると、雪が私を見つけて私の右肩をぽんと叩いた。

――これ、どう?

雪が私に見せたのは陰陽五行説の陰陽魚太極図であつた。

――あなたの目には、今、勾玉が棲み付いてゐる筈よ。何故だかあなたの事が解つてしまふのよ。それに業火もね、うふつ。

ずばりとさう言ひのけた雪が微笑んだ顔は、何か不思議な力を秘めてゐるやうで、雪が微笑んだ瞬間、辺りは一瞬にして《幸福》に包まれてしまふかの如くに私には思へたのであつた。何ともそれは《幸福》といふ言葉がぴつたりなのだ。雪にはどうしようもない優しさがその仕種の一つ一つに宿つてゐて、それは他人を存分に癒してくれるものなのだ。何故か、雪には私の身に起きていた事が全てお見通しであつた。しかし、私はそれが何とも自然な事にしか思へなかったのだ。「以心伝心」と言ふ言葉があるが、私と雪との間には言葉を超えた互ひの理解の仕方が自然に出来上がつてゐて、私はそれを自然に受け容れてゐたのだ。雪もまた、私と同じ感覚を持つてゐたに違ひない。私と雪との間の不思議な交感は既にその時にはしつかりと確立されてゐたのさ。

――あなたには陰陽魚太極図の意味が解るわね。

 私は口を開けて、

――宇宙。

と、無音で言つたのだ。

――さう、《宇宙》よ。……私、哲学を、それも西洋哲学を専攻してゐるけれども……西洋哲学の《論理》が今は虚しくて仕様がないの。……特に弁証法がね……虚しいのよ。……私の勝手な自己流の解釈だけれども……正反→合が何だか自己充足の権化のやうな気がして気色悪いのよ。西洋の哲学者……特にヘーゲルが、何故かはその理由が説明できないのだけれども……何処かNarcist(ナルシスト)に思へて仕様がないの……これぢやあ……西洋哲学専攻者としては失格ね、うふつ。

 

…………

…………

 

君も知つてゐるやうに私は、筆談するとき《つまり》と先づ書き出さないと筆が全く進まないのは知つてゐるね。この時も勿論さうだつたのさ。私は常時携帯してゐるB五版の雑記帳とPenを取り出して、雪と極極自然に筆談を始めたのであつた。

――つまり、ヘーゲルには、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様が、つまり、陰中の陽と、つまり、陽中の陰が、つまり、無いんだよ。つまり、それで君は、つまり、ヰリアム・ブレイクを、つまり、読んでゐたんだね。

――さう……。

君にも教へておかう。雪は直感的に何故私が《つまり》を連発するのか解つたが、私の当時の思考は堂堂巡りをする外ない《渾沌》の只中にあつたのさ。或る言葉を書き出すときその言葉を頭蓋内から取り出すには、一度思考を頭蓋内で堂堂巡りを、つまり、思考を一回転させないと最初の一語が出て来ず仕舞ひだつたのだ……。

君はストークスの定理は知つてゐるね。その当時の私の思考の有様は将にストークスの定理を地で行つてゐたのさ。

 

…………

…………

 

※「ストークスの定理

 ストークスの定理はベクトルが定義されている空間内での線積分を面積分に変換する公式。考え方はガウスの定理に似ているが、ストークスの定理は次のやうな式として表される。

 

 この中に出てくる   という部分はベクトル量である。よつて次のやうな   、   、   の 三 成分で表現しなければならない。

 

Figure 1

 これはベクトルの回転を表す量なので「rotation」を略して   と書く。教科書によつては   と表記しているものもある。

 

…………

…………

 

――つまり、キルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さつき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買つたから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。

――有難う。でも、借りるだけね、うふつ。

――つまり、君は、つまり、知つてゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、正確無比に記述、つまり、出来ない事を? 

――えつ! 知らないわ。さうなの……。

雪は終始愉快さうであつた。即ち、それは私が愉快であつたといふ事である。ねえ、君、他者は自己の鏡だらう? 雪が愉快だといふ事は、取りも直さず私が愉快だつた事が雪に映つてゐただけの事に違ひないのさ……。

――つまり、渦の紋様が、つまり、古の昔から《存在》してゐて、つまり、しかもそれが、つまり、人類共通の、つまり、紋様だつた事は、つまり、知つてゐるね。

――ええ。アイヌの人人の衣装を見ただけでも自明の事よ。日本は勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ正確には数式で記述できないつて事が不思議でならないわ。

――つまり、其処なんだ、つまり、問題は。つまり、僕の、つまり、直感だけれども、つまり、渦を、つまり、数式とかで記述するには、つまり、∞の次元が、つまり、自在に、数式で、つまり、操れないと、つまり、記述できないと、つまり、思へて仕方がない……。

――∞の次元? ねえ、それは何の事? 

――つまり、此の世は、つまり、アインシユタインの一般相対性理論のやうに、つまり、四次元多様体であるといふのが、つまり、一般的だが、ちえつ、中には五次元とも十次元とも言われてもゐるがね、つまり、其処でだ、つまり、君は、つまり、特異点を知つてゐるね。つまり、人類が、つまり、未だ渦を、つまり、物理数学的な数式で、つまり、正確には記述できない事が、つまり、この世界を、つまり、量子論と相対論とを、つまり、統一出来ない、つまり、その根本原因だと、つまり、その歪(ひずみ)が、つまり、特異点として、つまり、現れて、つまり、人類は特異点の問題を、つまり、姑息な手段で、つまり、なるべく触れずに、つまり、取り繕つて、つまり、何事か、つまり、世界が物理数学で、つまり、記述出来ると、つまり、錯覚してゐたい、つまり、穴凹だらけの地面を見て、つまり、「この土地はまつ平らな土地だねえ」と、つまり、夢幻(むげん)空(くう)花(げ)な《もの》として錯覚してゐる事を重重承知してゐるのに、つまり、それを敢へて錯覚して見せてゐるに、つまり、違ひないのさ。

――えつ? もつと解りやすくお願ひ。

――つまり、僕の直感だけれども、つまり、渦は、つまり、四次元以上、つまり、∞次元を四次元多様体に射影しただけの、つまり、∞次元多様体を四次元で表しただけの、つまり、仮の姿に、つまり、過ぎない。そして、つまり、渦は、つまり、此の世の結び目、つまり、四次元時空間を、つまり、宇宙として繫げてゐる、つまり、結節に違ひないのだ。

――つまり、銀河の事ね。パスカルぢやないけれど、二つの無限の中間点が……渦といふ事ね。そして、人間もまた……渦といふ事ね。

――さう。

――うふ。

――つまり、渦が、つまり、物理数学的に正確無比に一度(ひとたび)記述出来るといふ事は、つまり、《無限》の仮面が、つまり、剥がれる、つまり、時さ。そして、つまり、人類は、つまり、此処に至つて漸く本当の《無限》に、つまり、出遭ふのさ……

――本当の《無限》? 

――つまり、人類が、つまり、無限大を、つまり、∞といふ《象徴》で、つまり、封印した事が、つまり、間違ひの元凶だつたのさ。しかし、∞といふ、つまり、象徴記号が、つまり、なかつたならば、つまり、科学の発展は、つまり、もつともつとゆつくり進んだに違ひない……つまり、ねえ、君、人類は、つまり、得体の知れぬものに、つまり、《仮面》なり、《象徴記号》なり、《名前》なりを、つまり、付けずには、つまり、堪へられぬ、つまり、生き物だらう? 

――さうね……《心》がその典型ね。きつと無理ね。この私の内部に棲息する《もの》を《心》と名指さなければ、精神分析学が、つまり、フロイトが此の世に出現する事もなかつたわ。ねえ、さうでしよう。

――……。

――ねえ、うふ、《得体の知れぬ》あなたは、形而上で呼吸をしてゐる《不思議》な生き《もの》ね……。ドストエフスキイ曰く、あなたは《紙で出来た人間》の眷属なの? えへ。

――つまり、さうかもね、へつへ。つまり、《魂の渇望型》の、つまり、生き《もの》さ。さて、……その、つまり、陰陽魚太極図だけれども、つまり、僕の勝手な、つまり、解釈だけれども、つまり、東洋、つまり、特に日本は、つまり、陰陽→太極で論証する、つまり、弁証法の正反→合に比べたら、つまり、曖昧模糊とした論証だけれども、つまり、しかし、陰陽→太極で思考する方が、つまり、深遠だと思ふのだ。つまり、それは、つまり、『何故?』と訊かれても言葉に、つまり、窮するがね。つまり、だが、東洋、特に日本は、論証が曖昧模糊としたものに、つまり、ならざるを得ぬのだ。つまり、それは、つまり、陰陽魚体極図の太極図に見る、つまり、宇宙がその象徴として曖昧模糊とした、つまり、ものでとしか表現してゐないからなのさ。つまり、その点は西洋の論理とは、つまり、根本的に、つまり、思考法が違つているのさ。

――さうね。さうかもしれないわ。

――君は、つまり、今、つまり、道元親鸞に、つまり、心酔してゐるね? 

――さう……。あなたは何でもお見通しね、うふ。キルケゴールの『おそれとおののき』だつたかしら、アブラハムとその子イサクについての基督者の厳然とした覚悟と言ふのか姿勢が書かれてゐた筈だけれども……私……《論理》を超えた《言葉》を……今……渇望してゐるの。それが道元親鸞にはあるやうな気がするのよ。だからかしら、《神》無き仏教に惹かれてしようがないの。それに、私、神が傍若無人を人間に働く『ヨブ記』が大嫌い! 

――でも、つまり、ブレイクもキルケゴールも、つまり、『ヨブ記』に耽溺してゐた筈だがね……。

――さうね、基督者にとつては『ヨブ記』はある意味、信仰の《踏み絵》ね。確か、ドストエフスキイも好んでいた筈だわ。

――つまり、砂漠の地で生まれた、つまり、ユダヤ教、基督教、そして回教のいづれも、つまり、《自然》といふ名の《神》は、つまり、皆、つまり、悪意に満ちてゐなければならなかつたのさ。つまり、彼らは、つまり、それ程迄過酷な自然環境の地で生きなければならなかつたのさ。つまり、だから、砂漠で生まれた宗教史が世界を、つまり、蔽ひ尽くし、つまり、砂漠と言ふ過酷な、つまり、自然環境に堪へ得た、つまり、宗教しか、つまり、残らなかつたとも言へる。しかし、日本は、つまり、自然は、つまり、或る時は傍若無人を働くが、つまり、しかし、とても柔和なものとして、つまり、人人を包んでくれた。つまり、だから、日本では、つまり、今も、原初的とも言へるAnimism(アニミズム)の一種たる宗教の神道、つまり、八百万の神神が、つまり、今も、つまり、厳然と生き延びてゐるのさ。

――うふ。それで一神教を信仰する世界は厳格なる縦関係で《秩序立つて》ゐたのね。だから、私には虚しいだけの《論理》と《科学》が発展したのね。

――さう、つまり、《理不尽》にね……。

――さうなの、西洋の《論理》は《理不尽》なのよ。

――Credo,quia absurdum、つまり、君は、つまり、《不合理故に吾信ず》といふ、つまり、箴言を知つてゐるね。つまり、埴谷雄高を知つてゐるね? つまり、確か、テルトウリアヌスの言葉だつたと思ふが、否、つまり、その前に、つまり、君は、つまり、此の世に《秩序》があると思ふかい?

――ええ、知つてゐるわ。『死靈』は読んだわよ。そして、《秩序》は勿論あるわ。

――へつへ。つまり、此の世に、つまり、《秩序》があるのに、つまり、君は、つまり、西洋の《論理》は、つまり、《理不尽》といふ。つまり、君の《論理》に、つまり、《矛盾》がないかい? 

――うふ、《矛盾》はないわよ、天邪鬼さん。だつて此の世の《秩序》がそもそも《理不尽》なのだもの、うふ。

――つまり、《真理》、若しくは《摂理》といふ名の、つまり、《神》の御業を、つまり、把握したいが為に人間は、つまり、哲学から、つまり、始まつて、そして、つまり、数学やら物理やらを、つまり、派生させ、つまり、《真理》の追究に、つまり、邁進して来たが、つまり、君はどう思ふかな、つまり、哲学者や数学者や物理学者等に、つまり、定理、公理、法則等が、つまり、此の世に厳然と、つまり、《存在》すると、つまり、彼達は言ふが、つまり、では、その、つまり、定理やら公理やら法則やらは、つまり、何故、どうして、つまり、《存在》するのかを、つまり、その根本の根本のところを彼らに尋ねると、さて、つまり、彼等は何と答えるかね? 

――さうね、多分、解らないと答へるでしようね。

――つまり、其処さ。つまり、彼等は言外で、つまり、《神》の《存在》を、つまり、認めてゐるのさ。更に言へば、つまり、彼等は全て、つまり、一神教の《神》が此の世を創世したと心の深奥では、つまり、信じてゐるのさ。

――さう、それが私の言ふ《理不尽》の根本なのよ。幾何学等を発展させたエジプトやギリシア、そして零を発見したインド、更にニユートンやライプニツツに比肩する程の独自の和算を発展させた日本、これら全て多神教よ。

――つまり、ギリシアを始め、つまり、欧州に原始基督教が布教した頃は、つまり、土着の信仰も許容してゐた筈なのだが、つまり、僕の勝手な考へだけれども、つまり、欧州の土地が、つまり、石畳で蔽はれるのと機を一にして、多分、つまり、一神教の圧制が、つまり、始まつたと思ふ。つまり、石畳に蔽はれたといふ事は、つまり、それは砂漠と同じと看做せるからね。つまり、これは、つまり、人間の性(さが)だが、つまり、石畳といふ《単純明快》な生活環境が理不尽な自然の儘の環境よりも其処に《美的感覚》を見、つまり、《単純明快》と《美的感覚》は結び付いてゐる、つまり、一神教の圧制は、つまり、必然なのさ。

――一神教の圧政? あなたの言ふ通りかもしれないわ。さうかもしれないわね……。

――つまり、話は一気に飛躍するけれども、つまり、無性生殖の単細胞から有性生殖の多細胞へと、つまり、生物が、つまり、進化した事と、つまり、《単純明快》が《美的感覚》と結び付く人間の性と、つまり、密接に関係してゐると考へるのが自然なのさ。

――えつ。どうして? 

――つまり、君には酷な話になるが、つまり、口を濁さず言ふけれども、つまり、君は既に、つまり、独りで立ち上がつて、つまり、何かを《決心》してゐるから、つまり、直截的に言ふよ。つまり、特に人間だが、つまり、君は、つまり、一つの卵子が作られる、つまり、過程は知つてゐるね? 

――……ええ、多くの卵細胞から卵子に為れるのはたつた一つ。後は卵胞閉鎖で自ら死滅して行くのよ。それを今ではApoptosis(アポトーシス)と名付けてアポトーシスといふ現象で生物の事象が説明できるといふ事を見出した時、生物学者は何か新発見をしたかのやうにしたり顔で馬鹿みたいに《歓喜》してゐるけれども。

――つまり、君は、何故卵子は一つなのか、つまり、君の考へを、つまり、聞かせてくれないか。

――えつ! 何故卵子が一つなのか? そんな事これ迄考へもしなかつたわ。御免なさい。私、それが《自然》で当然の事だとしか思つてゐなかつたから。卵子が一つなのは何か理由でもあるの? 

――つまり、これは私の独断だがね、つまり、遺伝子には《諦念》或いは《断念》といふ情報が組み込まれてゐる、つまり、私はそれを《断念遺伝子》と勝手に名付けてゐるが、つまり、生き物は《断念》、これは詩人の、つまり、石原吉郎に影響されたんだが、つまり、生物は《断念》を、つまり、《宿命》付けられてゐる。つまり、《断念》無しに、つまり、此の世の《秩序》は在りつこ無いんだ。

――《断念》……ね。うふ、一つの卵子にはそれが生き残る為に無数の死滅した卵子に為れざる卵子達の《怨念》が負はされてゐるのかしら?

――へつへ。つまり、僕の独断で言へば、つまり、その《怨念》を負つてゐる。つまり、自ら死滅した卵子達の、つまり、死の大海に、つまり、たつた一つの卵子がたゆたふ。つまり、そのたつた一つの卵子は、つまり、死滅した無数の卵子達の《怨念》を、つまり、負はなければならない《宿命》なのさ。

――すると、ねえ、……。

――精子だね。さう、つまり、受精はたつた一つの卵子とたつた一つの精子のみしか出来ない、つまり、受精はそもそも、つまり、無数の《死》をそれが《存在》する事の前提として「先験的」に背負はされてゐる。つまり、無数に女性の、つまり、膣内に放出された、つまり、精子達は女性の体内で《死滅》して行く。つまり、僕や君が、つまり、此の世に《存在》する前提に、つまり、既に無数の《死》が、つまり、厳然と《存在》してゐるのさ。

――さう……ね。……ちよつと待つて。ねえ、何故人間は全ての卵子と全ての……精子……を受精させないのかしら? 受精以前に自ら《断念》して死滅する必然なんて何処にも無い筈だわ。

――さうだね。つまり、其処なんだよ、此の世に《秩序》がある《理由》が。つまり、人間もまた、つまり、魚類や昆虫等等と、つまり、一緒に、つまり、他の生物の《餌》になる前提で、つまり、無数の受精卵が、つまり、胎内に、つまり、《断念》せず《存在》してても良い筈なんだ。しかしだ、つまり、現実はさうは為つてゐない。つまり、DNAはどの生物も、つまり、その組成物質の蛋白質は、つまり、《同じ》にも拘はらず、ある生物は、つまり、他の生物の《餌》となるために、つまり、《死滅》せず無数の受精卵が《存在》し、つまり、また、ある生物は《餌》とならないために、つまり、特に人間は、つまり、無数の《死》の大海に、つまり、たつた一つの受精卵を《存在》させる。へつへ、つまり、此の世の《秩序》は、つまり、《不合理》がそもそも「先験的」に、つまり、前提になつてゐる。

――それつて《神》の気紛れかしら。ええつと、Credo……何だつたかしら? 

――Credo,quia absurdum。つまり、《不合理故に吾信ず》。

――それそれ。ねえ、《秩序》は《不合理》の異名なの? 

――いや、つまり、僕が思ふに、つまり、《秩序》は《不合理》を、つまり、許容しなければならない。つまり、それは何故だと思ふ? 

――さうね、《秩序》が《合理》であるとすると、う~ん、そつか、その《社会》には《合理》しか有り得ない。さうすると《主体》は《不自由》極まりないわね。

――さう。つまり、《人類》より遥かに進化してゐる、つまり、昆虫、中でも、つまり、蜂や蟻を考へてごらん。

――御免なさい。私、昆虫は余り詳しくないの。

――つまり、蟻を例にすると、つまり、蟻は大きな群れを作つて、つまり、集団で生活してゐるね。つまり、蟻は、つまり、《社会性昆虫》と言はれてゐる。ところで、つまり、君、蟻に《脳》は、つまり、在ると思ふかい? 

――えつ、さうね、在るんぢやないの。

――さう、つまり、昆虫にも、つまり、《脳》はある。つまり、さうぢやなきや、つまり、此の世は、つまり、《昆虫天国》になる筈はない。それぢや、君、つまり、蟻は《思考》すると思ふかい? 

――えつ、それは、う~ん、解らないわ。

――つまり、蟻が、つまり、《思考》するかどうかは、つまり、これからの研究を待たなければならないんだが、つまり、仮に蟻が《思考》するとして、つまり、蟻は血縁の社会だが、つまり、さうすると、何故、つまり、蟻の社会には、つまり、働き蟻による《内訌》や《叛乱》や《謀反》が、つまり、起こらないのだらうかね。

――う~ん、……《自由》の問題かしら? 

――さうだね、つまり、《自由》の問題になるのかもしれないね。それに蟻の社会には、つまり、二割程だつたか、つまり、全く働かない蟻が、つまり、《存在》する。そこで、つまり、君、蟻の社会は途轍もなく《合理的》だよね。つまり、そこでだ、つまり、蟻のやうに途轍もなく《合理的》な、つまり、それも、つまり、《合理》をとことん突き詰めたやうな、つまり、《秩序》が《合理》そのものの《社会》で、つまり、《思考》する、つまり、《主体》の《自由》は、つまり、《許容》されると思ふかい? 

――さうね。働いてゐる蟻といふ《存在》にとつては《自由》は無きに等しいわね。しかし、社会的に《合理》をとことん突き詰めると、必ず何割かは無為な、うふ、多分、それは思索しているのかもしれないけれども、その無為な蟻がゐないのであれば、それは将に《合理》を、うふ、それは誤謬の《合理》に違ひない筈だわ。無為の蟻が《存在》しない蟻の社会をして、その誤謬の《合理》を《正しき合理》として《洗脳》された全きの《洗脳社会》としかその全ての蟻が働き蟻である蟻社会は言へないわね。そんな《合理的》な社会では《主体》が皆全て《洗脳》された《自由》無き、考へただけでもぞつとする程気色悪い、寒気がする社会ね。ねえ、さうすると、《秩序》はそもそも《不合理》だとして、う~ん、《秩序》が《不合理》であればある程、《主体》の《自由》は保証されるといふ事かしら? 

――つまり、それも《按配》だね。つまり、君、《渾沌》に《自由》はあると思ふかい? 

――うふ、《渾沌》には《自由》しかないわ。だつて《秩序》が無いんだもの。でも、《主体》はその《渾沌》といふ《自由》に潰されるわね。《破滅》のみね、《渾沌》にあるのは。そして、うふ、《渾沌》から《秩序》が生まれる……。うふ、パスカル風に言ふと「二つの〈渾沌〉の中間点が〈秩序〉」……ね。不思議ね。

――君、その陰陽魚太極図が、つまり、《渾沌》から《秩序》が、つまり、生まれる瞬間の《象徴》だよ。つまり、「人間は思考する葦である」。つまり、人間は《渾沌》も《秩序》も、つまり、《思考》出来る《自由》がある。だけども、つまり、この《自由》が、つまり、曲者なんだよ。ねえ、君、つまり、そもそも人間は、つまり、《自由》を持ち堪へるに十分な、つまり、《存在》だと思ふかい? 

――えつ、自由か……、それが私には解らないのよ。そうね、例へば、主君の死に殉じて自ら殉死する人人、例へば、一遍上人は禁じてゐたにも拘はらず一遍上人の死に殉じて入水(じゆすい)した僧や癩者達、そして《死の自由》の狂信者としてドストエフスキイの作品『悪霊』に登場するキリーロフ等等、いづれも《何か》の《殉死》だけれども……う~ん……《自由》の問題を考へると私はどうしても《死の自由》に行き着いちやうの……。どれも極端だけどもね。

ここで私は雪に「一寸」といふ合図を右手で送つて、鞄から或るMemo帳を取り出して、バクーニンが草稿を書きネチヤーエフが補足したと言はれてゐる「革命家の教義問答」を雪に読ませたのであつた。その内容はかうだ。

『革命家は既に死刑を宣告された者である。彼は個人的な興味も個人的な感情も持たない。彼自身の名さへ持たない。彼は唯一つの観念を持つてゐる。革命がそれである。彼はこの教養ある世界のあらゆる法律、あらゆる道徳律と断絶してゐる。彼がその世界の一部である如くに振舞ひながらその世界の中で生活するのは、唯只管(ひたすら)その世界をより的確に破壊するが為である。この世界の中の全ての事物は等しく彼にとつて憎むべきものでなければならない。彼は冷ややかでなければならない。彼は常に死ぬ用意をしてゐなければならない。彼は苦痛に耐へる訓練をしてゐなければならない。そして、自己内部のあらゆる感情を圧殺するため絶えず備へてゐなければならない。彼の目的を妨げる怖れのある時は名誉の感情さへ含めて、彼は唯その目的に貢献する者のみに友情を感じて差支へない。彼はより低い能力を持つた革命家達を唯消費すべきところの資本と看做さねばならない。もし同志が危難に陥つた時は、その運命は彼の有益性と、彼を救ふために必要な革命勢力の消費度によつて決定されねばならない。支配する側については、革命家はその構成員を、その個人の悪しき性質によつてではなく、革命の大義に害悪を齎す様様な度合に応じて、区分しなければならない。最も危険なものは直ちに除かれねばならない。けれども、そこには次のやうな他の部類に属する者がゐる。その或る者は、放任されたままでゐる限り、怖るべき所業を敢行し民衆を昂奮せしめる事によつて革命の利益を促進し、また或る者は、恐喝と脅迫によつて大義の目的に役に立ち利用され得るのである。自由主義者の部門は、彼等の方針に一致するかの如く彼等を信じしめ、それによつて、こちらの方針をもまた容れる事を妥協せしめながら、彼等を利用せねばならない。他の急進主義者については、多くの場合彼等を完全に破滅せしめる行動に駆り立てねばならない。そして、稀な場合、それが彼等を革命家に仕立てあげるのである。革命家の唯一の目標は手を使う労働者達の自由と幸福であるが、この事態が唯全破壊的な、全人民の革命によつてのみ成し遂げられる事を考慮して、革命家は全力を傾倒して人民がついに忍耐心を失うに至るだらうところの全ての悪行を推し進めなければならない。ロシア人は、西欧諸国において一般化してゐる革命の古典的な形態、つまり、財産に対し、また、所謂文明と道徳による伝統的な社会秩序に対して常に足踏みし、そして国家を唯別の国家によつて置き換へてゐるところの革命の古典的形態を断乎として拒絶しなければならない。ロシアの革命家は国家を、その全伝統、全制度、全階級とともに、根こそぎに廃絶しなければならない。かかるが故に、革命を醸成するGroup(グループ)は人民に対して如何なる政治的組織をも上から押し付けようと試みないであらう。未来社会の組織は、疑ひもなく、人民自体の中から生まれる。吾吾の事業は唯恐怖すべき、完璧な、全般的な、無慈悲な破壊を為す事にある。そして、この目的の為、大衆の頑固に反抗する諸部分を結合せしめるばかりでなく、ロシアにおける唯一の真実な革命家であるところの法の保護を失へる全ての者達の不屈な集団を団結せしめばならない』(埴谷雄高著「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集」〈講談社〉参照)

 

…………

…………

 

――どう? つまり、これもまた《自由》の一形態だが……。

――ネチヤーエフが『悪霊』のピヨートル・ヴエルホーヴエンスキーのModel(モデル)だとは知つてゐたけれども「革命家の教義問答」を読むのは今日初めて……。

――つまり、《自由》は冷徹非道性を必ず備へてゐなければ、つまり、それは《自由》として取り上げるに値しない……つまり、《自由》は、つまり、そもそも《残虐非道》なものに違ひない……と思ふけれども、つまり、君は、どう思ふ? 

――さうね、《自由》《平等》《友愛》を掲げ、神をその玉座から引き摺り落とし《理性》が神の玉座に座つたフランス革命が好例ね。ブレイクもフランス革命を「The French Revolution」として著してゐるけれども、人間が《自由》のど真ん中に抛り出されると如何に《愚劣》か……さうよね、あなたの言ふ通りかもしれないわ……、人間は《自由》を持ち堪へられないのかもしれないわね。フランス革命後の大粛清がその証左だわ。どうして人間は、《自由》を手にすると猜疑心が芽生えるのかしら。《自由》である事に誰も堪へられず猜疑の眼ばかりが爛爛と輝き、最後は『敵は殺せ!』を地でいって、大粛清、つまり、殺戮の連鎖が続く皮肉。きっと《自由》を人間は持ち堪へられないのだわね。

――つまり、人間はどうあつても《下等動物》でしかなく、つまり、その《宿命》から遁れられない《大馬鹿者》であるといふ自覚がなければ、つまり、結局《縄張り》争ひの坩堝に自ら進んで身を投じ、つまり、最後は無惨な《殺し合ひ》に終始する《愚劣》な生き《もの》といふ事を自覚しなければ、つまり、人間にとつて《自由》は《他者を殺す自由》に摩(す)り替はつてしまふ外ない。つまり、レーニンがネチヤーエフを認め、つまり、「革命家の教義問答」をも認めてゐた事は有名な話だけれども、つまり、レーニンが最も自身の後継者にしてはならないとしてゐたスターリンがソヴイエトを引き継ぎ、つまり、《大粛清》を行つたのも、人間が《自由》に抛り出された末に辿り着く《宿命》、つまり、《自由》に堪へ切れずに人間内部に《自然発生》する《猜疑心》の虜になるといふ《宿命》、つまり、即ち《他者を殺す自由》が人間に最も相応しい《自由》といふ事を証明してゐる。つまり、人類史をみれば、つまり、《自由》が《他者を殺す自由》でしかない事例は枚挙に暇がない。つまり、《他者を殺す自由》以外は全て排除、つまり、《自由》は《自由》に《抹殺》されてしまふ。

――其処でだけど、ねえ、《自殺する自由》はどう?  

――……。

――やつぱり、あなたも考へてゐるのね、《自殺する自由》を……。

――つまり、《何か》を《生かす》以外の《自殺》はそれが殉死であらうが、つまり、《自殺》は何であれ地獄行きさ。つまり、卵子精子の例ぢやないけれど、つまり、《一》のみ生き延びさせるための《自死》以外、つまり、《自殺》は、つまり、地獄行きだ。

――どうして《自殺》は地獄行きなの? 

――つまり、例へば、僕も君も、つまり、一つの受精卵から子宮内で十月十日の間、つまり、全生物史を辿るやうに全生物に変態した末に人間に為るが、つまり、その一つの受精卵の誕生の一方で、つまり、《自死》した数多の卵子と女性の体内で死滅した数多の精子の《怨念》を、つまり、《背負はされて》此の世に誕生した訳だが、つまり、《自殺》はその死滅した、つまり、卵子達と精子達が許さず、そして、つまり、生き残つた奴が《自由》に《自殺》した場合、つまり、此の世に誕生する事無く死滅させられた卵子達と精子達が、つまり、《自殺》した奴を地獄に送るのさ。更に《生者》が《自殺》する迄食料として喰らはれて来たこれまた数多の《他の生物達》の《怨念》も含めて、つまり、あらゆる《生者》は生まれた時から《死者》の数多の《怨念》を背負つてゐるから、つまり、《自殺の自由》を《生者》が行使した場合、つまり、地獄行きは《必然》なのさ。

――それでかしら、《他者》といふ、《吾》にとつては徹頭徹尾《超越》した《存在》が《存在》するのは……。つまりね、人間は独りでは《自由》を持ち堪へられない、故に《他者》が《存在》する、つてね、うふ。

――さう、そして、つまり、未だ出現されざる未出現の《未来人》を必ず《未来》に出現させる為にも、つまり、《現在》に《生》を享けた《もの》は、つまり、与へられた《生》を全うしなければならない。つまり、その為には人間は数多の《他者》と共に、つまり、何が何でも、つまり、それが仮令不快、若しくは苦痛、若しくは虫唾が走る事態であつても、つまり、《他》と共に生きねばならない。

――ねえ、さうすると、人間は《自由》とどう関はれば良いと思ふ? 

――正直言ふと、つまり、僕にはそれは解らないんだよ。つまり、《自由》の正体が阿修羅の如き《自由》だとすると……、君はどう思ふ? 

――さうね、人間は分を弁(わきま)えるしかないんぢやないかしら……、うふ、私にもこの《残虐非道》な阿修羅の如き《自由》に対しての人間の振舞ひ方は解らないわね、うふ。だつて、《自由》を自在に操れるのは《神様》以外在り得ないもの。ねえ、さうでしよ、うふ。

 

…………

…………

 

君もさう思ふだらうが、雪の微笑みは何時見ても純真無垢な美しさに満ち溢れてゐたが、この時の雪の微笑みも「これぞ純真無垢の典型!」といふやうな飛び切りの美しさに包まれてゐて私は心地良かつたのである……。雪の顔には自身には解からないとは思ふが、自然に純真さが溢れ出てしまふ心の美しさが雪の笑顔には現はれてしまふのだ。これに私は惹かれたのだがね。

 

…………

…………

 

――断罪せよ。

例へば澱んだ溝川(どぶがは)の底に堆積した微生物の死骸等のへどろが腐敗して其処からMethane Gas(メタン・ガス)等がぷくりぷくりと水面に浮いてくるやうに、私の頭蓋内の深奥からぷくりぷくりと浮き上がつては私の胸奥で呟く者がゐたのは君もご存知の通りだ。

――お前自身をお前の手で断罪せよ。

これが其奴の口癖だつた。

多分、私が思ひ描いた私自身の《吾》といふ表象が時時刻刻と次次に私自身が脱皮するが如くに死んで行き、その表象の死屍累累たる遺骸が深海に降る海雪(Marine snow)のやうに私の頭蓋内の深奥に降り積もり、それがへどろとなつて腐敗Gasを発生させ、その気泡の如きものが私の意識内に浮かび上がつては破裂し、

――断罪せよ。

といふ自己告発の声になると私は勝手に考へてゐたが、雪との出会ひにより、私をしてそれを実行する時が直ぐ其処に迫つてゐる事を自覚しないわけにはいかなかつたのだ。今にして思へば、雪との出会ひは私が私自身を断罪するその《触媒》であつたのだらうとしか思へないのだつた……。

勿論、私の頭蓋内の深奥には深海生物の如き妄想の権化と化したGrotesque(グロテスク)な《異形の吾》達がうようよと棲息してゐた筈だが、其奴等も私が余りにも私自身の表象を創つては壊しを繰り返すので意識下に沈んで来た《吾》の表象どもの遺骸を喰らふのに倦み疲れ果てて仕舞つてゐたのは間違ひない……。

多分、其の時の私の頭蓋内の深奥には、私が創つた表象の死骸が堆く積み上がる一方だつたのだ。

――断罪せよ。お前がお前の手でお前自身を断罪せよ! 

 

…………

…………

 

さて、私がSalonでは読書会がもう始まつてゐるのでSalonに行かうと雪に言付けして其の古本屋を出やうとすると、雪が、

――一寸待つてて。二、三冊所望の本を買つてくるから。

と、言つたので私は軽く頷き其の古本屋の出口で待つ事にしたのであつた。

外はAsphalt(アスフアルト)とConcrete(コンクリート)が発散する熱と人いきれの不快な暑気に満ちてゐて、其の中、淡い黄色を帯びた優しい白色の満月の月光が降り注ぐ、何とも名状し難い胸騒ぎを誘ふ摩訶不思議な世界へと変貌してゐた。東の夜空を見上げると美麗な満月がゆるりと昇つて、その満月は、暑気による陽炎に揺れてゐたが、私は『今夜は何人の人が誕生し、そして何人の人が亡くなるのか』等とぼんやりと生死について思ひを巡らせずにはゐられなかつたのである。満月の夜は必ずさうであつた。私にとつて月は生物の生死の間を揺れ動く弥次郎兵衛のやうな《存在》で、且、生物の生死を司るある種創造と破壊の神、シヴア神のやうな《存在》に思へたのであつた。

と、其の時ぽんと私の左肩を軽く叩き、

――お待たせ。

と、雪が声を掛けたのであつた。私は左を向いて雪の瞳を一瞥して不意に歩き出した途端、雪は私の右手首を今度は軽く握つて、

――もう、待つてよ、うふ。

と私に純真無垢な微笑を送つて寄越したのであつた。しかし、私は含羞の所為(せゐ)もあつて其のまま歩を進めたのである。

――もう、うふ。

と、雪は私の右側にぴたりと並んで歩き出したのであつた。

袖振り合ふも他生の縁。私は相変はらず伏目で歩いてゐたが、すると直ぐ様私の右手首を少し強めに握つた雪が私を握つた左手で私の歩行の進行を見事に操るので、私は内心、 

――阿吽(あうん)の呼吸か……ふつ。

などと思ひながら密かに愉悦を感じざるを得なかつたのである。そして、私と雪が相並んで睦まじさうにゆつたりと二人の時間を味はひながら歩く姿を、私達の傍らを通り過ぎる人達が興味津津の好奇の目を向けてゐる。その多少悪意の籠つた視線の鋭き気配を感じながら、私は、この私達の傍らを好奇の目を向けて通り過ぎる彼らともまた他生の何処かで会つてゐる筈だと内心で哄笑しながら、 

――さて、私との彼等の他生の縁(えにし)は人としてなのだらうか。 

などと揶揄してみては更に内心で哄笑するのであつた。 

それはまさしくゆつたりとした歩行であつた。 

不意に雪を一瞥すると、雪は例の純真無垢な微笑を返すのである。雪もまたこのゆつたりとした歩行に何かしらの愉悦を感じてゐたのは間違ひない。 

男女が二人相並んで歩くといふ行為は、しかし、よくよく考へてみると不思議極まりない、ある種奇蹟の出来事のやうな錯覚に陥る。偶然にも同時代に生を享け、偶然にも互ひに出会へる場所に居合はせ、互ひに何かしら惹かれあふ《もの》をお互ひに感じ、そして、互ひに見えない絆を確信し相並んで歩く……、これは互ひに出会ふべくて出会つてしまつた運命といふ必然の為せる業なのかもしれない……。 

私は雪に微笑みかけ、雪もそれに応へて微笑み返す……。人の縁(えにし)とは誠に不思議である。 

そして、ゆつたりとした歩行は続くのであつた。 

と不意に私と他生の縁を持つた人間が、また、この瞬間に此の世を去つたのであらう、私の視界の周縁に光雲が出現し、そして、それはカルマン渦が発生するやうに二つに分かれ、私の視界全体でも左目に当たる部分では時計回りに、右目に当たる部分では反時計回りに、その二つに分かれた光雲が旋回し始めたのであつた。そのまま光雲が私の視界でぐるりと回つてゐたその時、雪を見ると、 

――……また誰か亡くなつたのね……。あなたの目、何となく渦模様が浮かんでゐる気がするの……不思議ねえ……何となくあなたの異変が解つてしまふの。あなたの眼に見える渦模様をあなたは人の魂魄と看做してゐるやうだけれども……ねえ……あなたは憑依体質な人なの? 私は幽霊とか見えないから解からないのだけれども、幽霊が見えてしまう人は、それはそれで大変なことだらうとは思ふの。 

私は軽く頷くと都会の人工の灯りが漏れ出て明るい夜空に目を向け、 

――諸行無常

といふ言葉を胸奥に呑み込むのであつた。すると、雪が、 

――諸行無常。 

と溜息混じりにぽつりと呟いたのである。私が振り返ると、雪は何とも名状し難い悲哀の籠もつた不思議な微笑を私に返したのであつた。

 

…………

………… 

君も多分不思議に思つてゐるだらう。何故月の盈虚(えいきよ)がこれ程生物の生死、また、地震の生起に深く関はつてゐるのかを。人間で言へば新月と満月の日に出生する赤子と死に行く人間の数が他の日に比べて多いといふのは、私の思ふところ、仄かな仄かな仄かな重力の差異が人間の運命を大きく左右する、つまり、仮に《運命次元》なるものが《存在》し、重力の仄かな仄かな仄かな差異がその《運命次元》を発生させ、また消滅させる契機になつてゐるとすると、物理学者は重力の謎を考へれば考へる程迷路乃至は袋小路に入り込み、多分、生物の運命を左右し重力と相互作用する新たな粒子の《存在》を考へないと《世界》を説明出来ない筈のやうな気がするのだ。しかしだ、ねえ、君、 

――へつ、重力は此の世の謎のまま人類の滅亡迄其の謎解きは出来ない。何故ならば、重力に関して主体は観測者では有り得ないのだ。 

などと私は時時内心で哄笑してみるのだがね……。多分、重力は物理数学の域を超えた何やら占星術のやうな怪しげな、例へばその《値》を数式に表すと数式を書いた本人の運命が左右されるといつた超物理数学が構築出来なければ重力の謎は解けない気がする。 

今のところアインシユタインがその道を開いた重力場の理論は主体とは無関係に研究が進んでゐる筈だが、また、人間は重力を簡単に一言で《重力》と片付けてゐるが、私が思ふに《重力》を構成するのは∞の量子、若しくは次元に違ひないと考へてゐる……。さうすると、当然これ迄主体は観測者といふ《特権的》な《存在》で《世界》乃至《宇宙》乃至《素粒子》を扱つて来たが、こと重力に関しては主体はその観測者といふ《特権》を剥奪されて重力といふ物理現象に飲み込まれ、翻弄される。つまり、《主体》がモルモツトのやうになる以外に重力の説明は不可能だと思ふのだ。 

ねえ、君。それにしても月は不思議な《存在》だよね。ブレイクもアイルランドの詩人、イエイツも、月の盈虚を題材にOccult(オカルト)めいて幻想的な詩のやうな、思索書のやうなものを著してゐるが、月は人間を神秘に誘ふ《もの》なのかもしれないね。 

多分、君も考へた事はあるだらう。もし月が《存在》してゐなかつたならば生物史はどうなつてゐたかを。まあ、それは人類が地球外の、例へば月や火星で生活するやうになれば重力乃至月がどれ程生物の生死に深く関はつてゐるのか明らかになる筈だから……。 

ねえ、君、私も多分満月の日に死ぬ筈だから、左記の括弧に私の死亡した日時を記しておくれ。お願ひする。

 

…………

………… 

 

(追記。此の手記の作者は某年某月某日の満月の夜が明けた午前十時四十分四十秒に態態死の直前女性の看護師を病室に呼びにやりと笑つて死去する。) 

 

…………

…………

 

さて、何とも名状し難い悲哀の籠つた不思議な微笑を私に返した雪に私は優しく微笑みかけて、東の空に昇り行く満月を指差し、雪と二人、暫くその場に立ち止まつて、仄かに黄色を帯びた優しくも神秘的な月光を投げ掛ける満月を見続けてゐたのであつた。 

――ねえ、月は生と死の懸け橋なのかしら……。 

と雪が呟いたので私は軽く頷き雪と私の二人並んだ月光による影に目をやつた。雪もまた二人の影を見て、

――何て神秘的なんでしよう、月影は……。 

とぽつりと呟いたのであつた。と不意に再び私の視界の周縁に光雲が一つ現れたかと思ふ間もなく、再びカルマン渦が二つに分裂する如く二つに分裂したその光雲は、視界の周縁で旋回を始めたのであつた。 

私は雪を銀杏の街路樹の下に誘ひ、Pocket(ポケツト)から煙草を取り出して、先づは雪に勧めたのであつた。といふのも私は、雪が《男》に陵辱されてから、多分、煙草を喫むやうになつたと信じて全く疑はなかつたのである。実際、雪は私が差し出した国産煙草で最もNicotine(ニコチン)の含有量が強い煙草は頭がくらくらするからと言つて、自分の煙草を鞄から取り出して一本極極当然といつた自然な仕種で銜へたのである。

 

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君は自殺してしまつたフォーク歌手、西岡経蔵さんの「プカプカ」といふ名曲を知つてゐるかな。1971(昭和46)年、西岡恭蔵さんの自作自演曲だが、Credit(クレヂツト)は、「象狂象 作詞/作曲 西岡恭蔵 唄 JASRAC作品コード072-1643-2」となつてゐるがね。

「プカプカ」の歌詞を調べればすぐに解かる事だが、私は雪の或る一面をこの「プカプカ」に出てくる女性に重ねてゐたのだ。想像するに難くないが、雪は普段は対人、特に《男》に対する無意識の恐怖心の所為で、例へば過呼吸等緊張の余り呼吸が乱れてゐた筈で、煙草の一服による深深とした深呼吸が雪を一時でも緊張を弛緩し呼吸を調へてゐたのだ。さうでなければ雪があれ程純真無垢な微笑を浮かべられる筈はない。あの時期の雪にとつて煙草は生きるのに不可欠なものだつたのさ。

一方で私だが、私にとつて煙草はソクラテスが毒杯を飲み干して理不尽な死刑を受け容れた、或いはランボーの詩の中に「毒杯を呷(あふ)る」といふやうな一節があつた気がするが、私にとつて煙草を喫むのは《生》を実感する為には必要不可欠な《毒》なのだ。私には《生》を幾分でも蔑(ないがし)ろにする《毒》無しには一時も生きられない程、既にあの時から追ひ詰められてゐたのさ。《生きる屍》として何とか私が生きてゐたのは、何をおいても煙草があつたからなのさ。飯は食はずとも煙草さへ喫めればそれで満足だつたのだ。今も病院で私は強い煙草を喫んでゐる。最早終末期の私には何も禁じる物なんかありはしない。へつ。

 

…………

…………

 

私は一本目の煙草を喫めるだけ喫めるぎりぎり迄しみつたらしく喫むと、間髪を容れず二本目を取り出し、一本目の燃えさしで二本目に火を点け、体軀全体に煙草の煙が行き渡るやうに深深と一服したのであつた。雪は私のその仕種を見ながら、

――うふ、あなたは本物のNicotine中毒ね、うふ。

と微笑みながら、私が銜へた煙草の火の強弱の変化と私の表情を交互に凝視(みつ)めるのであつた。そんな雪を何とも愛ほしく思ひながら私は私で雪に微笑み返すのであつた。勿論、この時の煙草が格別美味かつたのは申す迄もない。

――ねえ、あなたをこれ迄生かして来たのはその煙草と、それと、うふ、お酒ね。それも日本酒ね、うふ。

と正に正鵠を射た事を雪が言つたので、私は更に微笑んで軽く頷いたのである。

――ふう~う。

とまた一服する。すると私に生気が宿る不思議な快感が私の体軀全体に走る。と、また、

――ふう~う。

と一服する。その私の様が雪にはをかしくて仕様がないらしく、

――うふふふ。

と私を見ながら飛び切りの笑顔を見せるのであつた。すると、雪は偶然にも、

――煙草とお酒があなたの鎮静剤なのね。

と言つたのであつた。

 

…………

…………

 

ねえ、君。君は「鎮静剤」といふ詩を知つてゐるかな。故・高田渡も歌つてゐたがね。

 

  「鎮静剤」

 マリー・ローランサン

 

 退屈な女より もつと哀れなのは 悲しい女です。

 悲しい女より もつと哀れなのは 不幸な女です。

 不幸な女より もつと哀れなのは 病気の女です。

 病気の女より もつと哀れなのは 捨てられた女です。

 捨てられた女より もつと哀れなのは よるべない女です。

 よるべない女より もつと哀れなのは 追われた女です。

 追われた女より もつと哀れなのは 死んだ女です。

 死んだ女より もつと哀れなのは 忘れられた女です。

 

 訳:堀口大學

 詩集「月下の一群」より

 

といふ詩なんだが。自分で言ふのもなんだが、私にぴつたりの詩だね。堀口大學の訳詩の《女》を《吾》に換へると、へつ、私自身の事だぜ、へつ。

 

…………

…………

 

『鎮静剤か……』。 

成程、雪の言ふ通り《死に至る病》に魅入られた私は《生》に帰属する為に一方で煙草といふ《毒》を喫んで《死》を心行く迄満喫する振りをしながらも私の内部に眠つてゐる臆病者の《吾》を無理矢理にでも揺り起こし、煙草を喫む度に《死》へと一歩近づくと思ふ事で《吾》が今生きてゐるといふ実感に直結してしまふこの倒錯した或る種の快感――これは自分でも苦笑するしかない私の悪癖なのだ――が途端に不快に変はるその瞬間の虚を衝いて、一瞬にして《死》に臆する《吾》に変容するのかもしれぬ或る種の《快楽》を味はふのであつた。さうして《死》を止揚して遮二無二《生》にしがみ付く臆病者の《吾》は煙草を喫むといふ事に対する悲哀をも煙草の煙と共に喫み込み、内心で、 

――くつくつくつ。 

と苦笑しながら、この《死》をこよなく愛しながらも《生》にしがみ付く臆病者の《吾》をせせら笑ひ侮蔑する事で《生》に留まる《吾》を許し、やつとの事で私はその《吾》を許容してゐるのかもしれぬのであつた。 

『鎮静剤……』。 

これは多分、私が《吾》を受け容れる為の不愉快極まりない《苦痛》を鎮静する《麻酔薬》なのだ。《死》へ近づきつつ《死》を意識しながら、やつとの事で《生》を実感出来る、この既に全身が《麻痺》してしまつてゐる馬鹿者である私には、自虐が快楽なのかもしれぬ。ふつ、自身を蔑み罵る事でしか《吾》を発見出来ない私つて、ねえ、君、或る種、能天気な馬鹿者で、 

――勝手にしろ! 

と面罵したくなるどう仕様もない生き物だらう。へつへつへつ。何しろ私の究極の目標は自意識の壊死(えし)、つまりは《吾》の徹底的なる破壊、それに尽きるのさ。其処で、 

――甘つたれるな! ちやんと生きてもいないくせに! 

といふ君の罵倒が聞こえるが……、其処でだ、君に質問するよ。 

――ちやんと生きるつてどういふ事だい? 

後後解ると思ふが、私は普通の会社員の一生分の《労働》は既にしたぜ。ふつ、その所為で今は死を待つのみの身に堕してしまつたが……。それでもちやんと生きるといふ事は解らず仕舞ひだ。そもそも私には他の生物を食料として殺戮し、それを喰らひながら生を保つだけの《価値》があつたのだらうか、と自問自答せずにはいられぬのだ。私の結論を先に言ふと、その《価値》は徹頭徹尾私には無いといふ事に尽きるね。 

――人身御供(ひとみごくう)。 

私の望みは私が生きる為に絶命し私に喰はれた生き物達全てに対しての生贄としての人身御供なのかもしれないと今感じてゐるよ。 

ねえ、君。君は胸を張つて、 

――俺はちやんと生きてゐる! 

と言へるかい? もしも、 

――俺はちやんと生きてゐる! 

と、胸を張つて言へる能天気な御仁が此の世に《存在》してゐるならば、その御仁に会つてみたいものだ。そして、その御仁に、 

――大馬鹿者が! 

と罵倒する権利のある人生を私は送つたつもりだが……、これは虚しい事だね、君。もう止すよ。

 

…………

………… 

 

――ふう~う。 

と、また私は煙草を喫み、煙を吐き出しながら、何とも悲哀に満ちた《生》を謳歌するのであつた。 

――ふう~う。 

――本当に煙草が好きなのね、あなたみたいに煙草を美味しさうに吸ふ人、私、初めて見たわ。うふ、筋金入りのNicotine中毒ね、ふふ。 

と、既に自身の煙草はとつくに吸ひ終はつてゐた雪は、私が煙草を喫む毎に生気が漲るやうにでも敏感に感じたのか、ほつとしたやうなにこやかな微笑みを浮かべては私を見続けてゐるのであつた。私はと言へば、この時間が楽しい故に思はず零(こぼ)れてしまつた照れ笑ひを雪に返すのであつた。さうさ、二人に会話はゐらなかつたのだ。顔の表情だけで二人には十分であつた。

 

…………

………… 

 

君も知つての通り、私にとつて必要不可欠なものは煙草と日本酒と水とたつぷりと砂糖が入つた甘くて濃い珈琲、そして、本であつた。私の当時の生活費は以上に殆どを費やしてゐて、食費は日本酒と砂糖を除けば本当に僅少であつた。Instant(インスタント)食品やJunk food(ジヤンク・フード)の類は一切口にする事は無く、今もつてその味を私は知らない。 

ねえ、君。私の嗜好品は全て鎮静か興奮かのどちらかを増長せずにはいられぬ代物だつたといふ事がはつきりしてゐるだらう。当時、一度思考が始まると止め処無く堂堂巡りを繰り返し《狂気》へ一気に踏み出すのを鎮静するのに煙草は必需品だつたのだ。煙草を一服し煙草の煙を吐き出すのと一緒に、私は《狂気》へ一気に驀進する思考の堂堂巡りも吐き出すのさ。そして、不図吾に返ると私の内部に独り残された吾を発見し《正気》を取り戻すのだ。古に言ふ「魂が憧(あくが)れ出る」状態が私の思考の堂堂巡りだつた。私が思考を始めると吾は唯《思考の化け物》と化して心此処に在らずといつた状態に陥つてしまふのさ。これも一種の狂気と言へば狂気に違ひないが、この思考が堂堂巡りを始めてしまふ私の悪癖は、矯正の仕様が無い持つて生まれた天稟の《狂気》だつたのかもしれぬ……。 

《死》へと近づく哀惜と歓喜が入り混じつたこの屈折した感情と共に煙草を喫み、そして、私の頭蓋内で《狂気》のとぐろを巻きその《摩擦熱》で火照つた頭の《狂気》の熱を煙草の煙と一緒に吐き出し吾に返る愚行をせずには、詰まる所、私は《狂気》と《正気》の間の峻険な崖つぷちに築かれたインカ道の如きか細き境に留まる術を知らなかつたのだ。何故と言つて、私は当時、《狂気》へ投身する事は《吾》に対する敗北と考へてゐた節があつて、それは《狂気》へ行きつぱなしだと苦悩は消えるだらうがね、しかし、それでは全く破壊されずに《狂気》として残つた全きの生来の《吾》が《吾》のまま《狂気》といふ《極楽》で《存在》する事が私には許せなかつたのだ。《狂気》と《正気》とに跨り続ける事が唯一私に残された《生》の道だつたのさ。 

 

………… 

………… 

 

其の時の朗らかに私に微笑み続ける薄化粧をした雪の美貌は満月の月光に映え神秘的で、しかもとてもとても美しかつた……。 

と不意にまた一つの光雲が私の視界の周縁を旋回したのである。私は煙草によつて人心地付いたのと、また光雲が視界の周縁を廻るのを見てしまつた私を敏感に察知しそれに呼応する雪の哀しい表情が見たくなかつたので、ゆつくりと瞼を閉ぢたのであつた。瞼裡に拡がる闇の世界の周縁を数個の光雲が相変はらず離合集散しながら左に旋回するものと右に旋回するものとに分かれ、ぐるりぐるりと私の視界の周縁を廻つてゐた。 

――死者達の手向けか……、それとも埴谷雄高曰く、《精神のRelay(リレー)》か……。 

勿論死んで逝く者達は生者に何かしら託して死んで逝くのだらう。私の瞼裡の闇には次次と様様な表象が浮かんでは消え浮かんでは消えして、それは死者達の頭蓋内の闇に明滅したであらう数多の思念が私の瞼裡の闇に明滅してゐるのだらうかと考へながらも、 

――それにしても何故私なのか? 

と、疑問に思ふのであるが、しかし、一方で、 

――死者共の思念を繋ぎ紡ぐのがどうやら私の使命らしい。 

と、妙に納得してゐる自分を見出しては内心で苦笑するのであつた。

 

…………

…………

 

と不意に金色の仏像が瞼裡の闇の虚空に浮かび上がつたのである。 

――ふう~う。 

と其処で間をおくやうに煙草を一服し、もしやと思ひ私は目玉を裏返すやうに瞼を閉ぢたままぐるりと目玉を垂直に回転してみると、果たせる哉、血色に燃え立つ光背の如き業火の炎は私の内部で未だ轟轟と燃え盛つてをり、再び目玉をぐるりと回転させて元に戻すと、未だ金色の仏像――それは大日如来に思へた――が闇の中空に浮かび上がつて何やら語り掛けてゐたのであるが、未熟な私にはそれを聞き取る術が無く、静寂のみが瞼裡の闇の世界に拡がるばかりであつた。 

と忽然と、 

――《存在》とは何ぞや?  

といふ誰とも知れぬ声が何処からともなく聞こえて来たのであつた。 

――生とは何ぞや?  

とまた誰とも知れぬ声が聞こえ、 

――そもそも私とは何ぞや?  

とまた誰とも知れぬ声が聞こえた。と、そこで忽然と金色の仏像は闇の中に消えたのである。 

これが幻聴としても、どうやら彼の世に逝くには自身の《存在》論を誰しも吐露しなければならないらしい。ふつふつ。 

すると突然、左右に旋回してゐた数個の光雲が無数の小さな小さな小さな光点に分裂離散し、すうつと瞼裡の闇全体に拡がつたのである。すると突然、 

――何が私なのだ! 

と誰とも知れぬ泣き叫ぶ声が脳裡を過つたのである。そこで漫然と瞼裡に拡がつてゐた無数の光点はその叫び声を合図に何かの輪郭を、私の瞼裡に仄かに輝きを放ち浮かび上がらせるやうに、誰とも知れぬ私とは全く面識の無い赤の他人の顔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせたのであつた。私は一瞬ぎよつとしたが、それも束の間で、 

――うう……。

とも、 

――ああ……。

とも判別し難い声為らざる奇怪な嗚咽の如き《声》を、瞼裡に浮かび上がつたその顔の持ち主が発してゐるのに気付いたのであつた。 

――ふう~う。 

と、この現前で起きてゐる意味を解かうとしてか、再び無意識に私は煙草を一服し、そして、意味も無く其処で瞼をゆつくりと開け、月光に映える雪の顔を凝視したのである。 

――何? 

と、雪は微笑んだ。が、直ぐ様私の身に起こつてゐる事を直覚した雪は、 

――また……誰かが亡くなつたのね……、冥界への通り道になつてしまつてゐるあなた、大丈夫? 

といふ雪に私は軽く頷き、満月がゆつくりと南天へ向かつて昇り行く奇妙に明るい夜空を見上げてから再び瞼を閉ぢたのであつた。果たせる哉、瞼裡の闇の虚空には相変はらず誰とも知れぬ面識の無い赤の他人の顔の輪郭がぼんやりと輝きを放つて浮かんでをり、私は最早声に為らざる嗚咽の如き奇妙奇天烈なその《声》にぢつと耳を澄ませるしかなかつたのであつた……。 

――――ううううああああああああ~~。。

と、閉ぢられた瞼裡の闇の虚空に仄かに輝きながらその輪郭を浮かび上がらせた、私と全く面識のない赤の他人のその顔貌の持ち主の彼の人は、咆哮とも慟哭とも嗚咽とも歓喜の雄叫びとも、または断末魔の叫びとも解らぬたつた一声を心の底から思いつ切り叫びたいのであらうが、既に彼の人は恒常の《現在》といふ時間の流れに飛び乗つて、つまり、或る意味では彼の人にとつては時間が全く流れぬであらう彼の世へと既に旅立つてしまつた故に、凝固したままぴくりとも動かぬ自身、つまり、「x0=1(x>0):0より大きい数の0乗は1」のⅹたる《主体》は 零乗たる《死》といふ現象により《完全なる一》たる《存在体》へと変化した故に最早その一声すら上げられぬまま《完全なる一》たる《存在体》として凝固してしまつた自身に対して観念せざるを得ぬ事を自覚させる、永遠の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人は、音、若しくは声為らざる音未満の、

――――ううううああああああああ~~。。

といふ《声》を発してゐるのであつた。それを例へてみれば超新星爆発後にエツクス線など通常では観測されない電磁波などを発する星の死骸に似てゐた。

――――ううううああああああああ~~。。

瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人は、さて、《完全なる一》たる《存在体》に封印されてその頭蓋内の闇の虚空に何を思ひつつ彼岸へ旅立つたのだらうか。彼の人は死と共に《完全なる一》たる《存在体》に己が成り果(おほ)せた事を束の間でも自覚し、歓喜したのであらうか。多分、その瞬間に彼の人は全てを悟つた筈である。だが、それでも納得できない彼の人は、

――――ううううああああああああ~~。。

と《声》ならざる《声》を発せざるを得ぬ底知れぬ哀しさの中に封印され凝固してしまつたのであらうか。私は彼の人に、

――《存在》とは何ぞや? 

などと、問ふてみたが、答へは全て、

――――ううううああああああああ~~。。

であつた。多分、彼の人は既に《完全なる一》たる《存在体》から堕して腐敗といふ《完全なる一》たる《存在体》の崩壊へと歩を進めてしまつたのであらう。

――――ううううああああああああ~~。。

は、彼の人の崩壊の《音》為らざる《音》なのかもしれないかつたのだ

――――ううううああああああああ~~。。

と、不意に瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌はゆらりゆらりと揺らぎ始め、すると私の視線の先に忽然とゆるりと時計回りに旋回する大渦の中心が現れたのであつた。

――これがもしや中有なのか? 

私の瞼裡に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌は、そこでゆるりとゆるりと渦の動きのままに旋回し始めたのであつた。

――ふう~う。

私は何故かそこで煙草を一服したのである。正直なところ、

――――ううううああああああああ~~。。

といふ《音》為らざるその《声》は悲痛極まりなく、私には煙草でも喫まなければ最早堪へられなかつたのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

私はゆつくりと瞼を開け、雪の顔を見ずにはゐられなかつたのである。雪は全てを既に了解してゐたのか、にこつと私に微笑み掛け、

――存分にその苦悩を味はひ尽くしなさい。それがあなたの安寧の為になるのよ。

と、私に無言で語り掛けてゐたのであつた。

私は雪の微笑みを見てほつとしたのか、此方も軽く微笑み、再び瞼を閉ぢたのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

瞼裡に仄かに輝き浮かぶ瞑目した全く面識のない赤の他人の彼の人が、ゆるりと瞼裡全体が大渦を巻き始めたときに口元が仄かに微笑んだやうに見えたのは、もしかすると私の気の所為かもしれぬが、しかし、それを見た刹那、彼の人は地獄ではなく極楽への道を許されたのだと私は思つたのだ。 

――それにしてもこの瞼裡の光景は私の脳が勝手に私に見せる幻視なのか……。 

と、そんな疑問も浮かぶには浮かんだが、 

――へつ、幻視でも何でもいいぢやないか。 

と、更に私の意識は瞼裡の影の虚空に引き込まれて行くのであつた。さう、私もまた、瞼裡の渦にそれとは知らずに巻き込まれてゐたのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

それにしても中有は彼の人以外ゐないところで徹底的に孤独でなければならぬ場らしい。瞑目した彼の人は、さて、この孤独の中で何を思ふのか。既に死の直前には自身の人生全体が走馬灯の如く思ひ出された筈である。 

――什麼生(そもさん)! 

――説破! 

と、彼の人は自己の内部に、否、魂の内部に沈潜しながら、その大いなる《死》の揺籃に揺られながら、既に《物体》と化した自己を離れ《存在自体》、若しくはカント曰く《物自体》と化して自問自答する底知れぬ黙考の黙考の黙考の深い闇の中に蹲りながら《存在》といふ得体の知れぬ何かを引つ摑んで物珍しげにまじまじと眺め味はひ、そして、その感触を魂全体で堪能してゐるのであらうか……。 

――――ううううああああああああ~~。。 

その証拠が瞼裡の影の闇の虚空に仄暗く浮かび上がる彼の人の顔貌の輪郭なのではないのか……と思ひながら私はまた煙草を、

――ふう~う。 

と、喫むのであつた。すると、私は何やら名状し難い懊悩のやうな感覚に包まれたかと思ふと、源氏物語の世界の魂が憧(あくが)れ出るが如くに、私の自意識の一部が凄まじい苦痛と共に千切れるやうに瞼裡の闇の虚空に憧れ出たのである。私もまた其の刹那、 

――――ううううああああああああ~~。。 

と、呻き声に為らぬ声を私の内部で発したが、しかし、それは言ふなれば、私といふ《眼球体》――それはフランスの象徴主義の画家、オデイロン・ルドンの作品「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」(一八八二年)のやうなものであつた筈である――がその闇の虚空へと飛翔を始めた不思議な不思議な不思議な感覚であつた。

何もかもがその闇の虚空では自在であつたのだ。私の思ふが儘、その《眼球体》と化した私は自在に虚空内を飛び回れるのである。それはそれは摩訶不思議な感覚であつた。 

――――ううううああああああああ~~。。 

《眼球体》と化した私は、瞑目して深い深い深い黙考の黙考の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人にぴたりと寄り添ひ、今更ながらまじまじと彼の人の顔貌を凝視したのであつた……。

 

…………

…………

 

ねえ、君。人間とは《存在》といふ魔物に囚はれる虜囚たる事を宿命付けられた哀れな生き《もの》だね。もし仮に正覚もせずに《存在》に無頓着なそれこそ能天気な輩がゐたら、さういふ輩には哀れな微笑みを送つてやるしかないね。何故つて、さういふ輩は既に自身を馬鹿者として積極的に肯定した阿呆に違ひないからさ。先づ、自身の《存在》を全肯定出来る事自体が馬鹿の証さ。そいつ等の話を聞いてごらん。薄つぺらな内容に終始して、そのくせ小心者ときたならば、もう目も当てられないね。そういふ輩は愚劣極まりなく醜悪さ。私はそいつ等の放つ悪臭――勿論、これは幻臭だがね――に耐へられず、いつも反吐を吐いてゐたがね。 

ねえ、君、そもそも《存在》とは何ぞや? 何時も、さう、睡眠中に夢を見てゐる時さへ、自身の《存在》に懐疑の眼を向けざるを得ぬ《吾》といふ《存在》はそもそも何ぞや? 吾と己に《ずれ》が生じる故に《存在》といふ変容体に《吾》が身を置けるその因になつてゐるのは当然として、さて、其処に介在する《時間》といふこれまた魔物の流れに取り残され、絶えず《現在》に身を置かざるを得ぬこの《吾》とはそもそも何ぞや? つまりは、身体の細胞Level(レベル)で考へてみると、身体を形成してゐる数十兆もの細胞群は、分裂、増殖、そしてApoptosis(アポトーシス)、つまり、自死を繰り返して何とか《吾》を存続させてゐるが、この絶えず変容する《吾》は、過去の《吾》に未練たらたらで現在の変容する未完の《吾》をどうあつても《吾》として受け容れなければならぬ宿命を背負つてゐて、もしもそれを拒否したならば《吾》は死ねない細胞たる癌細胞化するしかない哀れな《存在》でしかない……。するとだ、生物は絶えず不死たる癌細胞への憧憬を抱いてゐて、不死たる《吾》でありたいと心奥では渇望してゐるに違ひないのさ。へつ、もしかすると己を《高等動物》と平気で看做すこの人類は、一度その《存在》を断念して、ぬめぬめした《もの》に変態した海鼠(なまこ)の如き海鼠としての原形をとどめぬ《もの》が、そのまま抛つておくと再び《時間》が経つにつれて元のの形へと再び再生する、そんな《存在》を理想の《存在》、つまりは神と看做しているのかもしれぬね。近代迄は人間は神に為るといふそんな傲岸不遜な考へを断念し、また、ひた隠して来たが、現代に至つてはその恥知らずな神たらうとする邪悪な欲望を隠しもしない侮蔑すべき《存在》に為り下がつてしまつたが、しかし、それが《存在》の癌化に過ぎない事が次第に明らかになるにつれ、人間は現在無明の真つ只中に抛り出されて、唯漫然と生きてゐる――それでも「私は懸命に生きてゐる」と猛り狂う輩もあらうが、それは馬鹿のする事さ――その結果、現世利益が至上命題の如く欲望の赴くままに生き、そして漫然と死すのみの無機物――ねえ、君、無機物さへも己の消滅にぢつと堪へながら自身を我慢しながら《存在》してゐるに違ひないと思ふだらう――以下の生き物でしかない……。その挙句が過去への憧憬となつて未来は全く人間の思考の埒外に置かれる事になつてしまつたが、さて、其処で現在を見渡したところ現在が最早どん詰まりにある事に気付いて慌てて未来に思いを馳せてみると、へつ、人類は絶滅するしかない事が鮮明になつてゐて、さてさて、困つた事に往生際が極めて悪いこの人類といふ《存在》は、現在、滅亡に恐れをなして右往左往してゐるのが現状さ。 

自同律の不快。人類は先づ生の根源たるこの自同律の不快に立ち戻つて、パスカルの言ふ通り、激烈なる自己憎悪から出直さなければならないと思ふが、君はどう思ふ? 

倒木更新。未だ出現せざる未来人を出現させる為にも、現在生きてゐる者は必ず死ななければならぬ事を自覚して倹(つま)しく生きるのが当然だらう。へつ。文明の進歩なんぞ糞喰らへ、だ。人類は、人力以上の力で作つた《もの》は全て人の手に負へぬまやかし《もの》である事に早く気付くべきさ……。へつ。ねえ、君。一例だが、科学技術が現在のやうに発展した現代最高の文明の粋(すい)を結集して、果たして、茅葺屋根の古民家以上に自然に馴染んだ家を、つまり、朽ちるにつれてきちんと自然に帰る外ない家が作れると思ふかい? 無理だらう……へつ。

 

…………

…………

 

その時《眼球体》と化した私の意識は中有の中に飛び出し、私の瞼裡に仄かに輝き浮かぶ、誰とも知れぬ赤の他人の彼の人の顔貌を凝視したが、すると彼の人は消え入りさうな自身の横たはる身体を私の眼前に現したのであつた……。

――しゆぱつ。 

雪がもう一本煙草に火を点けたやうだ。 

――はあ~あ、美味しい。 

私は雪のその心地良ささうな微笑んだ顔が見たくて《眼球体》の吾から瞬時に私に戻り、ゆつくりと瞼を開け、雪の顔を見たのであつた。 

――うふ。私ももう一本吸つちやつた。あ~あ、何て美味しいのかしら。……どう? 死者の旅立ちは。 

私はおどけた顔をして首を横に振つて見せた。 

――そう。三途の川を越えた者皆、その道程は艱難辛苦に違ひないと思ふけど……そして彼岸からその先の極楽迄の道のりが辛いのは簡単に想像出来るけど……実際……さうなのね? 

私は雪の問ひに軽く頷き、煙草を美味さうに喫む雪の満足げな顔につい見蕩れてしまふのであつたが、その雪の顔は、窈窕(えうてう)といふ言葉がぴつたりと来るのやうに、また、乳白色の月光が照らし出す雪の顔は、不安が失せたやうに安寧の中に置かれた弥勒菩薩のやうな美麗な美しさを醸し出していたのである。その顔の輪郭が絶妙で、これまた満月の月光に映えるのであつた。 

そして、私は、雪の美貌を映す満月の光に誘はれるやうに、南天へ昇り行く仄かに蒼白いその慈愛と神秘に満ちた月光を網膜に焼き付けるやうに、満月を凝視し続けたのであつた。 

『科学的には太陽光の反射光に過ぎないこの月光といふものの神秘性は……生き《もの》全てに最早そのやうにしか感じられないやうに天稟として「先験的」に具へられてしまつた《もの》なのかもしれぬ……。』 

――ふう~う。 

私は煙草を身体全体にその紫煙が行き渡るやうに深深とした呼吸で喫みながら暫く月光を凝視した後に、再びゆるりと瞼を閉ぢたのであつた……。 

その網膜に焼き付けられたらしい月光の残像が瞼裡の闇の虚空にうらうらと浮かび上がり、あの全く面識のない赤の他人の彼の人の仄かに輝きを放つが今にもその虚空の闇の中に消え入りさうなその死体へ変化し横たわつたままの体軀が、ゆるりと渦を巻く瞼裡の闇の虚空にAurora(オーロラ)の如く残る月光のうらうらと明滅する残像に溶け入つては、己の《存在》を更に主張するやうに自身の姿の輪郭を月光の残像から分離すべく、月光の残像の明滅する周期とは明らかに違ふ周期でこれまた仄かに瞼裡の闇の虚空に明滅しながら月光の残像の中で蛍の淡い光の如くに輝くのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

私は再び瞼裡の闇の虚空の渦に飲み込まれるやうに自意識の一部が千切れ《眼球体》となる狂ほしい苦痛の呻きを胸奥で叫び、とはいへ、ひよいつと《眼球体》となつた私は渦巻く瞼裡の虚空に投身するのであつたが、最早瞼を閉ぢると自動的に眼前で渦巻く瞼裡の闇の虚空に吸い込まれてしまふのは避けようもないらしかつたのである。 

それにしても、この眼前に拡がる瞼裡の渦巻く闇の虚空は一体何なのであらうか。 

――中有。 

とはいへ、其処が中有とは今もつて信じ難く、そして私は懐疑の眼でしかその渦巻く虚空を見られずにゐたが、しかも《眼球体》となつて瞼裡の渦巻く闇の虚空に《存在》するこの私の状態は、さて、一体何なのであらうか……。

唯、《眼球体》の私は自在であつた。例へてみれば、そのAuroraの如き月光の残像の中に飛び込めば其処は眩いばかりの光しか見えない《陽》の世界であり、一度月光の残像から飛び出ると、其処は彼の人の闇の中に消え入りさうな体軀が闇の虚空にぽつねんと浮かび上がるのが見える《陰》の世界であつた。そして、《眼球体》の私は多分月光の残像の中では陽中の陰となり、月光の残像から飛び出ると《眼球体》の私は陰中の陽となり、其処は陰陽魚太極図そつくりの構図に違ひないとしか思へなかつたのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

相変はらず彼の人は声為らざる声を発し続けたままであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

『もしや、この眼前に見えてしまふ全く面識のない赤の他人の彼の人は……、もしかすると、《死》といふ、多分、恍惚に違ひないその全きな恍惚の中に陶酔してゐるのかもしれぬ……。』 

と、何故かといふ理由もなく、さう私は自然と納得してゐる己を見出してはにたりと自嘲しつつ、《眼球体》と化した私は、眼前に横たはる彼の人をまじまじと凝視したのであつた。否、実のところ、さう思はずにはゐられなかつたのである。これは実際のところ私の願望の反映に過ぎぬのかもしれぬが、しかし、生き《もの》が死すれば、 

――皆善し! 

として、自殺を除いて全ての死した《もの》が恍惚の陶酔の中になければならないとしか、私にはその当時思へなかつたのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

この絶えず彼の人から発せられてゐる音為らざる苦悶の呻き声は、もしかすると歓喜の絶頂の中で輻射されてゐる、誠に誠に慈悲深き盧(る)遮那(しやな)の輝きにも似た歓喜の雄叫びなのかもしれぬと思へなくもないのである。否、寧ろさう考へたほうが自然なやうな気がするのであつた。

自殺を除いて死すもの全て、

――――ううううああああああああ~~。。

と、此の世の摂理たるハイゼンベルクの不確性原理から解放され、此の世からおさらばした故の完全なる《一》、否、それはもしかすると色即是空たる《空》、若しくは《無》、若しくは《無限》たる己を己に見出し、歓喜の雄叫びを上げて、《吾》が生と死に祝杯を捧げてゐるに違ひない。生きてゐる間は生老病死に苛まれ、底無く出口無き苦悶の中でもがき苦しみ、やつとの事で未完の生を繋いで来たに違ひない生者達は、死してやつと安寧を手にするに違ひないのだ。ところでそれはまた死の瞬間の刹那の事でしかなく、その後の中有を経て極楽浄土へ至るこれまた空前絶後の苦悶の道程を歩一歩と這ひ蹲る(つくば)が如くに前進しなければならないのかもしれない来世といふ《未来》に向かふ、巨大な巨大な巨大な苦難の果てといふ事からも一瞬、解放されてゐるに違ひない……。と、不意に《眼球体》と化してゐた私は吾の自意識と合一してしまひ、私はゆつくりと瞼を開けてしまつたのであつた。然しながら、その時、私は雪の相貌を全く見向きもせずに、天空で皓皓と青白き淡き輝きを放つ満月を暫く凝視するしか為す術がなかつたのであつた。この一連の動作は全く無意識でした事であつた。ところが、瞼を開けても最早私の視界から彼の人の明滅する体軀の輪郭は去る事がなく、満月の輝きの中でも明瞭に見えてしまふのであつた。 

――ふう~う。 

と、私は煙草を一服し、月に向かつて何故か煙草の煙を吐き出したのであつた。煙草の煙で更に淡い輝きになつた月は、それはそれで何とも名状し難い風情があつた。と、不意に私の胸奥でぼそつと呟くものがあつた。 

――月とすつぽん。

 これは人間の思考が全く脈略なく思考する性癖を持つてゐることの一つの証左なのであった。私はその呟きを合図に、それ迄の時間の移ろひを断ち切るやうにMemo帳を取り出し、雪と再び筆談を始めたのであつた。 

――つまり、自由を追い求めるならば、つまり、月とすつぽん程の、つまり、激烈な貧富の格差は、つまり、《多様性》の、つまり、現はれとして、つまり、吾吾は、つまり、それを甘受しなければならないと思ふが、つまり、君はどう思ふ? 

と、全く脈絡もなく視界の彼の人を抛り出してとつさに雪に書いて見せたのであつた。満月の月光の下ではMemo帳に書いた文字ははつきりと見えるのである。すると雪は美しく微笑んで、しかし、何やら思案するやうに、 

――う~む。難しい問題ね。あなたの言ふ通りなのは間違いないわ。しかしね、社会の底辺に追ひやられた人人はその《多様性》といふ《自由》を持ち堪へられないわ……、多分ね。でも……、残酷な言ひ方かもしれないけれども《自由》を尊ぶならばあなたの言ふ月とすつぽん程の格差といふ《多様性》は受け容れるしかないわね……。 

と、切り出したのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

――ふう~う。 

と、私は煙草を一服すると、その吸ひ殻を携帯灰皿にぽいつと投げ入れたのであつた。 

――つまり、《自由》に身を委ねると、つまり、現状は、つまり、嘗ての、つまりね、Pyramid(ピラミツド)型の階級社会にすら程遠い、つまり、一握りの大富豪と、つまり、殆ど全ての貧乏人の、つまり、大地に屹立した、つまり、峻険なる山のやうな、つまり、階級社会となるのは必然だと思ふかい? 

――そうね、《自由》の下ならば一世代位の期間はさういふ階級社会が続くと思ふけれども、でも……、峻険な山が風化するやうに、Pyramid型の階級社会もまた長期に亙る《自然》の近似に過ぎないのならば、多分、三世代の間位に峻厳な山からPyramid型へと階級の形が移行する筈よ、多分ね、うふ。 

と、雪は私との筆談が楽しいのか愛らしい微笑みを浮かべ、次に何を私が書くのか興味津津で私の手のPen先を凝視するのであつた。 

――すると、つまり、さうすると現在貧乏人は、つまり、一生貧乏人かい? 

――……さうね。一握りの《成功者》を除くと殆ど全ての貧乏人は貧乏人の儘一生を終へるわね……残念ながら……。士農工商のやうなPyramid型の或る種平安な階級社会が《自然》に形作られるには最低三世代は掛かる筈よ。だつて、例へば士農工商の工の貧乏人が《職人》といふ他者と取り換へ不能な一(ひと)廉(かど)の人間になるには、最低三世代のそれはそれは血の滲むやうな大変な苦労が必要だわ……。 

――それぢやね、つまり、市民といへば聞こえは良いが、つまり、単刀直入に言つて市民といふ貧乏人は、つまり、士農工商いづれかの階級の、例へば工の《職人》に、つまり、三世代掛かつてなるんだね? 

――う~ん、……さうね、多分。だつて、現在生きてゐる人類の多くは貧困に喘いでゐて、その貧困から脱出する術すら未だに見つけられずにゐるぢやない。人間が社会に寄生して生きる外ない生き《もの》で、しかもそれが《自由》の下ならば、人類の現状はそのままこの国の社会にも反映されなければならず、つまり、Fractal(フラクタル)、即ち、自己相似形として、如何なる社会も世界の縮図として表れる外ない筈だし、そして《自然》は必ずさう仕向ける筈よ。《自由》が《自由》を束縛するのよ、皮肉ね。あなたもさう思うでしよ。一握りの先進国が富を独占してゐる世界の現状が《自然》ならば、この国の社会もそれをFractalに、えへつ、つまり、《自然》に反映した世界の縮図にならなければ神はそもそも不公平だと。つまり……この国の国民の殆ども貧困に陥らないとその社会は嘘つて事ね。 

雪はさう言ふと不意に満月を見上げ、 

――ふう~う。 

と煙草を一服したのであつた。 

 

…………

………… 

 

ねえ、君。社会に不満を持つのは舌足らずな思考をする青年の取り柄だが、当時の彼女もまた当然若かつたのだ。ねえ、君、私は攝願として比丘尼になつた今現在の雪の考へをもう一度聞いてみたいがね。 

 

…………

………… 

 

――ねえ、つまり、多様性は、つまり、さうすると、どうなる? 

私は満月を見上げる雪の肩をぽんと叩き、筆談を続けたのである。 

――Paradigm(パラダイム)変換が必要ね。市場原理による《自由》な資本主義にたかつて生きるならば、一握りの大富豪とその外殆ど全ての貧乏人といふ《多様》に富んだ階級構造は受け容れるしかないわね。でも、擬似かもしれないけれども封建制度の復古等等、Paradigm変換は必ず訪れるわ。峻険な山がなだらかな山へと風化するしかないやうにね。 

――でも、君、つまり、峻険な山が、つまり、風化してPyramidのやうになつたとしても、つまり、その社会は活力が、つまり、減衰してゐやしないかい? 

――さうね、あなたの言ふ通りね。でも、地球を《自然》の典型と見るならば、或る日突然地殻変動が起きて、Himalaya(ヒマラヤ)の山山のやうな大地に峻険と屹立する途轍もなく高い山が再び此の世に出現する筈よ。それがParadigm変換ぢやない?  

と、言ふと、 

――ふう~う。 

と、雪は煙草を一服したのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

相変はらず私とは全く面識のない赤の他人の彼の人は、私の視界で明滅しながら音為らざる声を上げ続けてゐるのであつた。 

――つまり、峻険なる富の山を築いた、つまり、大富豪は、その富の山の、つまり、途轍もない高さ故に、つまり、エベレストの頂上では生き《もの》が、つまり、生きられないやうに、つまり、大富豪もまた、つまり、富の山の頂上では、つまり、生きられないとは思はないかい?  

――ふう~う。 

と、雪は煙草を一喫みしながら何やら思案に耽るのであつた。 

――……さうねえ……マチユピチユの遺跡のやうに……《生者》より、輿に乗つて祀られる木乃伊(みいら)と化した《死者》の人数が多い……生死の顚倒した、それこそ宗教色の強いものに変化しないと……峻険なる富の山では人間は生きられないわね……。それにしてもあなたの考へ方つて面白いのね、うふつ。 

――つまり、するとだ、個人崇拝、つまり、それも死者に対する、つまり、個人崇拝といふ化け物が、つまり、此の世に跋扈し始める。つまり、さうなると、つまり、気色の悪い赤の他人である、つまり、その死んだ者に対する個人崇拝が、つまり、人間が生来持つ宗教に対する、つまり、尊崇の念と結びついて、つまり、巨大な富の山を築いた、つまり、死んだ者への個人崇拝といふ、つまり、気色の悪い尊崇が、つまり、峻険なる山型の階級社会を、つまり、何世代にも亙つて固着させ、つまり、貧乏人は末代迄も、つまり、貧乏人ぢやないかい? つまり、例へば、基督の磔刑像に、つまり、平伏す基督者達は、実のところ、つまり、教会の教皇が絶大な権力と富とを、つまり、保持してゐる事に対しても畏れてゐる、つまり、象徴として一生貧乏だつた基督の磔刑像を、つまり、教会内に安置してゐるが、つまり、しかしだ、つまり、基督者達を統べてゐるのは、つまり、絶大な権力を今も保持してゐる、つまり、教会であり、つまり、その頂点の教皇だといふ事は、つまり、周知の事実だらう?  

――――ううううああああああああ~~。。

その瞬間、私の視界から去らうとしない赤の他人の彼の人がゆらりと動き、私を凝視するやうに真正面を向いたのである。そして、相も変はらずに、 

――――ううううああああああああ~~。。

と、音為らざる声を瞑目しながら発し続けてゐたのである。 

――不思議ねえ。ねえ、人間つて倒錯したものを好んで崇拝する生き《もの》なのかしら?  

――さうだね、つまり、貧富が顚倒した基督に、つまり、象徴されるやうに、つまり、《欲望》が剥き出しのままでの、つまり、人間は、つまり、そんな己の《存在》を、つまり、認めたくないんぢやないのかな。つまり、そこに己の卑俗さが、つまり、露はになるからね。つまり、そもそも人間は自己対峙が、つまり、苦手な馬鹿な生き《もの》なのは間違ひない……。しかし、つまり、己が卑俗であるが故に、つまり、《高貴》なものを倒錯した形で崇拝せざるを得ない馬鹿な生き《もの》が、つまり、人間なのかもしれない。 

――何だかまるで建築家のガウデイが重力を考慮して建築物を作り上げる為にその模型を逆様にぶら下げてみた、正にその逆様になつた建築物の模型みたいね。 

――つまり、天地が倒錯したものこそ、つまり、《自然》なのかもしれないね。つまり、所詮人間は、つまり、重力からは遁れられない、つまり、哀れな生き《もの》に過ぎないからね。つまり、天を向く垂直軸の不自然さに、つまり、気付いたガウデイは、つまり、天地が顚倒した建築物を、つまり、重力に《自然》な形の《もの》として、つまり、建物を逆様にぶら下げてみた……。つまり……天地の逆転の中に、つまり、或る真実が隠されてゐるのかもしれない……。つまり、人間はあらゆるものに対して、つまり、それが《剥き出し》のままだと、つまり、自然と嫌悪するやうに、つまり、創られてゐるのかもしれないね。 

私は再び煙草を一本取り出し、それに火を点け一服したのであつた。 

――ふう~う。 

――木つて不思議ねえ。 

と、雪がぽつりと呟いた。

私は雪がぽつりと呟いたその一言に全く同意見であつた。私と雪は二人で煙草を、

――ふう~う。 

と一服しながら互ひの顔を見合い、そして互ひににこりと微笑んだのであつた。 

――ねえ、君。つまり、アメリカの杉の仲間の、つまり、巨大セコイアといふ、つまり、巨樹を知つてゐるかい?  

雪は私のMemo帳を覗き込むと、

――ええ、もう何千年も生きて百メートルにならうといふ木でしよう。それがどうしたの?  

――ねえ、つまり、毛細管現象は知つてゐるかい? 

――ええ、知つているわ。それで? 

――つまり、毛細管現象や葉からの、つまり、水分の蒸発による木の内外の圧力差など、つまり、木が水を吸ひ上げるのは、つまり、科学的な説明では数十メートルが限界なんだ。つまり、しかし、巨大セコイアに限らず、つまり、木は巨樹になると数十メートル以上に迄、つまり、成長する。何故だと思ふ?  

――うふつ、木の《気》かしら、えへつ。 

――ふむ、さうかもしれない。つまり、僕が思ふに木は、つまり、維管束から幹迄全て、つまり、螺旋状の仕組みなんぢやないかと思ふんだ。つまり、一本の木は渦巻く《気》の中心で、つまり、その目に見えない摩訶不思議な力で、つまり、科学的な常識を超えて垂直に地に屹立する。ねえ、君。つまり、先に言つたが、つまり、科学はまだ渦を正確には説明出来ない。つまり、円運動をやつと直線運動に変換するストークスの定理止まりなんだ。つまり、人間は未だ螺旋の何たるかを、つまり、知らない。つまり、木は人間の知を超えてしまつてゐる。つまり、また渦の問題になつたね、へつ。 

私は雪の何とも不思議さうな顔を見て微笑み更に続けたのであつた。

――ねえ、君。つまり、江戸の町が《の》の字といふ、つまり、《渦》を巻いてゐるのは知つてゐるね? 

――ええ、山手線がその好例よ。 

――つまり、人間が《水》の亜種で、日つ、此の世が右手系ならば、つまり、《の》の字の渦は天から《気》が絶えず降り注ぐ回転の方向をしてゐる。つまり、低気圧の渦が上昇気流の渦ならば、つまり、《の》の字の渦は、言ふなれば下降気流の高気圧の回転方向を示してゐる。つまり、さうすると、江戸の町は絶えず天からの目に見えぬ加護を受けてゐたのさ。そこでだ、つまり、仮に江戸時代のPyramid型の階級社会が、とぐろを巻く渦状の階級社会でもあると強引に看做してしまふならば、つまり、天下無敵の階級社会だつたに違ひない筈なのだ。 

――ふう~う。 

と私は煙草を一喫みした。 

――ねえ、江戸時代の人人は現代人より創造的で豊かな暮らしをしてゐたのかもしれないわね。すると、《自由》の御旗の下の現代の一握りの大富豪と殆ど全ての貧乏人といふ峻険なる山型の階級社会は、うふつ、息苦しいわね。

――ふう~う。 

私は煙草をまた一喫みしながら更なる思案に耽るのであつた。 

――――ううううああああああああ~~。。

と、その時、私の視界に張り付いた彼の人の瞑目した顔は相変はらず私に正面を向けて音為らざる声を唸り上げながら何やら不気味にさへ見える微笑をちらりと浮かべ、忽然とその大口を開けたのであつた。

 

…………

…………

 

それにしても死は物全てに平等に訪れるが、さて、例へば視点を変へて速度をベクトルで表した

 




の時間Δ極限値、つまり、零――ねえ、君、この数式は考へやうによつては物凄く《死》を記号で観念化した代物だと思はないかい? へつ――と看做すと《死者》はベクトルΔといふ∞の速度で動いてゐると看做せるぢやないか。主体が《観測者》でしかゐられぬ現代において、主体はどんなに足掻いても《世界=外=存在》とハイデガー風に看做せば、物理学とはそもそも主体が世界=内に《存在》しない《死》の学問ぢやないのかね? ふつ。さて、そこで《死》も物理法則に従ふならば《死者》はアインシユタインの相対論から此の世のものは《死》も含めて、その極限値として光速度を超えられないとすると《死者》は光速度で動いてゐる事になる。……今、不図思つたのだが∞とは光の光速度の事で《死》の異名なのかもしれないね……。そして、へつ、光が美しいものならば《死》もまた美しいものに違ひない。ふつ、私ももう直ぐ光といふ美しい《死》へ旅立つがね、へつ。ちえつ、まあ、私の事は置いておいて、速度を時間で微分すると加速度が出現する事自体、《観測者》たる主体の日本刀の如く切れ味鋭くも美しい論理といふ刃物を無闇矢鱈に振り回しているとしか見えないのだが、この私の論法で行くと加速度とは差し詰め《霊魂》の動きを表現したものに違ひないね。その時、私の視界に張り付いた彼の人の《魂》も、

――――ううううああああああああ~~。

と音為らざる声を唸り上げながら彼方此方に彷徨してゐたに違ひない。《死》の学問たる物理学が此の世を巧く表してゐるならば、私の視界に張り付いた私と全く赤の他人の彼の人が蛍の如く私の視界内で渦巻きながら明滅してゐたのは、物理学的に見て正鵠を射てゐたのだ。つまり、《死者》とその《魂》は《光》に変化(へんげ)した何物かなのだ。つまり、光は電磁波の一種なのだから《死者》とその《魂》は各人固有の波長をもつた電磁波の一種なのかもしれない……。まあ、それはそれとして、上下左右の知れぬ何処の方角に向かつて私の視界に張り付いた彼の人は浄土へ向かつてゐたのかと考へられもするが、西方浄土といふ言葉があるから差し詰め《西方》へ向け出立したに違ひないのかもしれない……。さて、重さあるものは相対論より決して光速度には至れないが、《死者》に変化したものは《重さ》から《解脱》して、さて、此の世の物理法則の束縛から逸脱してしまふ何物なのかなのだ。其処で出会うのが多分無限大の∞なのだ。私も直ぐに∞に出会へるぜ……へつ。

 

…………

…………

 

――ねえ、この銀杏も《気》の渦を巻いて、私たちを今その渦に巻き込んでゐるのかしら? ふう~う。

と、雪が私たちが筆談をしてゐた木蔭をつくつてゐる銀杏を撫で擦り、煙草を一服しながらまた呟いたのであつた。

――ねえ、つまり、死後も階級は、つまり、《存在》するのだらうか? ふう~う。

と、私も煙草を一服しながら雪に訊ねたのであつた。

――勿論、極楽浄土といふんだから当然あるでしよう。でも、……彼の世に階級があつたとしても彼の世のもの全て自己充足して、それこそ極楽の境地にゐるから……階級なんて考へがそもそも無意味なんぢやないかしら。

――すると、つまり、《光》は自己充足した、つまり、自身に全きに充足してしまつて自己に満ち足りた、つまり、至高の完全に自己同一した、つまり、自同律の快楽の極致に安住する《存在》なのかな? 

――うふ。私、物理学にはそんなに詳しくないから何とも言へないけれど、でも……此の世の全ては《存在》しただけで既に自己に不満足な《存在》として《存在》する外ないんぢやないかしら……。ぢやないと《時間》は移ろはないんぢやない? 《光》もそれは免れないと思ふけれど、どう? 

雪は舗装道路を走る自動車が通る度に巻き起こる風に揺れる銀杏の葉葉に目をやりながら訊ねたのであつた。私は仄かに微笑んで、

――ねえ、つまり、《光》が此の世と彼の世の、つまり、此の世と彼の世の間隙を縫ふ、つまり、代物だと看做すと、ねえ、君、つまり、《光》は此の世の法則にも従ふが、一方、彼の世の法則にも、つまり、従つてゐるんぢやないかと私は思ふんだが、どう思ふ? つまり、《光》が此の世と彼の世の懸け橋になつてゐるんぢやないかと思ふんだけれども……、どう思ふ? 

雪は風に揺らめく銀杏の葉葉を見つめながら、否、葉葉から零れる満月の明かりを見つめながら、

――さうね……、あなたの言ふ通り《光》が此の世の限界速度だとしたならば……、うふつ、《光》はもしかすると死者達が彼の世へ出立する為の跳躍台なのかもしれないわね、うふつ。

銀杏の葉葉から零れる月光の斑な明かりが雪の面に奇妙に美しい不思議な陰影を与へて雪の面で揺れてゐた。

――彼の世への跳躍台? ねえ、君、つまり、それは面白い。つまり、此の世の物理法則に従ふならば、つまり、《光》を跳躍台にして死者が彼の世へ跳躍しても、相対論に従へばそれでも光速度を超える事は不可能だ……ふむ。

と、私は思案に耽り始めたのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

ゆつくりとゆつくりと時計回りに彼の人は渦巻きながらも、面は私に向けたまま私の視界の中で相も変はらず仄かに明滅してゐたのであつた。この視界に張り付いた彼の人もまた、《光》を跳躍台にして彼の世へ出立したのだらうか……。不意に月光の明かりが見たくなつて、私は頭を擡げ満月に見入つたのであつた。この月光も彼の世への跳躍台なのか……等等つらつらと考へながら私はゆつくりと瞼を閉ぢて暫く黙想に耽つたのであつた。

――ふう~う。

その時間は私と雪との間には互ひに煙草を喫む息の音がするのみで、互ひに《生》と《死》について黙想してゐるのが以心伝心で解り合つてしまふといふ不思議な、それでゐてとても心地良い沈黙の時間が流れるばかりであつた。

――ふう~う。ねえ、もう行かなきや駄目ぢやないの? 

と、雪が二人の間に流れてゐた心地良い沈黙を破つて、さう私に訊ねたのであつた。私はゆつくりと瞼を開けてこくりと頷くとMemo帳を閉ぢ、煙草を最後に一喫みした後、携帯灰皿に煙草をぽいつと投げ入れ、徐に歩を進めたのであつた。

――もう、待つて。

と、雪は小走りに私の右側に肩を並べ、そつと私の右手首を軽く握つたのであつた。私は当然の事、伏目で歩きながらも、しかし、《生》と《死》、そして《光》といふ彼の世への跳躍台といふ観念に捉へられたまま思考の堂堂巡りを始めてしまつてゐたのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

歩道は会社帰りの人や学生等で大分混雑してゐたが、私と雪は肩を並べてその人波に流されるままに歩き始めたのであつた。しかし、伏目で歩く外なかつた私はそれらの雑踏の足しか見なかつたのである。雪も何か考へ込んでゐるやうで暫くは黙つてゐた。と、不意に再び光雲が私の視界に飛び込んで来たのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁を時計回りにぐるりと一回りすると、不意に消えたのであつた。と、その刹那、私の視界の中の赤の他人の彼の人は、それ迄ばつくりと開けてゐた大口を閉ぢ、その面を彼方の方へくるりと向け、彼の人はゆつくりとゆつくりと旋回しながら虚空の何処かへ飛翔を始めたのである。

――――ううううああああああああ~~。。

彼の人は相変はらず声為らざる音を唸り上げてゐた。

――《生者》と《死者》と《光》といふ跳躍台か……。

私の思考は出口無き袋小路に迷ひ込んでゐた。

『《存在》とは《生者》ばかりの《もの》ではなく……《死者》もまた《存在》する……か……さて……《生者》から《死者》へと三途の川を渡つた《もの》は……さて……中有で苦悶しながら《死者》の頭蓋内の闇で《生》の時代が走馬燈の如く何度も何度も駆け巡る中……さて……《死者》は自ら《生者》であつた頃の《吾》を弾劾するのであらうか……ふつ……《光》といふ彼の世への跳躍台に……さて……《死者》の何割が乗れるのであらうか……《死者》もまた《存在》といふ《もの》であつた以上……それは必ず《吾》によつて弾劾される《生》を送つた筈だ……ふつ……ふつふつふつ……《もの》は全知全能の《神》ではないのだから……《吾》は必ず《吾》に弾劾される筈だ……しかし……《死者》の頭蓋内の闇が……《死者》にとつて既に《光》の世界に……つまり……《闇即ち光》と……《生者》が闇に見えるものが《光》と認識される以外に《死者》にとつて為す術がないとすると……ちえつ……例へばそもそも《死者》の頭蓋内の闇が、即ち死んだ《もの》にとつて《光》でしかないとしたならば、その《光》とは何なのだ!』

――――ううううああああああああ~~。。

私は私の視界に張り付いた彼の人を凝視するばかりであつた。最早私の自意識から《意識》が千切れて苦悶の末に私の意識が《眼球体》となる事はなかつたが、私は彼の人の顔貌を凝視しては、

――貴様は既に光か!  

と、詰問を投げ掛けるのであつた。

『《死者》が既に《光》の世界の住人ならばだ……地獄もまた《光》の世界なのか……《光》にも陰陽があつて陰は地獄……陽は浄土なのか……ふつ……さうなら……ちえつ、そもそも《光》が進むとは自由落下と同じ事なのか……さうすると……自由落下を飛翔と感じるか……奈落への落下と感じるかは本人の意識次第ぢやないか……《吾》が《吾》を弾劾して……ふつ……後は閻魔大王に身を委ねるのみ……ちえつ……馬鹿らしい……《吾》は徹頭徹尾《吾》によつて弾劾し尽くされなければならぬ! ……さて……光速度が今のところ有限であるといふ事は……此の世……即ち此の宇宙が有限の《閉ぢた》宇宙である事のなによりの証左ではないのか……現在考へられてゐる此の膨脹宇宙が無限大に向かつて膨脹してゐるとすると……光速度も……もしかすると定数なんぞではなく無限大の速度に向かつて加速してゐるのかもしれないぢやないか……特異点……例へば一割る零は無限大に向かつて発散する……また、Black holeの中にも特異点が《存在》する……さうか! この宇宙にBlack holeが蒸発せずに《存在》する限りにおいてのみ《光》は《存在》するのではないか……特異点では因果律は破綻する……ふむ……此の天の川銀河の中心にあると言はれてゐる巨大Black hole……吾吾生物はこの因果律が破綻してゐる特異点の周縁にへばり付いて漸く漸く辛うじて《存在》する……つまり際どい因果律の下に《存在》する……ふむ……はて……もしかすると特異点、若しくはBlack holeが《存在》する限りにおいてしか吾吾も《存在》しない……つまり特異点とは《神》の異名ではないのか!』 

『もしかすると……物体が《存在》するとその内部に特異点が隠されているのかも知れぬ……特異点を覆ひ包む形でしか《もの》皆全て《存在》出来ぬとしたなら……因果律も自同律も絶えず破綻の危機に瀕してゐるのかもしれぬ……自同律の不快……これは《存在》の罠でもあり…《存在》を《存在》たらしめてゐる秘儀なのかも知れぬ……すると……中有へ出立した《死者》は自身を徹底的に……ふつ……それは底無しに違ひないが……弾劾する宿命を負つてゐるに違ひない……弾劾に弾劾を重ねた末に残つた自身の残滓を更に鞭打つて弾劾する宿命……此の世に《存在》してしまつた《もの》全てが負つてゐるこの宿命を貫徹した《もの》のみ……未だ未出現の《存在》に出現を促す権利……其処に《魂》……若しくは《精神》のRelayが辛うじて辛うじて行はれるか? ……ふつ……《魂》……若しくは《精神》のRelayは……しかし……必ず行はなければならぬのかもしれぬ……此の世に一度《存在》してしまつた《もの》は……先達の《魂》……若しくは《精神》を受け取つた上で辛うじて……《存在》に堪へられるのかもしれぬ……未知なる《もの》への変容……此の世に《存在》してしまつた《もの》は《死》を受容し……未来に出現する《もの》へその席を譲る……其処に因縁は生じるのか? ……《死》によつて因果律は破綻するのか? ……しかし……破綻した因縁は再び別の此の世に出現してしまつた《もの》に託されるのか? さうだとして……ふつ……不連続の連続性……矛盾は《存在》した《もの》には必然のものだが……矛盾を抱へ込まざるを得ない《存在》してしまつた《もの》は……しかし……自己を責め苛む事で……もしかすると馬鹿げた自己慰撫をしてゐるだけかもしれぬではないか……自同律の不快と言ひながら実際のところ其処でこの上ない自己愛撫といふ悦楽を味はつてゐるのかもしれぬ……自虐が快楽へと変容してしまつたならば……最早その自己内部に引き籠つて外界に一歩たりとも出ない……自己憎悪が最高の自慰行為……か……へつ』

――――ううううああああああああ~~。。

『彼の人も今中有で自己に対して弾劾に弾劾を重ねて倒錯した至高の悦楽の境地にゐるのか……この悦楽はまた……地獄の責苦に等しいか……極限……苦悩と快楽の境に……《死者》は辛うじて佇立し……其処で杳として知れぬ漠たる自身といふ茫洋なる面(おもて)と全的に対峙するか……自身が自身によつて滅び尽くされる懊悩を味はひ尽くす以外……《吾》は《吾》を脱皮出来ぬかもしれぬ……《吾》以外の何かへの変容……幽冥への出立……は……《吾》が《吾》であつてはならぬのか……解脱……か……《死》してのみ《吾》が《吾》を超克するこの《存在》め! ……《存在》よ……呪はれるがよい! ……へつ……へつへつへつ……《吾》が《吾》を呪縛するだけぢやないか……だが……しかし……《存在》する《もの》……この《吾》から遁れられぬ!』 

――――ううううああああああああ~~。。

『それでも……《吾》は《吾》を超克しようともがき続ける……しか……ない……へつ……何とも不自由極まりない! ……そして《死》からも遁れられぬ……《存在》とは何と呪はれた《存在》なのだ! へつ! と自身の《存在》を嘲笑つたところで、やはり《吾》は《存在》する……くつくつくつ……そもそも《吾》は《吾》である事を望んでゐるのか? ……《吾》……この面妖なる《もの》……ちえつ……心臓は相変はらず鼓動してゐるぜ!』 

『……ふむ……常に伸縮せずにはゐられぬ……否……鼓動するように命ぜられてゐるこの心臓は……真の自身を知つてゐるのか……へつ……真の自身て何だ? まあよい……しかし絶えずその姿を変容させるこの心臓は……その鼓動を停止した時に初めて己の何たるかを知るのか……それ迄は絶えざる変容を強要される……哀れなる哉……吾が心の臓! ……動く事がそもそも《吾》を《吾》為らざる《もの》へと動かす原動力ではないか……若しくは時が移ろふ事がそもそも《吾》を《吾》為らざる《もの》へと誘ふ魔手なのではないか……ちえつ……下らぬ……そもそも《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》は《吾》には為り得るか……《吾》は無数の《異形の吾》の《存在》を前にして《吾》に戸惑ふ……か……《吾》の異形は無数に《存在》しやがる……けつけつけつ……例へばこの《吾》が意識すればたちどころに全て実現する魔法を手にしたとして……満ち足りるのは最初の一瞬だけに決まつてる……寝てゐるだけで全てが実現してしまふ世界なんぞ直ぐに飽き飽きするに決まつてゐる……謂はば《吾》は脳のみの《存在体》……つまり……《脳体》へと変容してしまふのさ……それは植物状態の人間と何も変はらぬ……すると《吾》は《吾》の《存在》を滅する事を願ひ出す外なく、否、どうあつてもこの《吾》なる《存在》の抹殺を成し遂げるところの宿願をたちどころに遂げて此の世から消える……意識の窮極の願ひは自ら滅する事に行き着くのが道理さ……しかし……《脳体》は《存在》か……』

 

…………

…………

 

ねえ、君、不思議だね。道行く人人は私の視界にその足下の《存在》を残し、その殆どの者とは今後永劫に出会ふ事はない筈さ。袖振り合ふも他生の縁とはいひ条、今生ではこの道行く人人の殆どと、最早行き交ふ事は未来永劫ある筈もない。この見知らぬ者だらけが《存在》する此の世の不思議。ところが、これら見知らぬ者達も顔を持つてゐる。それぞれが《考へる》人間として今生に面をもつて《存在》する。そして、彼等もまた《吾》以外の《吾》にならうと懊悩し、もがき苦しみ《存在》する。不思議極まりないね。全ての《生者》は未完成の《存在》としてしか此の世にゐられぬ。不思議だね。しかも《死》がその完成形といふ訳でもない。全ては謎のまま滅する。此の世は謎だらけぢやないか。物質の窮極の根源から大宇宙迄、謎、謎、謎、謎、謎だらけだ。ねえ、君、《存在》がそれぞれ特異点を隠し持つてゐるとしたなら、ふつふつ、僕は実際に《存在》たる《もの》はそれ自体矛盾である特異点を必ずその内部に隠し持つてゐると看做してゐるがね、しかも、その特異点は無数の《面》を持つて此の世に《存在》してゐる。人間の《面》は特異点の顔貌のひとつに違ひないね。へつ。特異点だからこそ無数の《面》を持ち、へつへつ、実際此の世に《存在》する《もの》全て己の内界を一度でも覗き込めば、其処に無数の《異形の吾》が棲息してゐる不気味さに驚愕する筈だがね、そして、《存在》たる《もの》は全て特異点を、無数の《異形の吾》の《面》として持ち得るのさ。己にもまた特異点が隠されてゐる筈さ。だから、此の世の謎に堪へ得るのさ。へつ、此の世の謎の探究者達は此の世の謎を《論理》の網で搦(から)め取らうと手練手管の限りを尽くしてゐるが、へつ、謎はその論理の網の目をひよいつと摺り抜ける。だから論理の言説は何か《ずれ》てゐて誤謬の塊のやうな自己満足此処に至れりといつた《形骸》にしか感じられない。ねえ、君、そもそも論理は謎を容れる容器足り得るのかね。どうも私には謎が論理を容れる容器に思へて仕方がない……。謎がその尻尾をちらりとでも現はすと論理はそれだけで右往左往し、

――新発見だ! 

と喜び勇んで論理は、その触手を伸ばせるだけ伸ばして何とか謎のその《面》を搦め取るが、へつ、謎はといふと既にその《面》を変へて、気が向いたらまたちらりと別の《面》を現はす。多分、論理は、特異点と渦とを、真正面から徹頭徹尾論理的に記述出来ない内は、謎がちらりと現はす《面》に振り回されつぱなしさ。だから尚更《存在》は特異点を隠し持つてゐると看做さざるを得ず、そして、渦を巻いてゐるに違ひない。私にはどうしてもさう思はれて仕方がないのさ。論理自体が渦を巻かない限り、謎は謎のまま論理を嘲笑つてゐるぜ、へつ。

 

…………

…………

 

不意に私の視界は真つ暗になつた。私と雪は神社兼公園となつてゐる鎮守の森の蔭の中に飛び込んだのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

彼の人は鎮守の森の蔭に入つて、私の視界が真つ暗になつた途端、その輝きを増したのであつた。街燈が灯つてゐる場所迄の数十秒の間、この歩道を歩く人波は皆、闇の中に消え、その《存在》の気配のみを際立たせて自らの《存在》を《他》に知らしめる外なかつたのである。闇に埋もれた《存在》。途端に何か得体の知れぬ《もの》の気配が蠢き出す闇の中、私は何とも名状し難い心地良さを感じてゐた。私は、それ迄内部に息を潜めて蹲つてゐた内部の《吾》が、ゆつくりと頭を擡げ正面を見据ゑたやうに、この闇を見据ゑたのであつた。前方数十メートル先の街燈から漏れる光で幽かに照らされた人波の群れが其処に動いてゐた以外、全ては闇であつた。見知らぬ他人の顔が闇に埋もれて見えぬ事の心地良さは、私にとつては格別であつた。それは闇の中で自身の《面》から解放された奇妙な歓喜に満ちた、とはいへ、

――《吾》は何処? 《吾》は何処? 

と突然盲(めし)ひた人がそれ迄目の前で見えてゐた《もの》を見失つて手探りで《もの》、若しくはそれは《吾》かもしれぬが、その《もの》を探す不安にも満ちた、さもなくば、《他》を《敵》と看做して、ひたすら自己防衛に身を窮する以外ない哀れな自身の身の上を噛み締めなければならぬ、何とも名状し難い屈辱感に満ちた、解放と不安と緊迫とが奇妙に入り混じつた不思議な時空間であつた。闇の中では人の山がのつそりと動いてゐた。それは再び視覚で自身を認識出来る光の下への遁走なのか? 否、それは自己が闇と溶け合つて兆す《無限》といふ観念と自身が全的に対峙しなければならぬ恐怖からの遁走といふべきものであつたに違ひない。若しくは、それは自意識が闇に溶けてしまひ、さうすると最早、再び自己なる《もの》が再構築出来ぬのではないかといふ不安からの遁走に違ひなかつたのであつた。闇の中の人波は等しく皆怯へてゐるやうに私には感じられたのである。その感覚が何とも私には心地良かつたのであつた……。何故かと言へば、闇の中では皆須く闇に《存在》を溶暗する外ないその《存在》の有様が、何やら複素数虚数部が肥大化に肥大化を重ねて、虚数のみが闇といふ時空間に溢れんばかりに自己増殖をする、つまり、最早《吾》が《吾》である根拠を見失つて茫然とする外ない、その哀れな《吾》に縋り付く《存在》の醜さが不意に露はになるその瞬間の《快楽》を、《存在》たる《もの》はそれが何であれその《快楽》を味はひ尽くさずにはをれぬ阿片の如き《もの》を《吾》に見出してしまふ、即ち、《吾》が《一》者から解放される、若しくは《無限》に出会ふ《快楽》が堪らないに違ひないのであつた。

この闇と通じた何処かの遠くの闇の中で己の巨大な巨大な重力場を持ち切れずに《他》に変容すべく絶えず《他》の物体を取り込まずにはゐられず、更に更に肥大化する己の重力場に己自身がその重力で圧し潰され軋み行くBlack holeのその中心部の、自己である事に堪へ切れずに発され伝播する断末魔のやうな、しかし、自己の宿命に敢然と背き、自らに叛旗を翻し、そこで上げられるBlack hole自身の勝鬨のやうな、さもなくば自己が闇に溶暗する事で肥大化に肥大化を続けざるを得ぬ自己の宿命に抗すべく、何かへの変容を渇望せずにはゐられない自己なるものへの不信感が渦巻くやうな闇に一歩足を踏み入れると、闇の中では自己が自己である事を保留される不思議な状態に置かれる事に一時も我慢がならず、自己を自己として確定する光の《存在》を渇望する女女しい自己をぢつと我慢しそれを噛み締めるしかない闇の中で、《存在》は、「吾、吾為らざる吾へ」と独りごちて自己に蹲る不愉快を振り払ふべく自己の内部ですつくと立ち上がるべきなのだ。自己の溶暗を誘ふ闇と自己が自己であるべきといふ鬩ぎ合ひ。闇の中では《存在》に潜む特異点が己の顔を求めて蠢き始めるのだ。それ迄光の下では顔といふ象徴によつて封印されてゐた特異点が、その封印を解かれて解き放たれる。闇の中では何処も彼処も《存在》の本性といふ名の特異点が剥き出しになり、その大口を開け牙を剥き出しにする。この欲望の渦巻く闇、そして、《存在》の匿名性が奔流となつて渦巻く闇。私も人の子である。闇に一歩足を踏み入れると闇の中ではこの本性といふ名の阿修羅の如き特異点の渦巻く奔流に一瞬怯むが、それ以上に感じられる解放感が私には心地良かつたのである。私の内部に隠されてあつた特異点もまた、その毒毒しい牙を剥き出しにするのだ。無限大へ発散せずにはゐられぬ特異点を《存在》はその内部に秘めてゐる故に、闇が誘ふ《無限》と感応するに違ひない。しかし、一方では私は、闇が誘ふ《無限》を怖がつてぢつと内部で蹲り頑なに自身を保身する事に執着する自身を発見するのであるが、しかし、もう一方では、きつと目を見開き、眼前の闇に対峙し《無限》を持ち切らうとその場に屹立する自身もまた内部で見出すのであつた。とはいへ、《無限》は《無限》に対峙する事は決してなく、《無限》と《無限》は一つに重なり合ひ渾然一体となつて巨大な巨大な巨大な一つの《無限》が出現するのみである。私はこの闇の中で《無限》に溶暗し、私の内部に秘められてゐるであらう阿修羅の如き特異点がその頭をむくりと擡げ、何やら思案に耽り、闇の中でその《存在》の姿形を留保されてゐる森羅万象に思ひを馳せ、その《物自体》の影にでも触れようと企んでゐる小賢しさに苦笑するのであつた。

――ふつ。

確かに《物自体》は闇の中にしかその影を現さぬであらう。しかし、闇は私の如何なる表象も出現させてしまふ《場》であつた。私が何かを思考すれば、たちどころにその表象は私の眼前に呼び出される事になる。闇の中で蠢く気配共。気配もまた何かの表象を纏つて闇の中にその気配を現はす。それは魂が《存在》から憧(あくが)れ出る事なのであらうか……。パンドラの匣は闇の中で常に開けられてゐるのかもしれぬ。そして、そのパンドラの匣には魑魅魍魎と化した気配共が跋扈する。この闇の中で《存在》の下には《希望》なんぞは残される筈もなく、パンドラの匣に残されてゐるのは現代では《絶望》である。

――――ううううああああああああ~~。。

彼の人はゆつくりとゆつくりと螺旋を描きながら、何処とも知れぬ何処かへ向け飛翔を相変はらず続けてゐた。彼の人はこの闇の中にあつてもその姿形を変へる事なく、徹頭徹尾彼の人であり続けたのであつた。

闇。闇は《無限》を強要し、其処に卑近な日常の情景から大宇宙の諸相迄ぶち込む《場》であつた。闇の中では過去と未来が綯(な)ひ交ぜになつて、不気味な《もの》を眼前に据ゑるのだ。悪魔に魂を売るのも闇の中では私の選択次第である。ふつ。この解放感! 私はある種の陶酔感の中にあつたに違ひなかつた。《もの》皆全て闇の中に身を潜め、己の妄想に身を委ねる。それはこれ迄自身を束縛して来た《存在》からの束の間の解放であつた。《存在》と夢想の乖離。しかし、《存在》はそれすらも許容してしまふ程に懐が深い。《存在》からの解放なんぞは無駄な足掻きなのかもしれぬ。闇の中の妄想と気配の蠢きの中にあつても《存在》は泰然自若としてゐやがる。ちえつ。何とも口惜しい。しかしながら《存在》無くしては妄想も気配もその《存在》の根拠を失ひ此の世に《存在》出来ないのは自明の理であつた。

 

……………

…………… 

 

――お前は何者だ! 

ねえ、君、闇の中では闇に誰もがかう詰問されてゐるに違ひない。へつへつへつ。人間は本当のところでは自問自答は嫌ひな筈さ。己の不甲斐なさと全的に対峙するこの自問自答の時間は苦痛以外の何物でもないに違ひない。それはつまり自問する己に対して己は決して答へを語らず、また語れないこの苦痛に堪へなければならないからね。それに加へて問ひを発する方も、己に止めを刺す問ひを多分死ぬ迄一語たりとも発する事はないに違ひない。そもそも《生者》は甘ちやんだからね。へつへつへつ。甘ちやんぢやないと《生者》は一時も生きられない。へつへつへつへつ。それは死の恐怖か? 否、誰しも己の異形の顔を死ぬ迄決して見たくないのさ。醜い己! 《生者》は、生きてゐる事その事自体が醜い事を厭といふ程知り尽くしてゐるからね。君もさう思ふだろ? それでも《生者》は自問自答せずにはゐられない。をかしな話だ、ちえつ。

 

…………

…………

 

鎮守の森による闇といふ自身の《存在》を一瞬でも怯ます時空間の中で、此の世に《存在》する森羅万象は疑心暗鬼の中に放り込まれて猜疑心の塊になつてゐる筈であつたが、私はこの闇の中といふ奇妙な解放感の中で、尚も、「光が彼の世への跳躍台」といふ言質の周りで思考の堂堂巡りを重ねてゐたのであつた。

『……相対論によれば物体は光に還元出来る。つまり物体は《もの》として《存在》しながらも一方では摑みどころのないEnergie(エネルギー)にも還元出来る……もし《もの》がEnergieとして解放されれば……へつ……光だ! ……この闇の歩道を歩く人波全ても光の集積体と看做せるぢやないか! ……だが……《生者》として此の世に《存在》する限り光への解放はあり得ず、死す迄人間として……つまり……《もの》として《存在》する事を宿命付けられてゐる……光といふ彼の世への跳躍台か……成程それは《生者》としての《もの》からの解放なのかもしれない……』

と、その時、不意に歩道は仄かに明るくなり、再び満月の月光の下へ出たのであつた。

『……確かに《もの》は闇の中でも仮令見えずとも《もの》として《存在》するに違ひないが……しかし……《もの》が光に還元可能なEnergie体ならばだ……《もの》は全て意識……へつ……意識もまたEnergie体ならばだ……《もの》皆全て意識を持たないかな?  馬鹿げてゐるかな……否……此の世に《存在》する《もの》全てに意識がある筈だ……死はそのEnergie体としての意識の解放……つまり……光への解放ではないのか?』 

遂に歩道は神社兼公園の鎮守の森の蔭の闇から抜け、月光と街燈が照らし出す明かりの下に出たのであつた。雪は相変はらず何かを黙考してゐるやうで、私の右手首を軽く優しく握つたまま何も喋らずに俯いて歩いてゐた。私はといふと、他人の死相が見たくないばかりに、明かりの下に出た刹那、また視線を足元に置き伏目となつたのである。

『……それにしても《光》と《闇》は共に夙(つと)に不思議なものだな……ちえつ……《もの》皆全て再び光の下で私(わたくし)し出したぜ……《吾》が《吾》を見つけて一息ついてゐるみたいな雰囲気が漂ふこの時空間に拡がる安堵感は一体何なんだらう……それ程迄に私が私である事が、一方で不愉快極まりないながらも、もう一方では私を安心させるとは……《存在》のこの奇妙奇天烈!』

その時、丁度T字路に来たところであつた。私はSalonに行く前にどうしてももう一軒画集専門の古本屋に寄りたかつたので、そのT字路を右手に曲がつたのであつた。

――何処かまだ寄るの? 

と雪が尋ねたので、私は軽く頷いたのであつた。この道は人影も疎らで先程の人波の人いきれから私は解放されたやうに感じて、ゆつくりと深呼吸をしてから正面をきつと見据ゑたのである。

――あつ、画集専門の古本屋さんね?

と、雪が尋ねたので、これまた私は軽く頷いたのであつた。

其処は洋の東西を問はず、多分古本屋の主人の頭蓋内の闇に明滅する心象風景に呼応してしまつた絵画や、これまた古本屋の主人の魂に決定的な印象を与へてしまつた画集の数数等が、これまた古本屋の主人の魂の有様を映すやうに雑然と置かれてゐた、何やら古本屋の主人の頭蓋内にある或る部屋の中に迷ひ込んだやうな、一種独特の雰囲気を醸し出した古本屋であつた。それを更に例へて言つてみれば、古本屋の主人の頭蓋内に形作られてゐた迷宮都市が画集によつて再現されてゐるといつたやうな、人間誰しも持つてゐるに違ひない或る種の風狂さが直截表れてゐる、古本屋の主人の独特の性質が紡ぎ出した独自の世界観に彩られた古本屋であつた。私がその古本屋を最初に訪れたのは、「あつ、こんな所にも古本屋がある」と何気なくであつたが、しかし、その古本屋の店内に一歩足を踏み入れた刹那、私の魂は鷲摑みにされすつかり魅了されてしまつたのは言ふ迄もなく、途端にその古本屋は私の時間が許す限り必ず訪れないと気が済まない場所になつてしまつたのであつた。

その古本屋に入るや否や、私は雪を放つておいてヴアン・ゴツホとヰリアム・ブレイクと長谷川等伯伊藤若冲の画集を棚から取り出し、渦巻く夜空が異様なヴアン・ゴツホの「星月夜」と、「天帝」とも呼ばれてゐる雲上の老ひた男が片手を地に向けCompass(コンパス)状に二条の閃光が放たれる「絶対者」と、幽玄至極な等伯の「松林図屏風」と、極彩色が凄まじい若冲の「鶏之図」を左から順番に平積みの雑誌等の上に拡げ並べて雪に見せたのであつた。

――何? 何か意味があるでしよ! 

と雪が訊ねたので、私は即座にMemo帳を取り出し、かう雪に切り出したのである。

――つまり、この四作品を左から眺めていつて、つまり、何か気が付かないかい? 

――そうねえ……ちよつと待つてね。

と雪は四枚の絵に見入るのであつた。雪の腕組みをしたその物腰は、傍から見てゐると見惚れる程に優麗で雪の心の美しさが自然と表れてゐるやうにしか見えなかつたのである。蛍光燈の明かりの下で改めて見る雪は実際に観音像が醸し出す柔和な雰囲気を纏ひ、そしとて、その柔和な表情が見る者の心を穏やかにさせるに相応しい美麗な面立ちをしてゐて、見れば見る程に美しかつたのであつた。

――それにしてもこの四作品は凄いわねえ。

と雪は嘆息したのであつた。さうである。この四人の作品はいづれ劣らず傑作ばかりであつた。雪が嘆息するのも無理からぬ話である。

――う~ん、私には良く解らないわ。唯、いづれの作品も凄いといふ事だけは解るけどもね。

――つまり、先づ、ヴアン・ゴツホの「星月夜」だけど、つまり、これは主観の世界かい? つまり、それとも客観の世界かい? 

――さうねえ、徹底した主観の世界だとは思ふんだけども……。

――つまり、さうだとすると、つまり、ヴアン・ゴツホは敬虔な基督者だけれども、つまり、この作品の創造主は神だと思ふかい? つまり、それともヴアン・ゴツホ本人だと思ふかい? 

――えつ! いきなりの質問ね。多分だけれどもね、この作品の創造主はきつと神よ。さうに違ひないわ。ぢやないと、ゴツホがこの絵を描き上げる前にゴツホ自身が滅んでゐるんぢやないの?  

――さうだね。つまり、この作品の世界の創造主は、つまり、ヴアン・ゴツホぢやなく、つまり、やはり神だと僕も思ふ。けれども、つまり、この渦巻く夜空は、つまり、どうした事だらう? 

――ゴツホには此の世の真理が朧げながら見えてしまつてゐたんぢやないかしら……。可哀相に! 

――つまり、此の世の真理に、つまり、朧げながらも触れてしまふ事を、つまり、君も可哀相だと、つまり、哀しい事だと思ふのかい? 

――ええ、私はさう思ふの。といふよりも、さう思へて仕方無いのよ。自分でもそれが何故だか解らないんだけれども、此の世の正覚者は全て大悲哀を背負つてゐるとしか思へないのよ。何故だか自分では解んないんだけどもね、うふふ。

――すると君は、つまり、このヴアン・ゴツホの作品は哀しい作品に、つまり、思へるんだね。

――ええ。

――つまり、僕もそれには、つまり、同感だ。

――――ううううああああああああ~~。。

――なぜかしらねえ? 此の世に《存在》する事自体が悲哀だと思つてしまふの。私の悪い癖ね。でも、悲哀が《存在》の原形質の一つだと思うのよ。

――つまり、この絵は途轍もない切迫感が、つまり、迫つて来るよね。つまり、この絵はこの世界を創つた創造主への、つまり、ヴアン・ゴツホなりの問ひ、つまり、それもヴアン・ゴツホの全《存在》をかけての、つまり、痛切な問ひだつたんぢやないかと思ふんだがどうだい? 

――問ひねえ……。其処には自身の《存在》に対する疑念が含まれてゐたのかしら。

――しかし、つまり、ヴアン・ゴツホには、つまり、夜空がこの様にしか見えなかつたんだらう。つまり、其処迄ヴアン・ゴツホは追い込まれてゐた。つまり、其処には底知れぬ諦念があつた筈だよ。

――諦念? 何に対する諦念? 

――つまり、自身の《存在》に対する諦念! つまり、多分、ヴアン・ゴツホは己の《存在》を呪つてゐた筈だ。つまり、生涯でたつた一枚の絵しか売れなかつたヴアン・ゴツホが、つまり、それでも創作活動を続けた、つまり、その途轍もない原動力は、つまり、己の《存在》に対する、つまり、呪詛以外あり得なかつたんぢやないかな。つまり、そんな己を《存在》させた、つまり、神への問ひしか、つまり、最早、つまり、ヴアン・ゴツホには残つてゐなかつたに違ひない。

――その問ひは、懊悩に懊悩を重ねた末の最後の一縷の望みを此の世に繋ぎ止めるための呻きに近かつたんぢやないかしら? 

――つまり、それでも神に、つまり、問はずにはゐられなかつたヴアン・ゴツホは、つまり、途轍もなく哀しい《存在》だね。つまり、荒涼としたヴアン・ゴツホの内界を、つまり、神にぶつけてみて、つまり、神の答へ、つまり、それがこの「星月夜」だつたんぢやないかと思ふ。つまり、夜空で渦巻く、つまり、月や星星は、つまり、ヴアン・ゴツホの《存在》を映したものに違ひないと思ふがね。つまり、渦を巻く事で、つまり、辛うじて《存在》が《存在》を、つまり、保てたんぢやないかな。

――渦は中心を持つわね。きつとゴツホは《存在》の中心を創造主たる神に問ふたのね。己が《存在》に中心はあるのかと。渦を巻く以外には最早《存在》はゴツホにとつて瓦解した《もの》だつたんぢやないかしら。吾は此の世に《存在》するに値する《存在》であつたのかと。ゴツホの全《存在》をかけての問ひだつた気がしないでもないわね。

――つまり、無限大、∞。つまり、ヴアン・ゴツホもまた、つまり、無限大といふものに、つまり、直感的に触れてしまつたのかもしれぬ。

――唐突に何? 無限大つて、あのさつきの無限大次元だつたかしら。その無限大次元の無限大? 

――さう。つまり、神の問題を突き詰めると、つまり、どうあつても、つまり、無限大に行き着いてしまふのが自然の道理さ。つまり、実際に夜空を渦巻くやうにしか描けなかつたヴアン・ゴツホもまた、つまり、無限大に触れてしまつたに違ひない。

――無限大に触れるつて? 

――つまり、一般に時空間は、つまり、四次元として誰しも認識してゐるから、つまり、仮に無限大次元でしか認識出来ないとすれば、つまり、ヴアン・ゴツホの「星月夜」のやうな世界が、つまり、描かれるしかない。つまり、世界はさうとしかあり得ないんだ、多分、ヴアン・ゴツホにとつては特に。

――――ううううああああああああ~~。。

赤の他人の彼の人は相変はらずゆつくりと渦を描きながら、私の視界の中の何処とも知れぬ何処かへと飛翔を続けてゐたのであつた……。

――ねえ、無限大次元では全てが渦に収束するのかしら? 

――さうだね。つまり、僕個人の考へではさうとしか考へられない。つまり、全ての《存在》は渦へと収束する。

――ぢやあ、世界を無限大次元で忠実に描写すると正にゴツホの「星月夜」のやうにしかならないつて事ね。

――さう! 

――何となくだけど、あなたが言つてゐる無限大次元が解つたやうな気がするわ。

――さうか。つまり、無限は神に通じてゐるのさ。

ここで私はブレイクの絵を指差し、雪に見るやうに促したのであつた。

――つまり、無限が神に通じる事が、つまり、このブレイクの絵で逆説的にではあるが、つまり、具現化されてゐると思ふが君はどう思ふ?

――う~ん、何をおいてもこの絵は峻厳な絵ね。この絵は「Europe a Prophecy(ヨーロツパ 一つの預言)」の口絵になつてゐる絵でしよ? 

――さう。つまり、かうしてブレイクは無理矢理にでも、つまり、無限なるものを封印せざるを得なかつたのかもしれぬ。

――無限を封印? この絵は無限の具現ぢやないの? 

――つまり、この絵に限らないんだけれども、つまり、ブレイクにとつては、つまり、無限は球状の火の玉に封印され、つまり、人間なるものが《存在》するこの世界の開闢が、つまり、宣告されてゐるやうにも見えるけどね。

――世界の創造ね。

――つまり、この絵には人間《存在》の業が集約されてゐる。つまり、ブレイクはどうあつてもこの世界の謎を、つまり、何としても解き明かし、つまり、認識し尽くしたかつたに違ひない。つまり、その結果として、つまり、必然としてブレイクは世界創造の神話的な物語風の詩を、つまり、書かざるを得なかつたのさ。つまり、此の世は封印された無限の上に築かれた泡沫の夢さ。

――この絵が泡沫の夢? う~ん、さうかもしれないわね。此の世が泡沫の夢であるが故にこの峻厳な絵で世界の開闢を刻印したのね。

――さうかもね。つまり、ブレイクにとつて無限の封印を解いて、つまり、世界の開闢を宣告するにはこの絵のやうな、つまり、神話的な人格の具現でしか表現できなかつた。つまり、それは神とも呼ぶべき《存在》の創出さ。つまり、初めに神ありき。つまり、基督教が支配する世界では全てが神から始まつてゐる。

――さうね……。でもそれつて結局のところは、主体のごり押しに終始するんぢやないかしら。

――さう、つまり、神は主体の理想から一歩も抜け出られない。つまり、それが神の物語たる神話であらうが預言であらうが聖書であらうが、つまり、主体自らの手で徹頭徹尾書き記さずにはゐられない。つまり、それは詰まる所、つまり、神に託(かこつ)けて主体がしやしやり出ずにはゐられない哀しい《存在》なんだ、つまり、主体はね。つまり、主体は世界の中心に《存在》する事になる。しかし、これは、つまり、ある意味主体に苦悩しか齎さない。つまり、《無》がない事の不自由さとでも言つたらいいのかな。つまり、それは主体の暴走を《絶対存在》を創造する事で主体自ら呪縛する外ない。つまり、其処にはそれはそれは深い深い懊悩が隠されてゐる筈さ。つまり、そこにもし神といふ《存在》がなかつたならば、つまり、主体は、つまり、未来永劫救はれない。つまり、徹頭徹尾主体が主体の主人といふ事は、つまり、それはある意味地獄絵図だ。つまり、それを見ないための基督の磔刑像さ。そして、つまり、其処に残されるのは、つまり、自堕落で憐れな自己が現出するのみさ。ふつ、つまり、自己実現出来たらそれで仕舞ひのちつぽけな主体が其処に《存在》するだけだ。つまり、これは矮小化されてはゐるが、つまり、他力にも通じるところがあるんだが、絶対の神の思し召しによるといふ、つまり、絶対的な神に抱かれ高みに昇る信仰がなければ、つまり、主体は主体を超克なんぞ出来やしない。

――他力? 基督教にも他力の要素はあると思ふの? 

 私は其処で軽く頷いたのであつた。

――つまり、其処には大いなる矛盾があるんだが、つまり、彼等は一方で絶対の神への信仰を抱きながら、つまり、一方で主体絶対主義といつたら良いのか、つまり、地上の王は主体なんだ。つまり、それは懊悩以外齎さない。つまり、《無》を、《無》といふ《無限》を認めない不自由極まりない《存在》として、つまり、主体は此の世に《存在》しなければならぬ。つまり、それは哀れだよ。

――哀れ? 

――さう、哀れさ。つまり、其処で他力のやうに絶対の神に身を委ね、つまり、一時の平安を得てゐるのさ。つまり、これは哀れとしか言いやうがない。

――――ううううああああああああ~~。。

 私は暫く口を噤み瞼を閉ぢて、瞼裡の虚空と赤の他人の彼の人を凝視したのであつた。しかし、それも一瞬の事で、私は再び目をかつと見開きMemo帳にかう記したのであった。

――つまり、基督に全てをおつ被せて、自身は平安の安息の中に安らぐ矛盾を、つまり、矛盾と気付かずに、つまり、主体絶対主義の下に生きる。つまり、僕からすると、つまり、そんな生き方は哀れ以外の何物でもない。

――でも、平安が得られるのであれば、それはそれで幸福なんぢやないかしら。

――さうだね。つまり、神に抱かれての平安は、つまり、それはそれで幸福だ。しかし、このブレイクの絵に平安はあるかな? 

――これつぽつちもないやうに見えるけれど……。

――つまり、恐怖を感じないかい? つまり、胸に突き刺さる恐怖を? 

――う~ん、さうね、さう言はれればこの絵は恐怖を掻き立てるかもしれないわね。

――つまり、恐怖がなければ主体は、つまり、増長する馬鹿な生き《もの》だ。つまり、主体が主体を統治する装置として、つまり、恐怖は必須の条件さ。つまり、多分、ブレイクには、つまり、平安はなかつたんぢやないかな。

――どうしてさう思ふの? 

――つまり、ブレイクにとつて自身は、つまり、度し難い、何とも名状し難い《存在》だつたやうな気がするのさ。何となくだけどもね。

――弁証法ではどうしようもないものをブレイクは見てしまつたやうな気がするの。

――つまり、無限さ。

――無限ね……。

――つまり、ブレイクにとつては初めに無限ありきのやうな気がするんだ。つまり、先づは無限を何としても鎮めない事には、つまり、一歩も主体は前に進めない。つまり、有限が無限を退治する苦悩――これはどう仕様もない! 

――有限が無限を退治する苦悩? 

――さう。つまり、主体はどう足掻いても有限だ。つまり、初めにLogos(ロゴス)があつてしまふ西洋において、ブレイクは、つまり、自身の身の置き所がなかつたんぢやないかな。つまり、だから、ブレイクの作品は絵巻物のやうに言葉と絵が混在してゐる。つまり、ブレイクにとつてはさういふ形式しか取りようがなかつた。

――さうね。私もさう思ふわ。

――つまり、絵に無限を閉ぢ込める。しかし、

と、私はここでMemo帳から目を上げ、表向きはぼんやりと本棚の画集群の背表紙を眺めながらも内部に拡がつてゐる虚空を凝視し、暫く沈思黙考したのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

暫くすると雪が、

――渾沌……。陰陽魚太極図……。ブレイクの無限を閉ぢ込めた火の玉の卵殻の形をした絵は陰陽魚太極図に通じてないかしら? 

と言つたので、私は軽く頷いたのであつた。そして私は蛍光燈の明かりをぼんやりと眺めながら、無限について思ひを巡らせたのであつた。

 

…………

…………

 

ねえ、君。無限について思ひを巡らすなんて愚かな事だね。

 例へば、

――無限とは何ぞや? 

と自問自答したところで何にも出て来やしない。無限は無限のまま、相変はらず有限の主体をせせら笑つてゐる。しかしだ。有限の主体はそれでも無限を問はざるを得ない哀しい生き《もの》だ。

 尚も、

――無限とは何ぞや? 

と主体は自問自答を敢へてするしかない。哀しいね……此の世に《存在》する森羅万象は……。

 

…………

…………

 

私はブレイクの絵を一瞥しては瞼を閉ぢ、そして、陰陽魚太極図を脳裡に思ひ浮かべては黙考を繰り返すのであつた。雪もまた暫く何かに思ひを巡らし沈思黙考してゐるのである。

 すると不意に私の頭蓋内の闇の中に、

――人は麺麭(ぱん)のみに生きるに非ず……。

といふ声が厳かに響き渡つたのであつたのであつた。私はゆつくりと瞼を開け、ブレイクの絵を凝視したのであつた。

――人は麺麭のみに生きるに非ず……。

 

…………

…………

 

ねえ、君。確かに人は麺麭のみに生きるに非ずだね。これは間違ひない。だつて、人は自身の生に何か理由付けしないとこれつぽつちも生きてゐられやしないぢやないか。

――私は何の為に生きる? 

 この言葉が世界に満ち満ちてゐる。誰しもが自分の人生について何かしらの思ひを馳せ、『私は何の為に生き《存在》してゐるのか?』と、絶えず自問自答してゐる。麺麭を得るのにき汲汲としてゐる生活はそれはそれで物凄く充実してゐる人生に違ひないが、しかし、一度、

――私は何の為に生きてゐる? 

といふ陥穽に捉へられると、もう其処から一歩も身動き出来なくなつてしまふ。その満たされる事のない自身の難問を解かう、と或る者はそれを信仰に求め、或る者はそれを物欲に転換して心なる不思議なものを満たさうとするが、詰まる所、正覚でもしない限り、その答へは見つかりつこない。それは死んでも尚解らないままに違ひないのだ。

 ねえ、君。そもそも心は満たされるものなのだらうか。麺麭が十二分に得られたからといつて、心はちつとも満たされる事はない。そこで手つ取り早く《他者》をひつ捕まへて《自己》を満たさうとするが、しかし、《他者》もまた満たされぬ心を持つ宿命にあるので、傍から見るとどうしても《自己》と《他者》は傷を舐め合つてゐるやうな奇妙な状態に置かれる事になる。それは《他者》に対して非礼な振舞ひだ。それは《自己》を満たすためにのみに《他者》を利用してゐるだけだからね。

――人は麺麭のみに生きるに非ず……。

 ねえ、君。君はこれをどう思ふ? 私は前にも言つたが、私は私自身をして己に喰はれる食物以下の下等な生き《もの》だと看做してゐるが、しかし、それでも今の無為な唯死を待つのみの日日を送つてゐると、やはり、

――人は麺麭のみに生きるに非ず……。

といふ難問と向き合はざるを得ない。多分、これは生に対する或る種の免罪符なのかもしれぬがね。しかし、どうあつてもこの難問には向かひ合はざるを得ないのだ。多分、それに対する答へはないだらうがね。しかしだ、人一人此の世に生きたのだ。この事実は消せない筈だ。へつ、だが、私には胸を張つて、

――俺は生きた! 

と言へやしない。どうしても言へないのだ。何故だらうね? 君には解るかい? この口惜しさが! 

 

…………

…………

 

『さうか。ブレイクはこの作品といふものを此の世に残した御蔭で今生きてゐる私は既に死んで久しいブレイクの何かに触れたやうな気にさせてくれる。有難い事だ。

等と、私は思ひながらブレイクの絵を凝視してゐたのであつた。

――人は麺麭のみに生きるに非ず。そして、人は死後も何らかの形で生を繋げる! このブレイクの作品が好例ぢやないか! これは複製だけれども、ブレイクの手によつて作り上げられた作品が今を生きる私の眼前にあつて、私はそれを鑑賞出来るぢやないか。ブレイクの詩がブレイクの死後であつても今を生きる私に読めるぢやないか! 此の世に一度《存在》してしまつたものは、何であらうがその死後もその《存在》の証を何らかの形で残す。《精神》のRelay! はつはつ』

等と思ひながら、尚も私は感慨深げにブレイクの絵を凝視するのであつた。

すると、

――ねえ、ブレイクにとつて無限つて何だつたのかしら? 

と、不意に雪が訊ねたのであつた。

――つまり、《存在》の淵源にして、つまり、究極の目標だつたんぢやないかな。つまり、ブレイクは無限を渇望せざるを得なかつた。つまり、それを宿命と名付けるんだつたならばだ、つまり、宿命としか言ひやうがない。実際のところは、僕には良く解らないんだけれどもね。

――さうね。私も実のところ良く解らないの。えへつ。でも、ブレイクの絵には魂を衝き動かす衝迫力といふのか、何か不思議な力を感じるわ。

――さうだね。

と、Memo帳から目を離し、私はブレイクの絵を凝視するのであつた。

『……何なのだらうか……。この時代をいとも簡単に飛び越えてしまふ力の源は!』

と思ひながら私はゆつくりと瞼を閉ぢるのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

 赤の他人の彼の人は相変はらず、何処とも知れぬ何処かへと向かつてゆつくりと旋回しながら虚空を飛翔してゐたのであつた。彼の人もまたブレイクと同じやうに、死んでも尚、生者の魂を衝き動かさざるを得ない何《もの》かを此の世に残して死んで逝つたのだらうか……。

――つまり、ヴアン・ゴツホもブレイクも主体が持つただならぬ狂気といふのか、つまり、表現せざるを得なかつた、つまり、魂の叫びのやうなものが全的に表現されてゐる。それと較べると、つまり、この長谷川等伯の絵はどうだね?

――う~ん、さうね、何となくだけれども無私な感じがするわ。ゴツホやブレイクとはある意味対極に位置するやうな気がするの。でも、この松林図は等伯の心象風景よね。……人間て……不思議ね。

――この絵は、つまり、徹頭徹尾等伯の主観だね。すると、ヴアン・ゴツホやブレイクと等伯の違ひは何だと思ふ? 

――う~ん、難しい質問ね。うふつ、それが解つてゐれば大学者になつてゐるわよ、うふつ。でもEgo(エゴ)と滅私の違ひぢやないかしら? いや、違ふわね……。

と言つたきり、雪は口を噤んで等伯の画を凝視するのであつた。その蛍光燈の明かりで隈どられた雪の横顔は尚更何とも言へずに美しかつたのである。

――この寂寞とした静寂さは何なのかしら……。

と雪の口から感嘆の言葉が漏れ出たのであつた。

――つまり、無常の恒常といふのかな、これは。

――無常の恒常? 面白い表現ね。さうね。この画には無常なるが故の恒常が画かれてゐるのかもしれないわね。

――つまり、こんな言葉は無いんだけれども敢へて言へば、つまり、等伯は勿論、若冲もさうなんだけれども、心鏡の画だね。

――心鏡? どういふ事? 

――つまり、字義そのまま、心の鏡といふ事だよ。

――心の鏡……ね、さうね、正に心の鏡ね。心鏡か……。

と、その時、不意に私の視界の周縁を小さな黒い影がふわりと横切つたので、私は思はず眼を上げその影の方を見ると、蛍光燈の明かりに誘はれて店内に一匹の蛾が迷ひ込んでゐたのであつた。

『飛んで火に入る夏の虫』

――ねえ、この画に見入つてゐると自分の心が映るの。不思議ね。等伯はどうしてこんな画が画けたんだらう……。不思議……。

 私は少し微笑んでから首を横に振つて、解らないといふ合図を雪に送つたのであつた。

――不思議ね……。

――ねえ、つまり、この画を見てゐると、どうあつても等伯の人生に思いを馳せざるを得ないと思はないかい? 

――さうね……、この境地に至るまでには、それはそれは言葉では言ひ尽くせない途轍もなくとんでもない人生を歩んで来たのは間違ひないわね。

――つまり、確かに等伯の人生は不幸そのものだつたね。それが、つまり、この松林図に昇華されてゐる気がする――。

――私が知る限りだけれども、確か等伯は息子は亡くしてゐるし、右手も不自由になつたし……。等伯の人生は、その画業に反して不幸そのものね……。

――でも、つまり、等伯の人生なんぞ何も知らなくても、この松林図は、つまり、何か透徹した凄味が垣間見えてしまふと思はないか? つまり、見る人の魂を串刺しにしてしまふ凄味が。つまり、この松林図を画かずにはゐられなかつた等伯の思ひは如何ばかりであつたか――。つまり、この松林図は徹頭徹尾己の為にのみに画かれてゐるやうな気がするんだ。しかし、それが無私になる。つまり、東洋的だといふ一言では片付かない何かがこの画には秘められてゐる。つまり、何と言つたら良いのか――、無我の境地、つまり、しかもそれは徹頭徹尾己に拘り続けた末に、つまり、幽かに垣間見えたかもしれない無我の境地――。つまり、何なのか、この松林図は! 

――さうね。この画は見る者の魂をぎやふんと言はせる何か迫力があるわね。無私なるが故に、見る者には敵はない何か突き詰めた思ひが迫つて来るわね。ゴツホやブレイクと違つて直截的ではないけれども、後からじわじわと迫つて来る主観なる《もの》の物凄さがこの画には宿つてしまつてゐるわね。

――つまり、生者の前に厳然と立ちはだかる巨大な壁。つまり、「どうだ、この画の前では身動ぎも出来ぬであらう!」といつた等伯の声が聞こえて来るやうだ。つまり、「さあ、この画を乗り越えられるんだつたなら乗り越えてみるんだな、へつ」というやうな等伯の声が聞こえて来さうな気がする。つまり、この画はもしかすると、現在を生きる生者にとつての《躓きの石》なんぢやないかな。つまり、敢へて言へば先達が残した作品は、それが何であらうと、つまり、それを超えようとする現代人にとつての《躓きの石》でしかないのかもしれぬ――。しかし、つまり、それらを知つてしまつた以上、つまり、現代人はそれらを超克せねば気が済まぬ宿命を負はされる。否、負はなければならない。つまり、さうぢやなければ先達に失礼だと思ふんだが、君はどう思ふ? 

――さうすると……、あなたは先づ第一に先達の作品の否定から現代人は始めろといふ事を言ひたいのかしら? 

――否、それは違ふ。つまり、先達の作品を認めた上で、それ以上のものを作り上げる努力といふのか、絶望といふ茨の道を歩まざるを得ない。つまり、人類も歴史を持つ以上、先達に負けず劣らぬ何ものかを創造する宿命を負つてゐる。

――宿命ね……。それは宿命なのかしら? 過去を超克しようなどと思はなければ、それはそれで何の事はないんぢやないの? 

――それはさうだけれども、しかし、つまり、眼前に人間の業(わざ)なる途轍もなく物凄い《もの》があつて、つまり、それに睨まれたとしたならば、その人間は尻尾を巻いて逃げて、つまり、それで仕舞ひで済むと思ふかい? 

――さあ、解らないわ。

――つまり、敗北感と屈辱の中で、つまり、人間は一生を平気で過ごせるものなのだらうか? つまり、人間といふ《存在》の業(ごふ)がそれを許すと思ふかい? 

――さうね、中にはそれで済んぢやう人間もゐると思ふけれども、何糞つとそれに立ち向かふのが多数の人間ぢやないかしら? 

――つまり、僕も君もヴアン・ゴツホに、ブレイクに、等伯に、若冲に今睨まれてゐるんだぜ。さあ、どうする? 

――うふつ。

――つまり、人間、この度し難い《存在》めが! 

――うふつ。

――つまり、時代を超えて生き延びた、つまり、人類の遺産の如き古典といふ傑作の数数を前に、怯まずにくつと前を向いて、つまり、倦まず弛まず現在を生きるのは、さて、困つた事に、つまり、如何ともし難く、度し難い状況を生きる事に等しい。つまり、堂堂巡りになつてしまふが、つまり、そもそも《存在》とは何ぞや? 

――うふつ。あなたはその《存在》をどう思ふのかしら? 

――つまり、それが良く解らないんだよ。

――うふつ、解らないから生きてゐるんでしよ? 多分生者であれば正覚者以外誰も解らない筈よ。

――つまり、それでも生者は問はずにはゐられない。そこで、つまり、この若冲の鶏の極彩色の画だ。君はどう思ふ? 

――さうね。無心の画のやうな気がするわ。

と、雪が言ふのを聞きながら私は若冲の画を凝視するのであつた。

 成程、若冲のこの鶏の画は無心の画に違ひない。しかし、この画には魂魄が宿つてしまつたやうな不気味な《存在》感が漂つてゐる。それは《存在》といふ《もの》の不気味そのものであつた。若冲はカントのいふ《物自体》にそれとは知らずに触れようとしてゐたのであらうか。この妖気すら発するこの鶏の画は、一体全体どうした事であらうか……。

――つまり、この画は、つまり、ドストエフスキイ言ふところの魂のRealism(リアリズム)だとは思はないかい? 

――さうね、魂のRealismね……。さうね、《物自体》が持つ《存在》の不気味さが漂ふ何とも表現し難い画ね。

――《物自体》の不気味さ? つまり、実は僕もさう思つてこの画を眺めてゐたんだ。やはり君もさう思ふか――。

――さう。ブレイクの「The Tyger」(「虎」)にも通じるわね。

 

「The Tyger」

Wlliam Blake著

 

Tyger Tyger. burning bright,
In the forests of the night;
What immortal hand or eye,
Could frame thy fearful symmetry?

In what distant deeps or skies.
Burnt the fire of thine eyes!
On what wings dare he aspire!
What the hand, dare sieze the fire?

And what shoulder, & what art,
Could twist the sinews of thy heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand? & what dread feet?
What the hammer? what the chain,
In what furnace was thy brain?
What the anvil? what dread grasp,
Dare its deadly terrors clasp!

When the stars threw down their spears
And water'd heaven with their tears:
Did he smile his work to see?
Did he who made the Lamb make thee?
Tyger, Tyger burning bright,
In the forests of the night:
What immortal hand or eye,
Dare frame thy fearful symmetry?

 

 

「虎」――拙訳

虎よ、虎よ、燃え上がる光輝、

その夜の森に、

如何なる不滅の手と眼が、

汝の震撼する程の均斉を創り得るのか?

 

どれ程の空空の深度若しくは高度迄。

汝の眼は燃え上がつたか? 

如何なる程の迅速さを彼は敢へて熱望するのか? 

如何なる手が、敢へてその炎を捉へるのか? 

 

更に如何なる肩が、如何なる術が、

汝の心の臓の筋肉を捩る事が出来得るのか? 

更に汝の心臓が拍動を始めた時、

如何なる恐ろしき手が? 如何なる恐ろしき足が? 

如何なる槌が? 如何なる鎖が? 

如何なる窯の中に汝の脳はあつたか? 

如何なる鉄床が? 如何なるものが? 恐ろしき程に握るのか、

その死する程の恐怖を敢へて握るのか! 

 

星星が自身の槍を投げ降ろした時

更に自身の涙で天を水浸しにした時、

彼は笑つて自身の御業を観たのか? 

子羊を創りし彼が汝を創つたのか? 

 

虎よ、虎よ、燃え上がる光輝、

その夜の森に、

如何なる不滅の手と眼が、

汝の震撼する程の均斉を創り得るのか?

 

――言ひ得て妙だ。本当にさうだね。つまり、ブレイクの「虎」だ。この異様さは――。

――でも、本来《存在》するとは異様な《もの》なんぢやないかしら。異様だからこそ何人の心を摑んで離さないのよ、《存在》は……。

――つまり、君も《存在》は異様だと思ふんだね。

――異様ぢやなくて何故《存在》は《存在》出来るのよ、うふつ。《存在》に魅せられたらもう《存在》から目が離せなくなるわね、この若冲のやうに。

――つまり、これつて特異点の不気味さなのかもしれない――。つまり、若冲の画は客体に至極執着してゐるけれども、つまり、一方で自在感も感じられる。つまり、この相反する《もの》が画として結実してゐるんだが、つまり、それを無限迄引き延ばすと、つまり、どうあつても特異点の問題になる。つまり、若冲の画から漂ふ不気味な妖気は、つまり、特異点の不気味な妖気に通じてゐる。君もさう思はないかい? 

――特異点の問題かどうかは解らないけれども、確かに若冲の画には執着と自在の二つが混在してゐるわね。これつて正に渾沌の画だわ。

――つまり、それでも《もの》だから姿形は保持してゐる。不思議だね。つまり、それは更に何処かしら滑稽ですらある。

――若冲の画は客体と主体の戯れね。どちらも捕捉出来るやうに見えて不可解極まりない。不可解極まりないから最早其処から一時も目が離せなくなる。そして、若冲はその不可解極まりない事をむしろ楽しんでゐるやうにも見えなくもない。

――つまり、それは特異点の罠さ。つまり、若冲は直感的に特異点の不思議を感じ取つてしまつたんぢやないかな。つまり、《存在》の不思議に魅せられてしまつた。そして、其処から一生抜け出せなくなつてしまつた。つまり、絵画三昧の人生だ。

――それにしても若冲の画にはどう見ても厳格なる創造主はゐないわね……。

――等伯の画にもね。

私は若冲の画を凝視しながら、

――神は細部に宿る……。

等と思ひながら、鶏を写生すればする程、当の鶏なる《存在》はあつかんべえをして若冲の筆先から逃げ果(おほ)せてしまふ《存在》に対する屈辱といふのか無力感といふのか、追つても追つても逃げ果せる《存在》といふ如何とも度し難い《もの》を、それでも追はずにはゐられない人間の業の哀しさが若冲の画には漂つてゐるやうにも思へるのであつた。

――つまり、絶対的な縦関係と、つまり、相対的な横関係の違ひだね。

――えつ、何? さうか、絶対的と相対的な神関係か……。ゴツホとブレイクにとつては神は絶対的な《存在》であるといふ事が基本としてある世界認識上での絵で、等伯若冲は神《存在》は主体と相対的にしか《存在》しない世界認識の結果、こんな画が画けたのかもしれないわね……。

――つまり、等伯若冲の画にも、つまり、神、若しくは仏は《存在》してゐると思ふかい? 

――う~ん、神仏習合等伯にも若冲にも当て嵌まるんだつたならば、当然等伯にも若冲にも神仏は《存在》してゐた筈よ。特に若冲の画は鶏といふ名の神的な《存在》と戯れてゐる感じがするわ。

――鶏といふ神的な《存在》と戯れてゐるか――。でも、実際のところ、つまり、本当にさうだつたのだらうか? つまり、神との戯れでこんな奇想天外な画が画けると思ふかい? 

――さうね、戯れはおかしいわね。格闘ね。若冲は鶏といふ神的な《存在》と傲岸不遜にも徹底的に格闘してゐたのね……。

――そして、つまり、己とも格闘してゐた。つまり、等伯若冲も己とも格闘してゐたに違ひない。つまり、さうぢやなきやこんな画が画ける訳がないよ。つまり、等伯若冲の画からは、つまり、森羅万象に数多の神が宿つてゐる、つまり、根本思想のやうなものが滲み出てゐるやうな気がする。つまり、何処にでも神や仏は《存在》してゐる。つまり、勿論、己の中にもね。つまり、等伯若冲もヴアン・ゴツホやブレイクと同じやうに、つまり、絶えず神とは仏とは何ぞやと問ひ続けてゐたに違ひない。しかし、つまり、ヴアン・ゴツホやブレイクとは、つまり、根本的に世界認識の仕方が違つてゐる為に、これ程凄い画が画けたやうな気がするんだが、君はどう思ふ? 

――でも、ゴツホやブレイクと何処かでは繋がつてゐると思ふの、等伯若冲も……。それぢやなきやゴツホが浮世絵に魅かれる筈はないわ。それにブレイクも絵と文字が混在した東洋的な画風で絵を描きつこないもの。きつと彼等にも共通する普遍的なものは《存在》してゐたと思ふの。

――つまり、それでもヴアン・ゴツホやブレイクの作品から受ける印象と、つまり、等伯若冲から受ける印象が全く違つてゐるのは何故だい? 

――さうね、やつぱり絶対的な神関係と相対的な神関係の違ひぢやないかしら? 

――でも、つまり、四人ともに神、若しくは仏は《存在》してゐるね。つまり、それが共通点、つまり、普遍的な《もの》なんぢやないかな。

――さう! そうね。絶対的と相対的といふ違ひはあるけれども、四人ともに神または仏が世界に《存在》してゐた……。そして、その神ある世界に魅せられた故に絵を描かざるを得なくなつてしまつたんだわ。つまり、如何ともし難い《存在》に魅入られてしまつたんだわ。何としても自分の手でこの世界といふ何とも不可思議な《存在》が数多《存在》してしまふこの世界といふものを一度握り潰して、そして世界を再創造し直してみたかつたんぢやないかしら。其処には神への対抗心もきつとあつた筈よ。しかし、さすがは神ね。ゴツホもブレイクも等伯若冲も簡単に一捻りされてしまつて、神、若しくは仏性はその素顔を決して見せる事はなかつたのね。それでも彼等はこの如何ともし難い世界と格闘せずにはゐられなかつた。それは哀しい人間の業ね。

――つまり、きつと彼等は絵を描く事で、つまり、自在感なるもののその片鱗を、つまり、一度は味はつてしまつたやうな気がする。つまり、この自在感なるものが曲者で、つまり、世界を思ひのままに描く事が出来る愉悦、つまり、絵を描く事即ち世界の創造に、つまり、無謀にも自在感なるものを味はつてしまつた事で挑まざるを得なくなつてしまつた。つまり、其処には《存在》に対する恐怖なるものも必ず《存在》してゐて、つまり、頼れるのは己の技量のみ。そこでだ、つまり、彼等は神、若しくは仏性ある世界に一度は大敗北を喫する。其処では、つまり、自在感が徒となる。つまり、それは底無しの陥穽だ。どう足掻いても、つまり、その底無しの《存在》といふ陥穽から抜け出せない。さうすると、つまり、己を全的に世界にぶつけてみるしかない。つまり、其処でますます世界に対峙するべく、つまり、己の絵の世界に没頭して行く事になる。つまり、其処は無明の闇さ。つまり、試行錯誤を何度も何度も繰り返して、つまり、世界といふ不可思議な《存在》を吾が《もの》にしようともがき苦しむ事になる。つまり、それでも世界は知らん顔だ。つまり、神も仏も一度たりともその素顔を明かさない。つまり、それでもこの手で世界といふ不可思議な《存在》を、つまり、一度握り潰して再創造してみたくて仕様がない。困つたものだね、人間の業といふのは――。

――うふつ、どん詰まりのところでは結局、自身はあなたの言ふ鏡、世界を映す鏡になるしかなかつたのね。つまり、心鏡ね。どう人間が足掻いても世界はその断片しか見せてくれない。つくづく人間《存在》つて哀れな《存在》ね……。

――つまり、絵を描く事に没頭するといふ、つまり、飽く事なき《存在》の探究、つまり、それは世界との対話と言つても良いのだが、つまり、心鏡に映る世界は、果たしてその素顔の片鱗でも垣間見せたのだらうか? つまり、《物自体》はその尻尾を見せたのだらうか? 

――さうね、きつと最後迄見せる事はなかつたでしようね。

――そこでだ、つまり、パスカル風に言つて此の世が《無》と《無限》の中間だとすると、つまり、例へば若冲は鶏の画を画く事で、つまり、《無》と《無限》の両極端を認識してしまつたんぢやないかな。つまり、認識と迄は言はなくてもぼんやりにでも、つまり、《無》と《無限》を垣間見てしまつた――。それぢやないとこんな鶏の画なんぞ画けつこないぢやないかと思ふんだけれども、君はどう思ふ? 

――さうね……。あなたのいふ特異点の問題の事ね。

――さう。つまり、詰まるところ特異点の問題だ。つまり、この度し難い特異点と対峙してしまつた時、つまり、画家はたじろぎ怯むが、つまり、それでも眼前の《存在》を逃がさぬやうにぢつと目を据ゑ世界を凝視する。つまり、この端倪すべからざる世界を。つまり、対象を凝視するしか術がないんだ。つまり、その時《存在》は、つまり、《無》と《無限》との間を大振幅して画家を嘲笑つてゐるに違ひない。つまり、揺れる《存在》――。つまり、《無》と《無限》の間を《存在》は自由に揺れる。つまり、画家たるものそれを睥睨して、つまり、世界を描き始めなければならない。つまり、この時の苦悩は底知れぬ苦悩に違ひない筈だ。つまり、若冲の鶏でいふと、若冲は鶏に神を、仏を、宇宙を見てしまつた。つまり、神を、仏を、宇宙を画く事の恐ろしさと言つたらありやしない。つまり、それでも敢然とそれに対峙して、つまり、若冲は鶏を画かざるを得なかつた。つまり、これは何なんだらうね? 

――宇宙を見るか……。本当に何なのかしら? 人をして画を、それもとんでもない画を画かせるその原動力は……。

――つまり、現代と違つて、彼等にはそれぞれ現代宇宙論では収拾のつかない、つまり、個性的なと言ふのか独創的なと言ふのか、つまり、解らないけれども、つまり、何とも奇妙な宇宙が彼らの内界には育まれてゐた筈だが、つまり、それ故彼等は知識に邪魔されない《生(なま)》の世界《存在》に出会つてゐる筈だ。つまり、それはそれは面白かつたんぢやないだらうか。

――《生(なま)》の《存在》ではないでしよう? 彼等にも神や仏の知識は《存在》してゐた訳だから。唯、科学的な知識は遠く現代人には及ばなかつたけれども、それが幸ひして科学的な知識が邪魔しなかつたのは確かね。それはむしろ幸福だつたのかもしれないわね。

――さう、其処なんだ。つまり、心鏡は科学的知識に集約される必要があるのだらうか? つまり、本来、非科学的な事の中にこそ真実なるものは隠されてゐるんぢやないかな。それを心鏡は映す。

――でも、非科学的な世界は渾沌の世界よ。

――つまり、それで良いんぢやないかと思ふんだが、つまり、渾沌の中からしか新世界の再創造はあり得ない。

――陰陽魚太極図ね、うふつ。

――さう、つまり、彼等は太極の状態を、つまり、《生(なま)》の世界《存在》を見てしまつたんぢやないかな。つまり、其処から《生(なま)》の世界なり《存在》なりがぬつと顔を突き出したんだ。しかし、それは一瞬の事で、つまり、その後は一度たりとも顔は現さない。しかし、つまり、一度でも《生(なま)》の《存在》を見てしまつた以上、つまり、それを探求せずにはゐられなかつた。

――それつて探求なのかしら? ただ単にその《生(なま)》の世界なり《存在》なりを捕まへたいといふ人間の業でしかないんぢやないかしら。

といふ雪の言葉を聞くと、私はゆつくりと瞼を閉ぢたのであつた。

――――ううううああああああああ~~。。

 赤の他人の彼の人は相変はらず音為らざる音を発しながら、瞼裡の虚空の何処とも知れぬ何処かへとゆつくりと旋回しながら飛翔を続けてゐたのであつた。

『……画を画く事は渾沌に秩序を与へる行為に違ひない……しかし……私が《存在》してゐなくても世界は《存在》する……《存在》してしまふのだ!』

等と私は思考を巡らせたのであつた。そして、私は雪に解らないと首を横に軽く振つてにやりと笑ひ、おどけて見せるのであつた。

――さうね、解らないわね、うふつ。

――つまり、度し難い己の《存在》に対する処し方が画家の絵にも反映される。つまり、心鏡だ。

――さうね。さうぢやないと画家の作品は時代を超えて残らないわね。何処迄この度し難い《存在》に肉薄したか、それが画を見るものの魂を揺さぶるに違ひないわ。

――さう、つまり、度し難い《存在》への肉薄だ。つまり、特異点への肉薄さ。つまり、《無》と《無限》の狭間で発散しようと隙をうかがつてゐる《存在》といふ特異点は、つまり、それでも無理矢理収束状態に一見馴致されてゐるやうに見えるが、しかし、《存在》といふものはそれで済まない。つまり、狂気とも言へる情熱は如何ともし難い。それに狂気がなければ画など画けない筈だ。つまり、《生(なま)》の《存在》に対峙してしまつたんだからね。つまり、狂気のみが《存在》を馴致する。

――狂気か……。狂気をもつてしか《存在》には対せないのかもしれないわね。

――つまり、狂気をもつてしか《生(なま)》の《存在》には対峙出来ない。つまり、狂気なくして《無》と《無限》を見渡す事は不可能だ。つまり、《無》と《無限》を見渡さない限り、画家は一枚も画を画けない。つまり、さうしないと《存在》が姿形あるものに収束しないからね。

――でも……それつて狂気なのかしら? 私には人間誰しも持つてゐる業にしか思へないのよ。《無》と《無限》を見渡す不可能性へ対する人間の業。不可能なるが故に何としても成し遂げたい渇仰。だつて人間誰しも《無》と《無限》の間に《存在》させられてゐるのよ。あらゆる《存在》物が姿形を持つて《存在》させられてゐるのよ。哀しいけれどもね。

――其処なんだよ。つまり、《存在》は《存在》に我慢してゐるのだらうか? 

――さうね。多分、どんな《存在》も《存在》に我慢してゐる筈よ。さうぢやなきや変容は生じないわ。

――変容――。つまり、《存在》は常に別の何かに変容したがつてゐる。つまり、君の言ふ事はさういふ事かい? 

――う~ん、どうかな。例へば、諸行無常と恒常不変の狭間で《存在》はもがき苦悩してゐる。さうとしか思へないのよ。

――不思議なものだね。つまり、《存在》は諦念として諸行無常を或る意味受け容れてゐるが、つまり、それでも或る意味《存在》は諸行無常には我慢がならぬ。つまり、外的要因で《存在》を変容させられる事を、つまり、何故か忌み嫌つてゐる。しかし、つまり、人間《存在》がどう足掻いても此の世は諸行無常だ。つまり、これは如何ともし難い。つまり、だから、《存在》は渋渋ながらも諸行無常に我慢してゐる。つまり、かといつて恒常不変を心から望んでゐるかといふと、つまり、望んではゐるけれども、つまり、本心ではこれまた忌み嫌つてゐるとしか思へない。つまり、現状のまま恒常不変にでもなつたなら、つまり、此の世の終はりでとんでもないと感じてゐる。とはいへ、《存在》は恒常不変なるものに或る種の憧れさへ抱いてゐる。つまり、をかしなもんだね、《存在》といふこの我儘極まりない《存在》は! つまり、正覚者でない限り変な慾のやうなものを、つまり、人間《存在》は抱いてゐるから始末に負へない。つまり、その変な慾といふものを一言でいふと、つまり、不可能事を此の世で成し遂げるといふ、どうしようもない高望みの事だ。

――さう、不可能事なのよ! 何をおいても不可能事が第一なのよ! 《存在》した以上、不可能な事にばかり目が行くのよ。どうしてかしらね……。

――つまり、それは自由の問題と絡んでゐるんぢやないかな。

――さうね、自由の問題ね。そもそも自由が不可能事を望んでゐるのよ。自己実現出来てしまふ至極簡単な自由では我慢が出来ないのね、人間といふ《存在》は。欲張りね! 

――欲張りかもしれないけれども、つまり、しかし、不可能事に目が行かない《存在》といふのもどうかしてゐるぜ。つまり、現状に満足してゐたならば、つまり、其処に新たなものは何も生まれやしない。つまり、ヴアン・ゴツホにしろブレイクにしろ等伯にしろ若冲にしろ、現状に満足してゐたならば、つまり、これつぽつちも絵なんぞ描きやしないし、況してブレイクは詩なんぞ書きやしなかつた。つまり、其処には自由もへつたくれもありやしない。つまり、其処には不可能を可能にするべく、つまり、悪戦苦闘の軌跡しか残つてゐない。つまり、諸行無常に抗ふ諸行無常と言つたらよいのか、つまり、不可能への絶えざる肉薄を諸行無常といふならば、つまり、諸行無常から恒常不変な創造物が生まれる。つまり、諸行無常なくして恒常不変は無いんぢやないかといふ気がする。

――さうね。でも其処には絶えざる諸行無常への抗ひがあるのね。ああ、難しい! 

と、ここで雪が呻いたので私は軽く微笑まざるを得なかつたのであつた。

――つまり、一方で断念といふものもある。

――断念ね……。

――つまり、断念する自由。

――断念も自由か……。

――つまり、何かを選べば何かを断念せざるを得ない。

――さうよね。何かを選べば何かを断念せざるを得ない。

――つまり、断念するのにも身命を賭して断念する。つまり、さうでないと時代を超越する創作など出来やしない。つまり、君は身命を賭した選択といふものをした事があるかい? 

――う~ん、あると言へばあるし、ないと言へばないとしか言へないわね。西洋哲学を専攻したのは或る意味身命を賭した選択だつた筈なんだけれども、今は東洋思想にのめり込んでゐるこのざまだわ。

――つまり、それは学びの途中だからだよ。つまり、何かを創作するには、つまり、身命を賭して別の何かを断念する外ない。つまり、例へば、それは現世利益だつたりするけれどもね。そのための途中の学びは取捨選択の自由の外にも全てが自由さ。何を学んだつて構ひやしない。つまり、君もその時期が来たならば、つまり、何かを断念して何かを身命を賭して選択する時が必ず来る筈さ。つまり、身命を賭して何かを選択しなければならない、つまり、のつぴきならぬ時期が必ず来る。

――……。

――つまり、君も真剣に生きてゐるからね。

――うふつ、有難う。

――それにしても、つまり、諸行無常は如何ともし難い宿命だと思はないかい? 

――宿命ね……。

――僕は、つまり、主体は各各《個時空》、つまり、《個時空》は渦巻いてゐるものなんだが、その《個時空》を生きてゐると考へてゐるんだが……。

――《個時空》? 《個時空》つて何?

――簡単に言へば、つまり、《主体場》の事さ。

――《主体場》? 

――さう。つまり、主体が置かれてゐる此の世の時空間は流れ移ろふものだらう? 

――さうね、時は流れるとか時は移ろふとか言ふものね。

――つまり、流れあるところには、つまり、必ずカルマン渦が発生する筈だと僕は看做してゐる。

――カルマン渦? カルマン渦つて? 

――つまり、カルマンといふ人が発見したんだが、つまり、自然界で発生する渦全般の事だよ。つまり、台風がその一例だね。

――川面に生じる渦の事? 

――さう。つまり、例へば、川の流れが大いなる時間の流れだとすると、つまり、其処に生じたカルマン渦の一つ一つが主体の《個時空》と看做せる。

――カルマン渦が《個時空》? まだピンとこないわね、うふつ。

――つまり、君も物理学の初等は解るよね。つまり、距離が時間に、時間が距離に変換出来る事を。

――ええ、解るわ。

――そして、つまり、主体と距離が生じるといふ事は、つまり、それは主体から見ると過去に過ぎないといふ事も解るよね。

――ええ、夜空の星辰が何億年もの過去の姿だといふ事なら知つてゐるわ。それと同じ事ね。

――さう。つまり、主体と距離が生じる事は、つまり、主体が現在だと看做しちまへば、つまり、外界は全て過去といふ事になる。その過去の、つまり、距離の拡がり方は主体を中心とした渦時空間を形成する事になる。

――主体が現在とはどういふ事かしら? 

――つまり、《個時空》またはそれは《主体場》と呼んでもいいんだが、つまり、《個時空》の中心といふ事さ。つまり、主体は主体から距離が零だから、主体は現在といふだけの事さ。

――つまり、主体から主体は距離が無いから物理学的に言つて唯の現在という事なのかしら? 

――つまり、《固有時》といふ考へ方は解るかい? 

――《固有時》? 

――つまり、僕と君はそれぞれ違つた時間の流れ方をする時計を持つてゐるといふ考へ方は解るかな? 

――相対的といふ事ね。時間の流れは全ての主体にとつて同一ではなくて各各固有の時間が流れてゐるといふ、ええつと、相対論だつたかしら、アインシユタインの相対論の考へ方ね。さうでしよ。

――さう。つまり、時間は相対的にしか《存在》しない。つまり、主体各人が各各固有の時間、つまり、《固有時》を持つてゐるといふ事さ。そこで、つまり、主体は主体から距離が零だから主体各各は全て固有の現在に《存在》する。もつと正確に言ふと、主体の現在は主体の表皮のみ、つまり、それをずばりと言つてのけた表現で言へば仏教用語でもある《皮袋》であつて、更に言へば主体の内部は主体から、つまり、距離が負故に、つまり、時間が逆巻く故に、つまり、其処は主体の未来になる。

――主体内部は負の時間、さうねえ、かうかしら、時間が逆回転して進むやうにしての未来といふ事かしら? 

――さう。つまり、主体内部は主体自体から距離が負だから唯単に計算上未来といふ事になる。そして、主体《存在》が有限且主体《存在》の内部に中心があるといふ事は、つまり、主体の死を暗示してゐる。つまり、《存在》物は内部を持つ事で、つまり、自らの死を内包した《存在》としてしか此の世に《存在》出来ない。つまり、この考へ方を総じて僕は《個時空》と名付けてゐる。

――すると、あなたにとつて私はあなたの過去の世界に《存在》してゐるといふ事? 

――さう。君は僕にとつて過去の世界に《存在》してゐる。しかし、つまり、君と僕との距離が、相対論で見ると、つまり、無視出来る程に小さいのでお互ひに全く同一の現在にゐるやうに看做せてしまふけれども、相対論は光速度が基本になつてゐるから、つまり、理論物理の世界では、つまり、 僕と君の距離は、つまり、光速度においては無視出来るかもしれないけれども、しかし、つまり、僕も君も光速度では動かない、つまり、理論物理では無視出来ても、現実では無視しちやならない、つまり、僕と君との間に横たはる距離、つまり、正確にいへば僕の《個時空》では君は過去に《存在》してゐる。

――すると、私からするとあなたは私の過去に《存在》してゐるといふ事ね。何となくだけれども、あなたのいふ《個時空》または《主体場》といふ考へ方が解つたやうな気がするけれども、まだまだピンとこないわね、うふつ。

――つまり、それでいいんだよ。つまり、《個時空》といふ考へ方は僕特有の考へでしかなく、つまり、一般化なんかされてゐないんだもの。つまり、誰も現在が主体の表皮、つまり、《皮袋》でしかなく、しかも有限的に《存在》するといふ事は未来の死を内包してしまつた宿命にあるなんて考へないもの。

――さうねえ。あなた独特の考へ方ね。その《個時空》といふ考へ方は……。

と、雪が言つたので私は軽く微笑みながら頷くのであつた。

――そこでだ。つまり、此の世に《存在》してしまつた以上、誰も時間を止める事は出来ず、また、時間から遁れられない。つまり、諸行無常だ。つまり、僕はこの諸行無常こそ《個時空》の宿命だと看做してゐる。

――宿命か……。

――つまり、大いなる時の流れの上に生じた、つまり、主体といふカルマン渦の《個時空》は、つまり、大いなる時の流れから見ればほんの束の間しか《存在》出来ない。人間で言へば高高百年位なものだ。

――あなたの言ふ大いなる時の流れつて宇宙大の悠久の時で見た時の時間の流れつて事かしら? 

――さう。つまり、主体といふ《個時空》は、つまり、大いなる悠久の時の流れの上に生じた、つまり、小さな小さな小さなカルマン渦に過ぎない。つまり、その生滅は主体にとつては如何ともし難い。つまり、《個時空》の考へ方からすると大いなる悠久の時の流れの上に《個時空》といふカルマン渦が生じた時点で、つまり、そのカルマン渦の寿命は既に決定されてしまつてゐるに違ひないと思ふ。つまり、僕は決定論者ではないけれども、《個時空》は必ず死滅する。

――何か虚しいわね。

――さうだね。しかし、この虚しさは、つまり、受容する外ない。つまり、僕は宇宙すら死滅する宿命を負つてゐると看做してゐる。つまり、どんな《個時空》も死滅するといふ宿命からは遁れられない。

――だから、死滅する宿命に抗ふやうにして《存在》は不可能事たる恒常不変なるものを欣求するのよ。

――さうかもしれない。しかし、つまり、《個時空》が負ふ諸行無常は如何ともし難い。つまり、断念する事から何事も始まるんぢやないかな、恒常不変も。

――また断念ね……。

――つまり、僕は物事を単純化する事は嫌ひだから単純化する気はないんだけれども、つまり、何事も按配ぢやないかな、つまり、主体の自由度は。つまり、大いなる悠久の時の流れを重要視すればそれは信仰生活に近い生活になるし、カルマン渦の小さく小さく小さく渦巻くその渦を重要視すればそれは主体絶対主義ともいふべき、つまり、何とも摩訶不思議な生活になると思ふ。

――按配なのかしらね……、人生といふものは。

――つまり、やつぱり、其処には断念が厳然と《存在》する。つまり、誰しも己の《存在》に対して、例へば他の人生は選べないなど、断念した上で、例へば自由などと言つてゐるに違ひない。つまり、死の受容だ。つまり、己を死すべき宿命を負つた《存在》として、つまり、己を受容する外ない。それでも人間は日一日と生き長らへる。つまり、死すべき宿命にありながら、否、むしろ死すべき《存在》だから、つまり、尚更日一日と精一杯生きる。つまり、ここにはある断念が厳然としてあるに違ひない。

――諸行無常ね。人間は諸行無常を受容しつつも、それに一見抗ふやうにして生きてゐる、否、生きざるを得ない。つまり、其処に断念があるとあなたはいふのね……。

――つまり、断念すればこそ、人間は時代を簡単に飛び越える、例へばこのヴアン・ゴツホやブレイクや等伯若冲のやうな創作物を作り果せる《存在》へと変容する。つまり、しかもそれはちやんと諸行無常の相の上に《存在》してゐる。つまり、これはそれだけで凄い事だよ。

と、その時、それ迄蛍光燈の周りをひらひらと舞つてゐた一匹の蛾が雪の目の前を通り過ぎ、私の眼前の本棚の画集にとまつたのであつた。

――きやつ、何? 

 それはやや灰色つぽい色を帯びた地味な配色の蛾であつた。

――何だ、蛾ぢやない……。

 私は雪がその手で蛾を追い払ふのを制止し、暫くその蛾を凝視するのであつた。その蛾は地味な配色ながらも誠に誠に愛らしい姿をしてゐた。私は無類の虫好きなので、虫であれば何でも凝視せずにはゐられなかつたのであつた。私は虫こそ此の世の《存在》物の中でも傑作の部類に入る《存在》物と看做してゐたのである。卵、幼虫、蛹、そして成虫と完全変態を行ふ蛾は、正に此の世が生んだ傑作の一つに違ひなかつた。この二つの複眼で、蛾の方も私を凝視してゐたに違ひなかつた。さて、蛾にとつて私はどんな姿をした《存在》物として見えてゐるのであらうか。蛍光燈の明かりの下なので、多分、渦巻く奇怪な《存在》物として蛾には私が見えてゐたのかもしれなかつたが、それが解る術は全くなかつたのである。蛾の複眼は自然の眼の一つに違ひなかつた。吾吾が自然を見るやうに自然もまたその眼をかつと見開いて吾吾を凝視してゐるといふ感覚が、幼少時から私に付き纏ひ、決して離れる事のない感覚として感じられて仕方がなかつたのであつた。

 私は蛾の複眼を凝視するのであつた。

 暫くすると私はどうしても蛾に手を差し出して蛾を掌に乗せたくて仕様がなくなつたので、そつと手を差し出すと、蛾は安心しきつてゐたのか全く逃げる素振りを見せずにすんなりと私の掌の上に乗つたのであつた。

――相当の虫好きなのね、うふつ。

と、雪が微笑みながら言つたので、私も軽く微笑んで頷いたのであつた。

 それにしても掌の蛾は美しかつた。そして、その軽さと言つたらこれ以上はありやしない程、それは計算し尽くされた軽さに違ひなかつた。蛾を蔽つてゐる細い小さな毛は、気持ちが良い程繊細であつた。私は掌の蛾をまじまじと暫く眺めた後は、その古本屋の戸口へ向かつて歩き出し、蛾を外に放してやつたのである。

――本当に虫が好きなのね、うふつ。

と、雪が言つたので私は再び軽く微笑んで頷くのであつた。

 若冲も、私が蛾を見たやうに鶏を始め森羅万象をまじまじと見てゐたのかもしれなかつた。多分、穴の開く程凝視してゐたに違ひない。それぢやなきや、こんなべらぼうな画なんか画きつこない筈である。

 私は雪に「行かう」と合図を送り、眼前に拡げられたヴアン・ゴツホとブレイクと等伯若冲の画集を片付け、その中でブレイクの画集をその古本屋で買つたのであつた。

 その古本屋の戸口で待つてゐた雪の肩を私はぽんと叩くと、そのまま歩を進めたのであつた。

――あつ、待つて、もう。

と、雪は再びその左手で私の右手首を優しくだがしつかりと握つて、再び二人相並んで都会の雑踏の中へと歩き出したのであつた。相変はらず、柔らかい白色の光を帯びた満月は東の空に浮かんでゐた。月の出の頃のあの毒毒しい赤色はすつかり姿を消し、満月は柔和そのものであつた。

 人いきれ。学生や会社帰りの会社員等に交じつて、私達もまたその人波の中に紛れ込んだのであつた。相変はらず雪との間には何の会話もなかつたが、それはそれで心地良いものであつた。

 と、不意にまた一つ、私の視界の周縁に光雲が現れたのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁をゆつくりと時計回りに巡り、不意に私の視界の中に消えたのであつた。当然ながら伏目で歩いてゐた私は不図面を上げ、満月にぢつと見入るのであつた。白色の淡い光を放つてゐる東の空の満月は相変はらず柔和で何やら私に微笑みかけてゐるやうであつた。

 私は再び伏目となつて、暫くは人波の中を歩き続けたのであつた。さうかうするうちに目的の喫茶店の前に着いたのである。私は雪をその喫茶店の前に連れ出すと、徐にその喫茶店の扉を開け、皆が待つてゐる店内へと歩を踏み出したのであつた。

 

第一章完

夢幻(むげん)空(くう)花(げ)

埴谷雄高f:id:hiro_225:20211022033307p:plain

夢幻(むげん)空(くう)花(げ)



なんだかんだであれやこれやと思ひ悩みながらの十年以上の思索の結果、埴谷雄高の虚体では存在の尻尾すら捕まへられぬといふ結論に思ひ至った闇尾(やみを)超(まさる)は、それではオイラーの公式から導かれる虚数iのi乗が実数になるといふことを手がかりに虚体をも呑み込む何か新たな存在論が出来ぬかと思案しつつ、それを例へば虚体は存在に至るべく完全変態する昆虫の生態を模して存在の蛹のやうなものと強引に看做してしまって、闇尾超はその存在の蛹から虚体に代はり存在が完全変態して何か全く新しい何かに変態すると考へ、また、一方で、虚体の仄かにその実在を暗示する、例えば虚体がBlack(ブラック) hole(ホール)の如く外部から漆黒の闇としてしか見えぬながら、其処は物質で充溢してゐる、もっといってしまへばBlack holeの内部は光に満ち溢れた眩しさに眩暈のする世界で、将又、Black holeが存在するといふことがBlack holeを取り巻く高速回転し強烈に輝き、色色な電磁波を発しながら崩壊し行く星たちの様から暗示されるのと同じやうに、虚体は詰まる所、実体が光を放たんばかりに充溢しているものの杳として直接にはその形相が見えぬその有様などをも鑑みて闇尾超は虚体に代はる存在の完全変態する全く新しい存在の有様を杳体(ようたい)と呼び、それをして杳体御大と綽名されるに至った闇尾超は、埴谷雄高と奇妙な縁で結ばれてゐたのか埴谷雄高が名付けたところの所謂”黙狂”であった。何故、闇尾超が黙狂になったのかは正確なところよく解らなかったが、風の噂によると闇尾超が黙狂になったのは闇尾超が黙考に黙考を重ねてゐるうちに精神疾患に罹り彼の脳と声帯との神経回路が断裂してしまって発話は渾沌を極め、話し方そのものを忘却してしまったからと言はれてゐた。闇尾超はRehabilitation(リハビリテイション)を勧められたがそれらは一切拒否したといふ。しかし、闇尾超の言語野は破壊されたわけではないので、闇尾超は何時もSmartphone(スマートフォン)を携帯してゐて、他人とのやり取りはそのSmartphoneを使って行ってゐたので、闇尾超は黙狂であっても何の不自由も感じてゐなかったやうだ。 その闇尾超は、しかし、極度の自虐の虜になってゐたと言われてゐて、彼は絶えず、 ――お前自身を、お前の手で徹底的に弾劾せよ。お前の存在をお前は決して許すまじ。はっ、お前の手でお前を抹殺せよ。さうしてお前は口から手を突っ込んでお前の胃袋を引っ摑んで胃袋の内部を外部に引っ張り出して島尾敏雄の『夢の中の日常』のやうに体軀を裏返し、さうして首を刎ねて晒し首にせよ。その滑稽さがお前の本質だ。  と、闇尾超は己を針の筵の上に座らせては自問自答の罠に嵌まってしまってゐたらしかった。つまり、それは闇尾超は己の存在そのものを嫌悪してゐて、彼は死すまで闇尾超といふ存在を認めやうとはしなかったらしい。何故、闇尾超はそのやうな自虐の土壺に嵌まってしまったのかといふと、どうやら闇尾超は存在といふことに対しての全転覆、つまり、それはかうともいへ、あはよくば、宇宙に対して闇尾超といふ存在を賭して宇宙が闇尾超を認識した時にぎょっとする如くに宇宙に一泡吹かせることに取り憑かれてゐたとのことである。それは余りに馬鹿げたことであり、そもそもそんなことなど不可能なのであった。だが、闇尾超にとってそれは生あるうちにどうしても成し遂げるべき、または、闇尾超といふ存在の宿痾の如きものとして闇尾超には取り憑かれてしまったのだった。それは闇尾超が強烈に埴谷雄高の影響下にあり、「不可能性の作家」に心酔してしまったためだったのかもしれぬ。闇尾超は現代は不可能性を恰も可能であるかのやうに論理をでっち上げる時代であり、不可能なものをいかに可能のやうに見せられるかの化かし合ひの時代だと思ってゐたのは確かであった。  しかし、今はもう闇尾超は此の世にはゐない。疾うの昔に精神錯乱の上に病死し、夭折してしまったのであった。それも風の噂で知ったのであるが、闇尾超の死を知ってからといふもの私の頭からそのことは一時も離れることはなかった。それは何故なのだらうか。それは私の何処かに闇尾超に共鳴するところがあって、闇尾超に先を越されたといふ羨望とも嫉妬ともいへぬ何か私の心のどす黒い部分を闇尾超の死が撫でさすって呼び起こし、それがむくっと頭を擡げてその存在を私に突き付けるからなのかもしれぬ。 これまで私は物を書かうとしても、どうしても書けず仕舞ひに終はってしまってゐたのであるが、それでも新しい表現方法を見出せぬ私は、従前からある物語の既に使ひ古されぼろぼろになった表現におんぶに抱っこで、しかし、それでもいいので闇尾超の生の断片を思考実験の上で再構築したかったのであった。しかし、残念ながらそれが近代小説というものだ。さう開き直ってみたどころで、それでもそれは己が恥辱まみれで物語を書くことが恥ずかしいかったのもまた、事実なのである。そして、私は己の存在に対しても恥ずかしいからこれから書かれる思索の断片集に関して言い訳めいたことを書いて何とか己の恥辱を宥め賺してゐるのだ。さうせずば断片集なんぞ私には書けぬのだ。物を書くといふことは恥辱である。それでも闇尾超については書かれるべきなのだ。それは何故かと自身に問へば、詰まる所、存在に行き詰まった存在がどのやうにしてそれでも生を繋いでゐたのかを私自身が詳らかにしたかったからに外ならない。だが、物語は結局書けず仕舞ひで、闇尾超の思索の断片に応答する形での断片集しか書けなかった。  然し乍ら、この断片集はいふなればどうでもいい作品で、唯単に私の自己満足のためのものに過ぎぬのである。独り善がりの、読み手など全く意識せずに、只管自己満足のために書き継がれた断片集がこの作品である。つまり、私以外の読み手にとっては退屈極まりない代物なのである。それでも読みたいといふ人のみ読んで貰ひたい。多分、そんな人はゐないと思ふが。  私が、闇尾超を思ふ時、それは今も闇尾超の霊が此の世を彷徨ってゐて、宇宙背景輻射の如く宇宙創成時のBig(ビッグ) bang(バン)の名残として存在するやうに闇尾超の霊は確かに闇尾超の生の残滓として存在し、闇尾超は霊となってでも宇宙転覆の欣求を成就するために只管に此の世を跋扈しながら、また、深い深い思索の中に沈んだまま、黙狂者として彷徨ってゐるやうに思へてならないのだ。闇尾超は彼自身受け容れ難い己が存在に対して、若しくはそれ自体認め難い此の宇宙に対して一矢報ひたのであらうか。それはこれから語られる断片集で私なりの思索の結論らしきものを綴りたいと思ふ。
一、 此の世界の中で
 晩夏の高い蒼穹の下、私はまだ、夏の暑気がたっぷりと残った陽射しを浴び、碧い碧い蒼穹を見上げる。そこには白い月がまだ昇ってゐて、白い月は晩夏の遠い地平線に鬱勃と湧き立つ入道雲を見下ろしてゐた。地は陽射しで温められ、さうして自然の摂理として生まれる上昇気流が地面に心地よい風を吹かせ、私はその風に身を委ね、宮崎駿監督の初めての監督作品「未来少年コナン」の最終回に主人公の一人の少女ラナがアジサシとともに意識が飛翔するやうになんだかあの碧い蒼穹を飛翔してゐるやうな奇妙な感覚に囚はれる。その心地よさはいくら高所恐怖症の私でも気持ちがいいものであった。この自在感は、意識のみだから為せる業で、肉体は相も変はらず地面に佇立したままである。それでは意識は、肉体と違って自在を獲得したかといへば、決してそんなことはなく、唯の戯れに意識は飛翔して見せただけで、それは「未来少年コナン」といふAnimation(アニメーション)が見せたImage(イメージ)をなぞってゐるに過ぎぬのであった。つまり、それは私の手抜きともいへるのだ。他者が作ったImageに無断で乗っかってゐるだけで、其処には何の創造性もないからだ。だから、私は返って心地よかったに違ひない。何の負荷も私自身の思考にかけずに他者から借りたImageにただ乗りするだけで、意識が自在を恰も獲得したかのやうに敢へて勘違ひする誤謬の自在感を私は心ゆくまで愉しんでゐたのである。  さうすると、もしかすると人生の醍醐味は誤謬にこそ潜んでゐるのかもしれぬといへる。誤謬することで私はどれほどの”自由”を愉しんできたことか。そもそも誤謬してゐるから気が楽で、仮に間違ってゐても誤謬故に端から間違ってゐるので気にする必要はなく、その気楽さが更に私を自由にさせ、つまり、心には重力からの解放が齎されるのであった。 ――重力からの解放?  確かに誤謬に夢中遊行(いうかう)すれば、心は重力から解放されるが、しかし、それは解放された振りに過ぎず、重重しい肉体は相変はらず重力に縛り付けられたまま地べたに佇立してゐるままである。意識のみが仮象の中で重力の軛から解き放たれ、仮象の自在を知るのである。それは無重量の中の肉体の有様とは似ても似つかず、例へば自由落下するJumbo(ジャンボ) Jet(ジェット)機の中の無重量室の中では肉体は無重量に慣れるまで自由が利かずにふわふわと浮かんで不自由そのものだが、仮象の自在は将に自在そのもので、其処で仮象される私はちゃんと肉体らしき仮象を保持しながらの自在なのである。それが成り立つのはそもそもが誤謬だからに外ならぬ。  それでは仮象とはそもそもが誤謬なのであらうか。或ひはさうかもしれぬが、仮象であっても現実の予言的な側面があり、強ち仮象だからと言って、誤謬とは限らないのもまた事実である。これはむしろ当然のことであり、くどくどと述べることではないのであるが、事、自由、若しくは自在に関すれば、それは誤謬の仮象であればこそ自由、若しくは自在が満喫できるのである。それはこんな風な具合である。恰も自由、若しくは自在は極限値が存在する無限級数の如くに振る舞ひ、その極限値を求める時にひょいと飛び越えてはならぬ閾を、つまり、それは無限なのであるが、その無限へと飛び移って極限値になるやうにして、自由、若しくは自在に事象は相転移する如く変化するのである。現実はそもそもが不合理で、不自由極まりないものである。それを掻い潜って生あるものは存在するのであるが、物理的に存在は現実に束縛されてゐるのである。哲学者は、究極的に存在は時間に束縛されてゐるといってゐるものもゐるが、個人的にはそれはさうかもしれぬが、しかし、時間とはなんぞや、と問ふてみた時、その答へは曖昧模糊とした答へしか得られぬのが関の山である。とはいへ、”時間は流れる”のだ。流れがあれば其処には多分、カルマン渦が発生する筈で、その一つの代表的なものがもしかすると渦巻き銀河なのかもしれぬ。これも誤謬の仮象の一つに過ぎぬが、時間を表象するとなれば、それは誤謬の仮象を駆使する外ないのである。別の言ひ方をすれば、例へば時間を表象するには超越論的観念論の問題となり、確かに時間は此の世に存在するが、それを表象するには誤謬の仮象を用ゐて観念を曲芸的にでっち上げる外なく、その糸口としての自然現象のカルマン渦がその一つとして私は看做したのである。  時間のカルマン渦が仮に存在するとしたなれば、その表象として渦巻き銀河が考へられるといったが、もっと身近な存在に台風があり、もっと身近には不規則に細胞に折り畳まれて収納されてゐる二重螺旋のGenome(ゲノム)がある。渦に円運動といふ反復運動といふ視点を持ち込み、その視点で渦を語れば螺旋と渦は視点が違ふだけの同じ現象であるといふ結果に至るのである。そのことを考慮に入れて尚更極端なことをいへば、質料(ヒレー)に形相(エイドス)があれば、その形相が既に時間を表象してゐるといへるのである。その根拠は何かといふと、時間とは既に空間とは切っても切れぬことは言はずもがなであるが、時間だけを考へるのは、既に時代にそぐはず、時空間として此の世は概して四次元多様体として考えるのが、先づ、基本である。その上で、此の世は十次元とか超弦理論から導かれるのであるが、超弦理論が正しいとは限らないので、それもまた、誤謬の仮象かもしれぬのである。更にいへば、量子重力論といふものがあり、其処には出来事を表すのに時間の因子はなく、つまり、諸行無常なるものは、時間の因子がない中での絶えざる変化であり、それは湯水が湧くやうに状態が湧いてくるやうに状態が湧いてくる、つまり、時間因子から自由な変容があるのみなのである。  話は大分脱線してしまったが、量子重力理論はひとまず置くとして、形相、即ち、時間と看做せば、時間は流れることからそれに応じたカルマン渦の発生を予想したのであるが、時空といふものを持ち出せば、形相は既にそれが時間を表象してゐるのである。つまり、形相のない不可視な時間は、存在するとはいへ、それは大昔から何らその認識の仕方は変はってをらず、直感で認識する外ないのである。さうであることを知りつつも、それを脇に置いて、例へば、極端なことをいへば、この時空に存在するものは全て形相があるものとしてしまへば、形相がないものは、これまた極端なことをいへば時間に縛られながらも、一方で、在り来たりの時間を超越した存在といふことにもなると考へてみる。そんな存在に千変万化する幽霊が当て嵌まると看做せば、幽霊といふ存在はある意味時空からその存在の拘束を解かれた存在で神出鬼没に此の世に出現することになる。そして、個人的には此の世に幽霊が存在した方が断然此の世は面白いと思ってゐる。これもまた、誤謬の仮象が為せる業の一つであり、誤謬の仮象に夢中遊行する楽しみは、涯が尽きないのである。  以上のことを踏まへて改めてこの碧い蒼穹の下の世界を眺めると、森羅万象は時間の結晶であり、世界を眺望するといふことは時空が開示されるといふことなのだ。否、ある意味、既に時空といふものからも自由な世界といふ現象が湧き立ったゐるだけなのかも知れぬ。この眺望こそ誤謬の仮象とのGap(ギャップ)を知らしめ、現実に対してのずれを認識する良い機会なのだ。現実は概して不合理で残酷である。それに対して誤謬の仮象が現実と違ふことを認識しないと、その存在は夢遊病者のやうな状態で何時まで経っても仮象から抜け出せないまま、即死の危険性が高まるばかりである。それは泥酔したものが道路に横たはって車に轢き殺されるやうな危険性なのである。いい気分で道路に横たはったはいいが、走りくる車に轢き殺される悲劇は、現実に起きてゐることであり、お笑ひ種で済まされぬが、道路に横たはるのは泥酔してほぼ夢の中にゐるに等しい状態で更に夢を追ふためにこそ道路に横たはるのであり、それが即死に繋がるのである。つまり、このやうに仮象に閉ぢ籠もり、現実といふものを認識しないと、仮象に埋もれて現実に圧殺されるのだ。多分、四六時中仮象とばかり向き合ってゐれば、その存在は精神錯乱し、憤死するのが落ちである。  私は世界を眺めるのが好きである。しかし、これは矛盾を孕んでもゐる。この蒼穹下の世界のなんと美しいことか。世界は誤謬の仮象すら簡単に飛び越えて、私の想像すらできぬ予測不可能な変化を彼方此方で同時多発的に引き起こし、さうして千変万化するのだ。万物は流転する。しかし、それは至極当然のことで、高高ちっぽけな存在に過ぎぬ私のみの予想通りに世界が変化して行くのであれば、それは、他者にとっては途轍もなく窮屈な世界であり、迷惑千万なことこの上ないのである。それに、世界が私の予想通りに展開するのであれば、そんな世界はちっとも面白くなく、忽ちにして私は世界に飽きて仕舞ひ、それならば仮象と戯れてゐた方がどんなに有意義かと、世界に見向きもしないだらう。世界の魅力の一つは多様なものがごった煮の状態でありながら秩序を持って世界に呑み込まれてあっと驚く事象が起こるからである。世界は存在してゐるものに対しては何一つ見捨てはしない。どんなものでも世界に招き入れるのだ。とはいへ、世界はこれまで多くの死滅を見守ってきたのも事実だ。また、一方で、世界は密かに選別を行ってゐて、予め世界に存続できないものは世界から弾かれて世界はそれを拒絶してゐるのだらう。世界に関してはそのどれもが正しいが、しかし、事、生物に限れば、生存競争を勝ち残ったもの、適材適所で生き長らへてきたものしか、その存在を許さぬ。しかし、例えば突然変異などのやうにそのものの発生において異形であっても世界はその存在を許す。けれども、その異形のものが生き長らへるかどうか世界は厳然と選別を行ひ、それは冷徹極まりないのだ。 また、私の仮象が現実とまるで違ふことからも解る通り、仮に私の仮象と現実が寸分違はず一致するとしたならば、それは渾沌を極め、世界の道理が立たぬ。道理が立たぬ世界は既に世界の資格を失ってゐて、それが仮に存在するのであれば魑魅魍魎が跋扈する地獄絵図にも等しい”悪”ばかりが蔓延る絶望の世に違ひない。唯、そんな気がするだけのことだが、しかし、大概、直感といふものは本質を鷲摑みにし、正鵠を穿ってゐるものだ。とはいへ、世界に秩序が、道理が存在することは否定できぬ。秩序があるからこそ、私は此の世界の中で予測不可能なことが同時多発的に起きながらもそれぞれに対してかうなるだらうといふ予測を立てては予定調和の中に不安を最小限に抑へながら、日常といふものを生きてゐる。平穏な日常が成り立つことは僥倖で、それが世界の慈悲ならば、此の世界は慈悲深いといふこととになるが、世界は時に牙を剝き残酷極まりないのも事実である。世界は不合理である。世界は節度あると看做すことは世界を買ひかぶってゐてそれは身を滅ぼす因になり得るのだ。  だから、この美しい世界において、大人(たいじん)でない私は日常をそれが終始平穏無事であらうとも右往左往して過ごすことになる。此の世界が好きといひながら、私は結局の所、此の世界を心の底では信じてゐないのである。なんと矛盾してゐることか。しかし、存在はそもそも矛盾してゐるものである。矛盾してゐるからこそ、此の世界に存在を許されてゐるのだ。果たして矛盾してゐない存在は存在してゐるのだらうか。どんな存在もその内部では矛盾を抱えてゐてその矛盾を矛盾から解放しやうとして日常を生き、例えば、前日矛盾であったものが、新たな論理を見出した結果、矛盾でなくなる事象を何度見てきたことか。然し乍ら、私はまだ、他力本願の境地にはほど遠く、此の世界に全的に身を任せることに恐怖を感じてゐる。なるやうにしかならぬとはいへ、それを金科玉条の如くにする恐怖は、世界の残酷さを身をもって体験してしまったから、その残像が消えぬまま、私は平穏無事な日常をびくびくしながら過ごすのだ。世界はある日突然、牙を剝き、存在を襲撃し、死に飢えた死神のやうに死者を死屍累累と堆く積み上げる。その死んだものたちの、そして、生き残ったものたちの怨嗟が此の世に充溢してゐて、それは時間が長く長く流れることで最初の衝撃的な針が振り切れたやうな動揺と心の傷を癒やすのであらう。 また、この不合理で冷酷な世界は、例へば”特異点”といふ矛盾を抱え込んでゐる。これは此の宇宙の創成にも関わる大問題で、極限まで、存在するものを小さくして行き、超えてはいけない一線を飛び越えてその存在を無にしてしまった時、無限の扉が開いてしまふのか、それとも無が此の世界を鎮めるのか、いづれにしても何が起きるのか特異点では未だに不明なことである。それは無から有が生じるのかといふ此の宇宙創成時に関はる問題で、少なからずBlack holeの問題にも関係する。ここで、誤謬の仮象を用ゐれば、それは夢幻の世界である。つまり、特異点の問題が解決しない限り、世界は夢幻を孕む摩訶不思議な世界が成り立つのである。夢を見るのは特異点と深く結び付いてゐて、夢の世界での全肯定は或ひは特異点ではあらゆることが肯定されるそれこそ摩訶不思議な世界なのかもしれぬのである。だから、夢に啓示を覚えて夢を正夢として、また、物語の断片として後生大事に扱ふ人がそれこそ五万とゐるのである。それもこれも特異点に帰すのである。果たして闇尾超も特異点の問題に躓いたのだらうか。夢がこの宇宙をぎょっとさせ、宇宙を転覆させるその端緒になるとでも考へてゐたのであらうか。夢といふ世界の原理である全肯定のその世界は、夢幻の世界に留まらず、それは食み出してしまってこの現実世界に影響してゐると考へたのだらうか。そんなことを考へながら、蒼穹を気持ちよささうに流れる雲を私は今、見てゐる。上昇気流がある高さまで届いて雲を生じ始めてゐる。凪の時間は終はって風が上空に吹き始めたやうだ。この現実が秩序ある世界といふことは特異点からは遠くに存在し、全肯定の世界ではなく、冷酷無比な振る舞ひをするのかも知れぬ。
二、 闇尾超からの贈り物
 闇尾超の死を知ってから数週間過ぎたある日のこと、闇尾超の二歳年下の弟から私宛に数冊の大学Note(ノート)が郵便で送られてきた。その大学Noteは闇尾超が生前、某精神病院に入院中に書き綴ったものであった。それは闇尾超が死ぬ前日まで書かれた日記風の思索の跡で、何故、それが私に送られることになったのか初めは解らなかったが、その大学Noteには闇尾超の弟の手紙が添へられてゐて、其処には闇尾超が生前、闇尾超が死んだならば、この手元に今ある数冊の大学Noteを私に送るやうに遺言したとのことである。何故私なのかといふと、闇尾超曰く、この大学Noteに書かれてゐる内容を理解できるのは此の世で私しかゐないとのことであった。  私と闇尾超の関係は幼馴染みで、所謂、竹馬の友であった。高校までは闇尾超とは同級生として私は過ごし、大学は別であった。学校が別になると闇尾超と私は自然と疎遠になってしまひ、音信不通であったが、私も闇尾超も何を考へてゐるのかは以心伝心の如くお互ひお見通しであったと思ふ。つまり、お互ひ会ふことはなかったが、それは、お互ひが今何に悩んでゐて、また、何を考へてゐるのかが手に取るやうに解ってゐたからである。それは闇尾超が書き残した大学Noteを読めば明らかであった。
――己に対して猜疑心が芽生えるともうそれは歯止めが利かぬ。それはそもそも私なんぞの存在自体が脆弱であり、己に対する負の連鎖は止めどなく続き、己を断崖絶壁まで追ひ詰めぬと私の気が済まぬのだ。さうして追ひ詰められた私が硫黄島Banzai cliffでの出来事を再現するかのやうに『万歳』と叫びながら断崖絶壁から飛び降りるだ。そして、私は宙にゐる数秒間に吾が全人生が走馬灯の如く甦る中、恍惚状態で絶命する。不幸なことにその目撃者は、また、私自身なのだ。
などという言葉が書き連ねてあるその大学Noteをペラペラ捲っただけでも闇尾超の何故だか私の心奥へと一直線に襲ひかかり、私を懐柔するやうに私の首根っこを捕まへては、 ――ぐきっ。 と、私の首を圧し折るその言葉の持つ圧力は相当なもので、弾丸が鉄板を打ち抜くやうに闇尾超の言葉は私を撃ち抜く。つまり、死んだものの勝ちなのだ。始めから勝負は決してゐるのだ。そんなことは百も承知で私は闇尾超から送られた大学Noteを読み始めるのであった。それは瞠目せずにはをれぬ言葉が鏤められてゐて、やはり、闇尾超は己を己の手で断罪したのは間違ひないのである。
三、 摂動する私
――絶えず摂動し、ずれ行く私を指さして迷はずに『阿呆』と罵るべきである。その罵詈雑言にこそ私の本質の尻尾が隠されてゐる。自己肯定を賛美するものの浅薄さが目も当てられぬのは、自己がもう死に体として固着し、自己肯定する私は既に死臭を発する半分白骨化した自己を保持してゐるに過ぎぬのだ。自己肯定したならば、もうそいつは死んだも同然で、ほろほろと自己を慰めながら、奇妙な自己満足に堕す倒錯の中で、悦に入ったそのものは、もう克己の機会を自ら捨て去り、摂動して已まぬ私に対して目隠して、瞼裡に現れる自己の願望が具現化した表象群に囲まれて、夢現に化かされてゐるだけなのである。つまり、自己肯定とは現実を凝視することを止めた心地よい夢の中で生きることを善しとしてしまった所謂悪霊の為せる業なのである。
 私は内部の私を摑まへることは不可能だと考へてゐる。それは物理学の量子力学の中の重要な原理であるハイゼンベルク不確定性原理が内部の私といふものにも当て嵌まり、私を把捉しやうとするならば、必ず私はその私から逃れ行き、その尻尾すら捕まへられないのは、内部の私といふ存在は元来さういふ存在であり、捉へやうとした瞬間に内部の私は確定できずに曖昧模糊としたままに何となく漠然と、 ――これが私? と、私を名指せぬままにぼんやりと私らしいものをして私と呼んでしまってゐるだけなのである。それこそ闇尾超が名付けた杳体の如くに杳としてその存在は曖昧模糊と把捉不可能なのだ。とはいへ、存在してゐることだけは解るのである。さうして居直った私は、 ――私は。 と、言ひ切ってしまった以上、引っ込みがつかずにその私と名指したものをして何か確定した私を見出したかのやうに振る舞はないと跋が悪いのか、何度となく私は私自身に対して猜疑の目を向けつつも、徹頭徹尾、その曖昧模糊とした私を何か確定した私として偽装して解ったやうな気になってゐるとんだお調子者なのである。  それでは、何故私に対してハイゼンベルク不確定性原理なのかといふと、私は頭蓋内の漆黒の闇を五蘊場と呼んでゐるが、その五蘊場で私は私をパスカルの思索のやうな鋭きメスで五蘊場に棲む私を解剖しやうとし、現に解剖したところで、私は分身の術ではないが、メスを入れたところからすぐに分裂して見せて、メスを持つ私を嘲笑ふかのやうにそれこそ無限に分裂し、その無限の私が、それぞれ独自の意識を持ち、ペチャクチャと五蘊場中で議論を始めるのだ。それは現代音楽の合唱曲を聴いてゐるやうな錯覚に陥り、無数の声が重なると風音にも似た音ならざる音へと昇華して、ベートーヴェンの第九の合唱ではないが、何か途轍もなく高揚した熱気はひしひしと伝はってくるのである。つまり、私といふものはFractal(フラクタル)な存在といへ、それ故に五蘊場に棲む私は無限に分裂可能な存在なのであり、然し乍ら、さういった傍から私が、 ――ぶはっはっはっはっ。 と、哄笑し、葉隠れの術ではないが、一瞬にして煙と化したかと思った途端に全ての私が姿を消し、 ――ぶはっはっはっはっはっ。 といふ私を侮蔑する嗤ひ声のみが五蘊場に鳴り響くのである。ところが、五蘊場の何処かにか私といふ曖昧模糊とした、かういふと誤解を招くかも知れぬが、私といふ名の集合体が潜んでゐる筈で私はその変幻自在にして神出鬼没な私を《異形の吾》と名付けて幾分、吾ながらいい手捌きで五蘊場に棲む私を処したと私はほくそ笑むのであるが、その傍から異形の吾は、 ――ふっ。 と、更に私を侮蔑し、鼻で笑ひながら私の内部の目の眼前に忽然と現れ、あかんべえをして直ぐさま姿を消すのであった。この異形の吾は時に鮮烈な印象を残す表象となって内部のの私の目の眼前に現れては直ぐさま姿を消し、時に煙幕を張ってその姿を隠す隠遁の術で私を翻弄しては、私をおちょくるその自在感は、ハイゼンベルク不確定性原理でいふところの時間を、つまり、去来現(こらいげん)を攪拌して時制を滅茶苦茶に寸断して、未来でもなく、過去でもなく、現在でもない異形の吾に特有の出来事が湧き立つ変容が存在し、私はその変容に振り回されてゐるだけに違ひないのだ。もしかすると異形の吾にはそもそも時間がなく、あるのは出来事の変容のみなのかも知れぬし、異形の吾は時間をくるくると巻いてゴクリと呑み込んでしまったやも知れぬ。それ故に異形の吾の出来事の変容は変幻自在で千変万化にして神出鬼没なのだらう。さう思ふと何となく得心が行くのだ。肥大化した出来事の変容。それは詰まる所、私がでっち上げた化け物の一種であり、その眷属に私も加はるのかも知れぬが、しかし、私は時間に雁字搦めに搦め取られてゐて、これまで、一度も時間から自由なことはない筈なのである。否、異形の吾と戯れてゐる時はある種自在な感覚を味はってゐて、去来現から自由の身として内部の人として此の世に存在してゐるのだ。つまり、それは夢見の時間と類似点がなくもなく、竜宮城で過ごす数時間が現実では数十年といふ、またはその逆で、夢見の時間が数十年経ったのに現実では数時間のことでしかないといった、唯唯、時間の不思議を垣間見るのみなのである。  森羅万象が仮に私のやうにあるのであれば、皆、内部に異形の吾を棲まはせてゐて、夢中遊行する中で、時が経つのを忘れて時間の自縛から逃れ出てゐる、つまり、その時、吾は己から食み出し摂動してゐるに違ひない。いづれも己の属性から時間を取り除けば、それは至上の自在感を味はへる至福の時が待ってゐる。それがたまゆらの永劫なのかも知れず、私にとって異形の吾との戯れの時間は、不死の時間、つまり、それは時間を止揚してしまひ、なんだか異空間にゐるやうな、それとも永劫に触れた衝撃に打ち震へ、悦に入ってゐる至福の中にゐるやうな、そんな感覚に包まれた私は唯、異形の吾を追ってそのIllusion(イリュージョン)の世界に没入する中で、本質は吾を忘れて異次元へと出立するやうなわくわくとした心躍るたまゆらの永劫を存分に味はってゐるのかも知れぬのだ。その時、外部から私を見る観測者は、私が奇妙な振動をしてゐてゆらりゆらりと揺れてゐる陽炎のやうな存在に化した私を見るに違ひない。そして、私の目は虚ろで、あらぬ方向を見てゐて発狂したのかも知れぬと吃驚する筈なのである。それほど異形の吾との戯れは私を絶望の底へと落としつつも、私自身をそれだから尚一層抜けられぬまるで薬物中毒者のやうな異形の吾依存症を患ってゐるといへるのだ。  その実、異形の吾は徹頭徹尾その正体を明かさず、私を欺いては、 ――ぶはっはっはっはっ。 と、哄笑するのだ。その嘲笑を含んだ哄笑が私の五蘊場中に反響してなんとも言ひ難い、さう、それはバリ島の民族音楽、ケチャにも似た恍惚の逆巻く鮮烈な合唱となっていつまでも五蘊場に鳴り響くのである。さうして益益高揚して行く私は、異形の吾が繰り出すIllusionにうっとりとしては異形の吾の思はせ振りの思ふ壺なのである。狐の化かし合ひにあったやうに半分は正気を失ってゐる私は、それでも尚、異形の吾の気配の後を何かに取り憑かれたやうについて行き、尚も私は吾を忘れたいが為に、それは底知れぬ私に対する絶望から来るのであったが、現実逃避したいが為に阿片中毒になったものが、阿片に群がるやうに、将又、異形の吾が振り撒く綿菓子のやうな蜜の虜となって別の言ひ方をすれば、蟻地獄に落っこちた蟻の如くに最後は生き血を異形の吾に吸はれて骸になるのを重重承知しながらも、そのたまゆらの永劫の状態に没入することは已め難いのであった。  ゆらりゆらりと揺れ動く私は、摑み所のないまるで幽霊の如くに魂を抜かれた生きる屍の如くに大地に佇立してゐるのかも知れぬ。多分、異形の吾を追ってゐる時の私は顔面蒼白にも拘はらず、ニヤニヤと不気味な笑ひを顔に浮かべ、それでゐて、高揚のあまり、汗びっしょりで目だけは眼窩の奥でギラギラと輝く、変質者と何ら変はりがない状態で、一遍上人念仏踊りではないが、 ――私は、私は。 と、ぶつぶつと呟きながら身をくねらせては、時折絶叫する異常者に成り下がってゐた筈である。然し乍ら、当の私はそれで善しと心の何処かで思ってゐて、恍惚状態に漸近して行く私は惑溺するのであった。何に惑溺するのかといふと、己に惑溺するのである。つまり、異形の吾を追ってゐるといふのは己に惑溺したいが為の私がでっち上げた口実にして邯鄲の夢の道具に過ぎず、私は異形の吾と五蘊場に棲むそれを名指すことで私の意識を私から分離し、距離を生じさせて、私の固有時とは別の時間が流れる異形の吾に翻弄されることで、私は上手い具合に私が恍惚状態に惑溺できる端緒を見つけてしまったのである。さうすると、それはMasturbation(マスターベーション)よろしく、高まる絶頂の時の射精で感情が一山越えるのにも似て、私の感情は必死に意識について行かうとしながら、ある時意識を追ひ越し、感情が意識に先立つ恍惚状態の中で、意識は溶解するその言葉も追ひつけぬ高まった絶頂の、それを名付ければ此の世に人型として存在する振動子と化したかのやうな搏動の揺らめきの中に没入する悪しき耽溺に違ひなかったのである。  何時も物憂げな私の魂は絶えず興奮を欣求してゐて、さうして日一日と生き延びる糧にしてゐたのである。ところが、一度異形の吾と名付けてしまったそれは、私が自身に惑溺するのを決して許さなかったのであった。異形の吾は手を変へ品を変へてまだ、私を誘惑するのであった。異形の吾は相変はらずその正体を明かさなかったが、それでも異形の吾が繰り出す表象の数数は、Aurora(オーロラ)を見るかのやうな此の世のものとは思へぬIllusionに私を巻き込みながら、私をそれまで経験したことがない世界へと連れ出すのである。私は私で、それが異形の吾の罠と知りつつも、例へば大渦に巻き込まれることが恐怖であることの裏返しに、それは心躍らせる興奮の坩堝であることといふやうなことを期待して、私は敢へて異形の吾の罠に飛び込むのだ。仮令、それが相当な幻滅を齎さうともである。異形の吾のIllusionは何時も最後は幻滅に終はるのであるが、私はそれで善しとして、異形の吾の諸行を何時も許してゐたのであった。何せ、私がすることなど高が知れてゐる。況して異形の吾のすることなど尚更高が知れてゐる。それでも私が異形の吾を追ふのは、異形の吾が限界を超えて何かをするその瞬間が見たいが為である。その瞬間こそが真のたまゆらの永劫へと続く扉を開けることであり、私は、異形の吾と名付けた私に対して過剰なまでの期待値を、確率が一にはならずとも一の近傍を標榜するその期待値を託してゐたのであった。
四、 オイラーの等式に吾を見よ
――オイラーの等式、つまり、exp(iπ)+1=0に吾を見よ。埴谷雄高虚数に案を得て《虚体》を導出したが、虚体では存在の尻尾すら摑めぬことを思ひ知った私は、それでは存在に更に躙り寄れるものはないかと思案に思案を重ねた結果、ネイピア数のiπ乗が-1になるといふオイラーの等式に辿り着く。仮にネイピア数eが物自体の象徴だと仮定すれば、物自体の虚数i×π乗したものが実数-1になるといふことは、物自体に虚体×π乗すれば-1、即ち私の内部になると看做せなくもない。ここでは私の内部が皮膚を境にして負の実数の在処と看做してのことである。それは、何を意味してゐるかといふと距離である。私の外部は距離があるほどにそれは過去のものであり、それを推し進めれば現在は私の皮膚上のこと、そして、未来は私の内部といふことになる。このこじつけに吾ながら苦笑せずにはをれぬが、だが、このオイラーの等式には、もしかすると存在に躙り寄る鍵が隠されてゐるのかも知れぬ。私は物自体の虚体×π乗を《杳体》と名付けて、その杳として正体を明かさぬ存在に躙り寄らうとしたのである。
 闇尾超にとっての杳体は私にとっての異形の吾のことである。それにしてもかうして闇尾超は杳体に辿り着いたのだ。-1が私の内部か。言ひ得て妙だな。さしずめ、それは私にとっては五蘊場のことに違ひない。だが、数学史上最も美しいといはれるオイラーの等式に私を映して闇尾超には何が見えたのだらう。闇尾超も数学に化かされたのか。数式は何とでも解釈可能だ。だから、数式に、それもオイラーの等式に足場を置いては無間地獄の陥穽に呑み込まれるだけだ。数式に暗示を受けるのはいいとしても、それをして存在の何かを摑んだと思ふのは、誤謬の始まりだ。へっ、誤謬を賛辞してゐた私が、誤謬だから駄目だといふのは大いに矛盾してゐるが、しかし、数式は劇薬なのだ。存在に躙り寄るには数式の高くて固い岩盤を掘り進めなくてはならないのだ。そんなことは闇尾超にも百も承知の筈だが、それでも尚、オイラーの等式に拘ったのは、自らの死を前にして先を急いだのかも知れぬが、それは生き急ぎといふものだ。多分、闇尾超はオイラーの等式を前にしても霧が晴れることはなかった筈である。それは、誤謬といふ《楽》に腰掛けてしまったことで、闇尾超はそれ以上の思索を深めることはできなかったのではないだらうか。虚体×πが何なのかの解釈がなければ、それは不完全といふことに過ぎぬ。更にいへば、ネイピア数が物自体? 笑はせないで欲しい。数学者からすれば、それは誤謬もいいところで、ネイピア数は実数であり、そこから仮定すれば、物自体ではなく実体だらう。乗数に虚数があるから闇尾超は目が眩んだに違ひない。  しかし、杳体御仁と綽名されてゐた闇尾超は更にオイラーの等式を追ひ求め、虚数iのi乗が実数になることに思ひ至った筈である。それはこの後に出てくるだらうが、虚体の虚体乗は実体になるといふ闇尾超の思考の一端がこのオイラーの等式に吾を見よ、に隠されてゐるに違ひない。  然し乍ら、思索の端緒はいづれの場合も数学なのか。数学は確かに凡人の私などの思索よりも更に深く深く深く掘り進めてゐるとはいへ、それは結局の所、私が、あの蒼穹宮崎駿監督のImageに乗っかって自在に飛んだのと変はりはしないのでないか。其処には誤謬に遊ぶ楽が既に隠されてゐて、思索の、つまり、闇尾超の思索の限界が既に開示されてをり、ややもすれば、闇尾超の思索の自由を奪ってはゐないのであらうか。しかし、闇尾超には時間がなかった。それだけは事実である。無から有を生み出すには余りにも時間が足らな過ぎたのだ。これは闇尾超を責めるわけには行かぬな。それは闇尾超が私に託したことなのだ。だから、この大学Noteを私に残してくれたのだ。  そんなことは意にも介さずに残酷な現実は今日も私に日常を齎す。そして、この日常が曲者なのだ。ある日突然、日常は私に牙を剥く。それは自然災害だらうが、悪疫の蔓延だらうが、素っ気なく日常には死が転がってゐるのだ。それに目を瞑ってきた現代人は、しかし、自然現象が激烈さを増し、死者を黄泉の国から此の世に顕したことで、否が応でも死を身近に感じざるを得なくなった。現代文明は死を押し隠すことに精を出してきたが、図らずも現代文明は死を黄泉の国から此の世に顕すことに帰着したのだ。何とも皮肉だな。しかし、世界は徹頭徹尾不合理なものなのである。合理の権化が仮に数学ならば、闇尾超よ、お前はいくら時間がなかったとはいへ、数学を思索の端緒にしたのは拙かったのだ。思索の端緒は不合理でなければならぬのである。人間の思考の悪癖であるが、しかし、この悪癖が様様な発見に結び付いたのでもあるが、合理的であることが何か正しいものの如く此の世を跋扈し、大手を振って闊歩するのは、私は何とも苦虫を噛み潰したやうな思ひとともに、薄気味悪さを感じてゐたが、世界が、現実が、人間に牙を剥いて襲って来始めたので、安堵してゐるのは確かなのである。身近に死が転がってゐない世界、若しくは現実なんぞ決して受け容れられぬ。
五、 Eureka(エウレカ)
――Eureka! 見つけた。オイラーの等式を更に推し進めると虚数iのi乗は実数になるのだ。つまり、虚体の虚体乗は実体になる。ではi乗、つまり、虚体乗とは何を意味するのか。それは例へば、0乗が何ものも一に帰着させることから、それは、存在の期待値が一の、つまり、存在の確率が一であるといふ完全無敵の実在のことだとすれば、それから類推するに、先づ、虚数iの0乗が仮に一になると仮定すると、0乗が何を意味するかを推論できれば、虚数i乗の何かの手がかりが見つかるかも知れぬ。それ以前に0の0乗が一になるとの解釈も存在してゐる。無を0乗すれば有の一となる。これが確かだと仮定すれば、0乗とは神の一撃、若しくは無に面(おもて)を授ける契機に違ひない。これを虚数iに当て嵌めると虚体にも0乗は面を授ける契機となるやも知れぬ。そして、虚数iのi乗は虚体を虚体から実体へと変容させる契機なのかも知れぬ。虚数乗は虚体の化けの皮を剝がす契機だとすると、埴谷雄高の虚体の正体見たり!
 やはり虚数虚数乗が実数になるまで闇尾超は思索の触手を伸ばしたか。成程、闇尾超の思索の原資には数学が大いなる割合が占めてゐて、数学をして、闇尾超の思索を推進させる起動力になってゐたのかも知れぬが、それでは駄目なのだ。合理から始めては世界の術中に嵌まるのみ。不合理から始めなければならぬのだ。とはいへ、闇尾超は数学を礎に置いたとはいへ、それは全て闇尾超の推論でしかない。だから、それは善しと看做さなければならぬのかも知れぬが、闇尾超の発想の原点に数学がどっしりと腰を据ゑてゐるのであれば、それでは何にも語ってゐないのも同然なのだ。  然し乍ら、オイラーの等式を導き出すオイラーの公式は、存在が絶えず揺らめいて振幅を表してゐると解釈できなくはないことの数学的な帰結であるので、強ち闇尾超の推論が間違ひであるといふことでもない。全ては存在が揺らめいて曖昧模糊としてしか存在できぬことを指し示す証左として数学的な表現では、その帰結としてオイラーの公式が見出され、言語表現では、埴谷雄高の虚体、更にいへば、闇尾超が主張したところの杳体の、その杳として存在を摑まへられぬ主体のもどかしさは、存在そもそもが古めかしい言ひ方をすればハイゼンベルク不確定性原理により存在が曖昧模糊としたものであり、存在を確たるものとして摑まへることは逆立ちしても不可能事であるのだ。存在といって画然と存在してゐるものなどそもそも此の世に存在しない。あるのは曖昧なものばかりで、それをして存在が闡明するものとして捉へるのは、誤謬の始まりであり、誤謬と戯れてゐたければ、それで構はぬが、闇尾超も私も誤謬を突き抜けた何が見えるか今以て誰も目にしたことがない視界を見たいが為に日日、悪戦苦闘し、さうして、闇尾超は精神を病んでその果てに夭折してしまった。それでも、 ――Eureka! と、感嘆してゐることから、闇尾超は存在の秘密の何かを垣間見たことだらう。さうぢゃなきゃ、闇尾超は死んでも死にきれなかった筈だ。しかし、私には闇尾超の霊魂が未だに此の世を彷徨ってゐて更に思索に思索を重ね、一度垣間見た存在の秘密をそれこそ合理的に構築して見せ、不合理な世界、若しくは闇尾超の望みであった此の不合理な宇宙をぎょっといはせ、宇宙顚覆のその端緒を見出さうと躍起になってゐるのかもしれぬ。  ともかく、闇尾超は何かを見出したことは確かだ。存在然としてゐながらその実、霧がかかったかのやうに曖昧模糊としてしか存在できぬ存在物は、その尻尾を闇尾超に摑まれ、仮象の国に安住してゐた物自体を引っ張り出して宇宙に蟻の一穴ではないが穴を開けたのかもしれぬ。だが、宇宙は、その時、ニヤリを笑ってその穴を闇尾超当人で栓をしてあれよといふ間に塞いでしまったやもしれぬのだ。その穴を仮に《ゼロの穴》と名付けてみれば、そのゼロの穴の栓になった闇尾超は例えば虚数が蠢く虚=世界を覗き込んだのであらうか。その宇宙の穴から見えた世界は一体全体どんな風景だったのだらうか。思ふに闇尾超が見るもの全ては、闇尾超の視線が向いた途端に存在は皆恥ずかしがり、闇に身を隠してしまったのだらうか。私は虚数の世界は闇の中だと思ってゐるのだが、闇に対した闇尾超は果たして何を見出したのだらうか。
六、 自同律の不快の妙
――自同律の不快の妙。埴谷雄高は、自同律を自同律の中に閉ぢ込めて合理的な考察に終始することなく、不快としたところにこの埴谷雄高の論法の妙が存分に現れてゐる。人間の起動力の一つに快不快があるが、それを自同律に持ってきた埴谷雄高の手捌きは優れてゐるといってよい。例へば『私は私である』で論理は一旦一区切りして、其処で思考は終はりを迎へるのが極普通のことであるが、埴谷雄高はぢっと思索に耽り、『私は私である』を蛸を噛むやうに何度も噛んでゐる中で、自同律から自然と湧き起こる『不快』といふ感情は如何ともし難いものとして自同律の不快といふ人類の思索史に残る箴言を残した。これは、しかし、誰もが抱く感情で、埴谷雄高以前に言葉として表したものは数知れずゐるが、それを端的に『自同律の不快』と名指せた炯眼に平伏す。しかし、事はそれでは済まず、自同律の不快のその先には必ず自己抹殺があり、つまり、『自同律の不快』は自己抹殺の狼煙であり、一度は必ず私は私によって抹殺される業を背負ってゐるのだ。それ故、『自同律の不快』は『自同律の不快故の自滅』が正確な言明であり、自身を自身の手で抹殺しなければならぬのが存在の存在たる所以である、といふのが存在の進むべき道である。
 雨降る真夜中、雨音だけが響く中で独り思索に耽ってゐると、不意に闇尾超が現れてぼそりと呟くのを聞くやうな気がしたのである。 ――私といった以上、私は私自身の手で私を抹殺しなければ、満足せぬ。  それが闇尾超の本望なのであらうか。結局の所、闇尾超は底無しの循環論法に陥ってしまひ、自縄自縛の中、どうにも身動きがとれずに、自棄(やけ)のやんぱちでこれ見よがしに自同律の不快を振り翳してブスリブスリとその切れ味鋭い刃で己を切り刻んでゐたのであらう。闇尾超にとっては自同律は不快ではなく苦痛であったのだ。痛みを忘れるために闇尾超は精神的自刃を毎日行ってゐたことは簡単に想像はつくが、それでは更に酷い痛みに襲はれるだけで、何にも解決しなかったに違ひない。それでも闇尾超は一時でも闇尾超であることに我慢がならず、倦むことを知らずに己の手で、己の精神をぼろぼろになるまで、日日、切り刻んで、それを少しの慰みにしてゐた。しかし、だからそれがどうしたといふのだ。闇尾超よ、自同律の苦痛なんて何も珍しいことではなく、極普通のことだぜ。それを何か特別な何かと勘違ひし、それは闇尾超独特の皮肉を込めたわざとの勘違ひをして、それを口実に己を自傷するのは現実逃避の一行動に過ぎぬ。  例へば時空間すらも己の存在に恥じてゐて、恥じ入るばかり故に時空間は絶えず変容し、時間のみを敢へて取り出せば、己に我慢がならずに憤怒に燃えてゐるから時間は流れるとしたならば、その先には時間が目指す”理想”といふのも烏滸がましいのであるが、それでも時間にしてみれば、存在の思ひもよらぬ帰結を目指して紆余曲折を経ながら”流れる”のであらうか。さうして存在は、森羅万象は、時間に翻弄され、時空間に弄ばれながら、存在もまた、そんな不合理で残酷極まりない時空間に順応するやうにと、尻を叩かれかちかち山の狸ではないが、兎に背負ってゐた柴に火をつけられ背に大火傷を負ひ、仕舞ひには惨殺される狸よろしく、此の世の森羅万象は世界に翻弄され、その挙げ句に憤死するのをぢっと待つのみの、世界にしたならばこれほど御しやすい存在もないのかもしれぬ。さうならば、存在はどうあっても世界に対して反乱の狼煙を上げるのが道理である。自同律の不快に端を発する憤怒は年を経る毎にその炎は燃え盛り、火炎の権化と化した存在は逆巻く炎に身を焦がしつつ、世界を焼き払はふとする筈である。仮にさうならないのであれば、それは存在としての怠慢であり、闇尾超も私も許し難い存在として唾棄するに違ひない。  森羅万象の憤懣は、然し乍ら、世界に対しては無力で、やはり世界に翻弄され続けながら、生き延びるのがやっとなのであるが、心の奥底で熾火の如くに燃え続けてゐる世界、または時空間に対する憤怒の火は、何時炎になってもおかしくないその時をぢっと待ってゐるのだ。それは星が大爆発してその一生を終えるやうに存在が滅亡する時、存在が絶えず抱へ込む憤怒の火はぼわっと一気に火勢を強め、大規模な手のつけられぬ山火事の如くに燃え盛る炎となって大爆発し、それは死の爆風として一瞬に全宇宙に燃え広がる爆風は尚も生き残る存在に対して少なからぬ影響を及ぼしては憤怒のRelayを行ふに違ひない。  自同律の不快は埴谷雄高の言であるが、闇尾超は思ふに自同律の不快ならぬ自同律の憤怒へと辿り着いた最初の人なのかもしれぬ。それはいひ過ぎかも知れぬが、しかし、闇尾超にとって自同律は快不快では最早済まぬのっひきならぬもので、己が此の世に存在してゐること自体激怒の因にしかならず、それは生きてゐることが憤怒でしかないといふ誠に誠に生き辛い、成程、闇尾超が己を絶えず弾劾してゐたのも解らなくもないのである。尤も、闇尾超にとって理想の自分といふものがあったかといふと、それはなかったやうに思ふ。唯、闇尾超は世界に翻弄される己が許せなかったのだ。そんな我が儘はこの不合理な世界では全く通用しないが、それではその憤怒の淵源は何に由来するのかと闇尾超は絶えず己に問ふてゐたに違ひない。それは元を辿れば闇尾超といふ存在に深く根ざしたもので、それは例へば闇尾超が幼少期に負った心的外傷なのかもしれず、それが時空間恐怖症の類ひであったならば目も当てられず、闇尾超の存在は絶えず恐怖で戦いてゐた筈である。もし時空間が恐怖の対象でしかなかったならば、それは発狂する以外どうしたらいいのだらうか。然し乍ら、闇尾超は確かに時空間恐怖症だったと思へる。それは闇尾超のあらゆる仕草から誰の目にも明らかだったのである。闇尾超が何気なく発した言葉に、皆驚いたものであった。例へば、 ――何故ものは時空間を動けるのか? などと、闇尾超は真顔でいふのであった。闇尾超にとってものが時空間を動けることが不思議でならなかったのだ。それも当然である。何せ闇尾超にとって時空間は恐怖の対象であり、その時空間をものが動けることは闇尾超にとっては謎でしかなく、どうしても腑に落ちぬ事象の一つなのであった。それ故に恐怖の対象に絶えず囲繞されてゐる存在のどうしやうもない居心地の悪さは、発狂せずば、憤怒にならざるを得ぬ。存在することが即ち憤怒でしかないのである。憤怒せずば、一時も時空間に対峙して世界に存在することは不可能に違ひないのである。時空間恐怖症といふ心的外傷を抱へてゐたであらう闇尾超は、絶えざる恐怖心から憤怒の人になってゐたのだ。どう足掻いても納得が行かぬことに対してそれには深く関はらぬといふ極普通の人たちに付和雷同することは己に対して不義を働くことであり、己の存在に対して正直だった闇尾超は、時空間恐怖症であることを隠さうとはしなかったのである。
七、 夢を見るといふことはそもそも特異点の存在を暗示させるものである
――三島由紀夫のやうに己の首が斬首される夢を見た。その時、私の首は一太刀では切り落とせずに、何度も何度も日本刀で切り刻まれ、やっとのことで胴体から切り離されたのだ。夢の中の私の分身はそれに対して何の疑問も抱かずに唯、指を銜へて、まるで他人事(ひとごと)のやうにその様を凝視してゐるのみなのであった。しかし、その後味の悪さといったならば、筆舌に尽くし難い。ところが、夢は夢の論理が何よりも優先するからこそ、つまり、私の意思とは無関係に、或ひは私は夢の論理に絶対服従故に夢の秩序が私に先立つ事態が進行するからこそ、尤も、私が見る夢でさへ、私は夢に対して何の疑念も抱かずにその不合理を受け容れてゐるといふ、唯単に眼前で進行する夢の事態を丸ごと受忍するからこそ、此の世に特異点が存在することを暗示するといへる。特異点とは説明するまでもないが、至極簡単にいへば、分数の分母を限りなく0に漸近させ、遂には分母が0になった途端に現はれるであらう摩訶不思議な世界のことをいふのであるが、分数の分母が0の時、それは数学的には定義できず未定なものとして、つまり、それが特異点の定義の一つであるが、私は特異点が出現したその時点で現出するであらう世界は夢に近似した世界だと看做してゐる。それは思ふに夢はそもそも因果律が破綻してゐるが、特異点でも因果律は破綻してゐる筈である。特異点は質料と形相の備はった形ある有が多分に無限大へと、つまり、この世の摂理からしてあり得ぬ有から無限大へのそれは到底不可能な変化(へんげ)できぬものへと存在が光速を超えた速度で爆発的膨脹をしていくことかもしれず、有が無限大へと超高速で膨脹していくといふことは、多分に特異点へと突き進むその場には、その前段階としてBlack holeが現はれ、Black holeとは巷間で語られてゐるやうに光すら逃れ出られぬといふことは、裏を返せばBlack holeは物質で充溢した世界といへ、また、Black hole内ではこれまた因果律が破綻しかけた世界であると想像すれば、その想像をすこぶる単純に数直線状に延長するが如くに想像を羽撃かせると、特異点では光が充溢して因果律が破綻した世界といふものと看做せなくもない。それは正(まさ)しく夢世界と相似形を成した世界といへ、夢を見られるといふことは、即ち特異点の存在を暗示するといへる。さうでなければ、「私」は夢に対して全くの影響力がなく、夢の論理に対して絶対服従する世界を表出できる訳がないのだ。然し乍ら、幻像を以てして特異点を語る虚しさにも言及しておかねばならぬ。夢の光景をして特異点の存在を暗示するとしかいへぬ口惜しさ。それは映像で以て特異点のなんたるかを語ってゐるのであるが、それでは、然し乍ら、何も語ったことにはならず、特異点といふものに全く漸近してゐないことに等しいのである。頭に過る映像に依拠せずに語らないことには特異点を取り逃がし、
――わっはっはっはっ。 と、嘲笑されるのが落ちなのである。映像のその先にある闇をして特異点も語り果せねば、特異点を取り逃がすこと必定である。須く文字にのみ頼るべし。
 闇尾超は夢を使ひ古された襤褸布と同じく、現代ではもう夢神話は破壊され尽くされ、夢を語って何かを暗示させる文学的手法は藻屑と消え、夢そのものの神通力はもうないと嘗て述べてゐたが、夢が特異点を暗示させるといふ啓示を得たといふことは、闇尾超もやはり夢に弄ばれてゐて、ずっと夢の謎を脳科学とは一線を画した中で、その位相を見つけたくてうずうずしてゐたに違ひない。それが或る日、夢と特異点といふ一見すると似ても似つかぬものに結び付き、それがある種の確信に変はっていったのだ。その時の闇尾超の胸に去来したものとは何だったのだらうか。嬉しさはあったに違ひないが、それ以上に絶望しかなかったのではないだらうか。それは何故かといふと、所詮人間に「一≒無限大(∞)」を持ち切るのは酷といふことに闇尾超は思ひを馳せたに違ひない。無限大を単独者たる一存在者が――簡単に無限大とはいふけれど――無限大といふものの実相を想像できる人間が、果せる哉、想像の網に引っかかる程の想像力を持ち合せてゐるのか、甚だ疑問であるからだ。数学的には無限大の存在は排中律により証明されてはゐるが、それは、無限大が存在しなくてはをかしいといふことを間接的に証明してゐるのみで、直截、無限大の素顔を見たものはゐないのだ。そもそも素顔は有限のもので、無限大の素顔といふ表現は全くをかしなことで、さうだからこそ尚更、無限大は人間の想像力を遙かに超えたものなのである。  仮に闇尾超が無限大の尻尾を摑んだとしてもそれは限りなく夢幻(ゆめまぼろし)の類ひに近く、それを承知をした上で、夢の存在が特異点の存在を暗示させると大胆な仮説を闇尾超は立てて見せたのだろう。その真贋はともかく、闇尾超の慧眼は或ひは正鵠を穿ってゐるやもしれず、一瞬でも闇尾超の脳裏に無限大の幻影が過ったのは間違ひない。でなければ、闇尾超は或る確信を持って夢の存在が特異点の存在を暗示させると断言できる筈はない。しかし、闇尾超は幻影を以てして特異点を語るにはそれこそ語るに落ちるとも警告してはゐるが。ならば、闇尾超の導いた「夢の存在は特異点の存在を暗示させる」を私の思考の俎上に一度乗せなければ闇尾超に失礼といふものだ。 夢は私にとって夢魔の為すがままの或る意味最も私を疎外してゐる世界だと看做してゐる。喩へていふならば、これは闇尾超に失礼なのかもしれぬが、映像的な解釈で夢を紐解くと、巨大な水族館の水槽のやうに分厚くも非常に透明なアクリル板でできた巨大水槽に、これは不思議なことではあるが、闇尾超と同様に夢には確かに私の分身者の片割れが水槽内にゐて、そやつは夢魔の為されるがままに夢の秩序に絶対服従させられ、辱めを受け、それをアクリル板の外で、私のもう一人の分身者の片割れが唯見つめてゐるといふ、夢で私は二重に分裂した存在としてあるといへなくもないのだ。これは闇尾超も同じだったものと見え、夢では私といふ存在は分裂してゐるのである。そして、私の意識や夢での感覚は分厚いアクリル板を挟んで光速を越えた速さで内外を行ったり来たりして分厚い透明なアクリル板で隔てられてゐるとはいへ、夢では疎外されながらも徹底的に当事者といふ矛盾をいとも簡単に成し遂げてしまってゐる。さうだからこそ、私もまた、量子もつれを夢では起こしてゐて、光速を越えてアクリル板を隔てて存在する二重の私は、夢の主人公でありながら、その夢から徹底的に疎外されてもゐる二重感覚といへばいいのか、感覚の重ね合はせが起きてゐるのである。その二重感覚は時に私は分裂者として、時に一心同体であるかのやうなものとして感覚は奇妙なもつれ合ひを為して夢は私を翻弄し、そして、それをぢっと凝視してゐる見者としての冷めた私も同時に存在するといふ具合なのだ。これは多分闇尾超にもいへることで、夢に対して私と闇尾超の在り方は同じやうなものであったと想像される。  また、夢世界を形作る夢に存在するもの全てが、現実相の如き装置として夢では活躍する。しかし、夢に出現するもの全てのいづれもが、夢魔により夢に呼び出され、さうしてその存在感を見事に現実相に見せかけるといふからくりをやってのけるのである。そもそも、それでは夢に出現するものとは何なのであらうか。物自体ではないのは確かだ。それでは夢に出現するものどもとは何なのであらうか。それらのものどもは夢に固着してゐてアクリル坂の巨大水槽内の夢世界の私にとってそれは実感を伴った存在なのである。これが夢見の私をまんまと騙し果せるからくりであり、実感が伴ってしまふので、アクリル板の水槽のやうな夢世界の中の私はそれが夢とは気付かずにゐるが、ところが、もう一人の私の分身が夢が展開してゐる水槽の外で冷めた目をして夢を眺めてゐるので、水槽内の私もやがてそれが夢だと気付かされることになるが、夢は実感を伴ってゐる為にそれが中中受け容れられぬのだ。それでも夢に登場してゐるもの全てが、嫌らしくも終始私に現実相を開示する如くに実感が伴うので、私は統覚の誤謬を犯すのである。つまり、夢に登場するものは、私を夢世界に拘束する装置であり、或ひは統覚の攪乱を招いて一つの夢が終はるまで、ずっと私を夢魔に絶対服従させられるそのお膳立てであり、例へば、夢魔が表出する夢の舞台を「夢場」といふやうに名付ければ、夢場の存続を保証するのが夢を形作るもの全てであり、私は、それにまんまと騙されるのである。  ところが、その一部始終を冷めた目で見てゐるもう一人の私の分身の片割れは、夢場を一瞥するなり、そのちんけな夢場の装置に冷笑を浮かべながら、夢魔の為されるがままに翻弄されてゐる私をざまあみろとばかりに侮蔑してゐるのであらう、夢魔の私を操るその手際にやんやの拍手喝采を送りたげにしてゐるのもまた、事実なのである。或ひは精神分析学者のやうに夢には欲望、或ひは抑圧が顕はれるといふ意見もあるが、淫夢が見たいにもかかわらず悪夢を見ることが殆どの私にとってそれが欲望の顕はれとはどうしても認めることが憚れるやうな夢ばかり見てゐるので、フロイト大先生がいふやうには夢といふものはどうしても解釈できないのだ。そもそも私は無意識といふものに懐疑的であった。仮令、無意識といふ概念を認めるとしても、欲望と抑圧が夢で前意識の検閲から滲み出し、徹頭徹尾無意識が映像化されてゐるものであるにせよ、私が見る夢は悉く私を惨殺するものばかりで、夢の中で語る私の言葉に呼応して夢が変化する様を見るに付け、夢もまたLogosで始まり、惨殺されたときに発する、 ――嗚呼。 といふ断末魔のLogosで終わる、終始言葉が夢の映像に先立つ私の夢はフロイト大先生の夢解釈からは外れてゐるもので、私を惨殺する夢ばかり見る私の欲望は自死といふことになるが、それが私が昼間抑圧してゐるものなのであらうか。私はこの期に及んでも生きたいといふのが真実だと思ひたいが、しかし、死を望んでゐるのであらうか。確かに私は不死身ではないのでいづれは死が訪れるだらうが、それでも少しでも長く生きたいといふのが私の本望なのだ。ところが、私は夢で悉く惨殺される。その私が惨殺される様を分厚いアクリル板の巨大水槽の夢世界の外で冷めた目で見てゐるもう一人の分身の私は、心の中では拍手喝采を送りたげにしてゐるといったが、しかし、夢世界の外部のもう一人の分身の私は、終始冷めた目で私が嬲り殺される様を見てゐるのであった。それが何を意味するのであらうか。ここで意味を問ふことは虚しい限りなのであるが、敢へて意味を問ふならばそれが私の欲望、或ひは抑圧された私の発露と仮定したところで、何の解釈にもならないのである。  さて、それはともかくとして、闇尾超がいふ夢の存在が特異点の存在を暗示するといふ命題の解決点は何処にあらうか。私が夢場では分裂してゐるといふことが、即ち夢場が特異点を暗示させるといふ結論を導くと仮定したところで、私には尚以て腑に落ちないのである。さうではあるにせよ、まづ、闇尾超がいふやうに夢を見るといふことが特異点の存在を暗示させるといふことが正しいと仮定しやう。さうすると私が夢に対して抱いてゐる分裂してゐる私といふ感覚は、正(まさ)しく特異点での去来現が滅茶苦茶な、それでゐて光速を超えて爆発的膨脹をする特異点ならではの特徴と仮定するならば、主体は特異点では分身の術を使ふが如く幾人にも分裂してはそれが一人物へと収束することを繰り返しながら、存在してゐる異形の吾ども、若しくは化け物の吾どもが常態であるといへなくもないことになる。つまり、特異点では、存在が化け物になるといふことであり、夢魔の生贄として分裂した私が差し出されるのは化け物の私であるといふことになる。夢場では存在は実のところ、現実相を喪失してゐて、つまり、質料と形相を最早失ってゐて、それはアインシュタイン特殊相対性理論のE=MC2により質料と形相を喪失した存在はEnergy体へと変化してゐるといふことで、それは詰まる所、私は、光り輝く化け物として、喩へていふなれば、巨大な巨大な巨大な人魂のやうなものとして私は夢場、即ち特異点に存在してゐるのかもしれぬのだ。そして、夢とはその巨大な巨大な巨大な人魂が映す影絵の如きものに違ひない。それを分裂した私は分厚いアクリル板の巨大水槽の夢場外でちんけな装置と冷笑してゐるのだ。同語反復になるが、夢場には巨大な巨大な巨大な人魂と化してゐるであらう私の光が映す夢幻の影絵が見えてゐるだけなのかもしれぬ。  さうすると、闇尾超の謂ふ夢を見られるといふことは特異点の存在を暗示してゐるといふことに繋がり、一応辻褄が合ふことになる。無理強ひもいいところであるが、確かに夢は特異点の存在を暗示させる造りになってゐるのかもしれぬ。
八、 透明な存在
――先日、幼子が斬首され、小学校の校門の前にその斬首された首が置かれるといふ痛ましい事件が起きたが、その犯人の中学生の少年は己のことを「透明な存在」と名指ししてゐた。馬鹿いっちゃ困る。透明な存在? その少年は己を透明な存在と名指せたことで悦に入り、得もいへぬ快楽の境地に惑溺してゐた筈である。その透明な存在を敢へて闇色に染めることで、幼子を斬首する凶行に及んだのである。闇色に染まらずしてどうして幼子の首を切断することができただらうか。透明な存在のその少年は闇色に染まることで、己の闇に巣くふ尋常ならざる己の欲望を知ってしまったのだらう。心の闇といふ言葉が巷間で喧しいが、心はそもそも闇であり、それすら解らぬ精神分析学者は哀れな存在でしかない。その少年は透明といひつつも、闇色に身を委ねたことで、人倫の禁忌を踏み越えて、さうして拓けたところに燦然と輝くその少年特有のLibido(リビドー)を見出したのだ。強烈な死体好事家としての己を見出したのだ。殺人に対して自刃の、つまり、死の衝動の疑似体験を重ねたかも知れぬが、疑似体験のその先に名状し難い性的衝動が、Libidoが開示されたのである。その少年は、幼子を殺害したときに何度も射精した筈である。それでは飽き足らず、更なるOrgasm(オルガスム)を味はひたくて血の臭ひに誘われるやうに幼子の首を斬首し始めたに違ひない。その少年は、幼子の首を刎ねながらこれまた何度も何度も射精し、快楽を貪ってゐたのだ。その時の恍惚状態はその少年がこれまで体験したことがない快楽であり、その興奮に吾を忘れて酔ひ痴れた筈である。射精したいがためにその少年は幼子の首を刎ねたのだ。死体を損壊することに快楽を見出したその少年は、夢心地の中で、己を満喫したであらう。死体の首を刎ねることで充溢した己を味はひ、何度も何度も射精するといふ悦楽に溺れながら、その少年は嗤って幼子の首を刎ねたことであらう。それの何処が透明な存在といふのか。
 これに対しては闇尾超に一理ある。あの少年は多分に闇尾超がいふやうに殺人を犯すことでそれまで知らなかったLibidoを見出したに違ひない。所詮はあの少年はMasturbation(マスターベーション)がしたくて殺人を犯し、幼子の首を刎ねたのだ。つまり、Masturbationの権化と化して快楽殺人を犯したに過ぎないと思はれる。それまであの少年は野良猫などを殺して歩いてゐたやうだが、生あるものの命を詰むことであの少年は己の中で蠢くものの存在に気付き、生き物を殺す度にその蠢くものが血に飢ゑた吸血鬼の如くに殺戮を欲し、さうすることで、あの少年は自慰を重ねてゐたのであらう。そして、絶頂を知ってしまったあの少年は、一にも二にもMasturbationのことしか考へられず、到頭殺人を犯してしまった。幼子を殺したときの快楽といったらあの少年は言葉にできなかった筈である。その衝撃といったならば、もう抑へやうがなかったに違ひない。抑へられなかったが故に斬首に及んだのだ。Knife(ナイフ)で殺した幼子の首を一刺しする度にあの少年は絶倫者のやうに射精をしてゐたことだらう。首をKnifeで切り刻む度にあの少年は全身に電気が走る如くに絶頂を味はひ、その快感にあの少年は全身を投身してしまったのである。あの少年は徹頭徹尾己の快感を貪りたいがためといふ超利己的な欲望にのめり込んでゐた筈である。つまり、欲望で自己完結してしまった哀れな存在であることを知らぬが仏とばかりに底無し沼の底へと辿り着いたことで、あの少年は、 ――Eureka! と、心の叫びを上げたに違ひないのだ。天にも昇る心地といふものを殺戮をすることで知ってしまったあの少年は、全身之欲望と化してギラギラ光る上目遣ひの眼差しを世間に向けながら、異様な妖気を放ってゐるのも知らずに街中をほっつき歩き、頭は殺戮に伴ふ射精といふ絶頂のことで一杯であった筈である。その存在を異様といふ言葉で片付けるのは忍びないが、異形の吾があの少年より先んじてしまったのであらう。そんな奇妙な存在だとは努知らず、あの少年の本質は丸ごとMasturbationになってしまひ、実存は本質に先立つに非ず、欲望が本質に先立つ存在として、動物をどう意味づけるかは難しい問題であるが、その問題は一まづ置いておいて、動物に失礼を承知でいへば、異様な動物となったのである。最早人間であることを断念したのだ。異形の吾があの少年を呑み込んで、獣として生存してゐたのである。  さて、ここでアポリアの出現である。それでも神神は、八百万の神神はあの少年を見捨てないのであらうか。「にんげん」を已めたあの少年に対しても神神は救ひの手を差し伸べるのであらうか。とはいへ、そもそも八百万の神神は異形のものである。この問ひはドストエフスキイの二番煎じにも劣る問ひでしかないが、しかし、神神の問題はどうしても持ち上がるのだ。何故なら、「にんげん」を自ら已めたものにも神神は慈しみの眼差しで「にんげん」を已めたものに対しても、見捨てないのだらうか。中国の影響でこの国には閻魔大王がずでんと存在してゐるものと看做されてゐるが、その論理でいへば、「にんげん」を已めたものは有無もいはずに神神に見捨てられる。それがこの極東の島国の道理なのだ。その少年には、地獄が待ってゐる。これがこの国の道理なのだ。神神は見捨てるが、親鸞を出すまでもなく、この極東の島国では人間社会はその少年を見捨てはしないだらう。この島国では人間社会が見捨てて、「死刑」に処せられない限り、人間社会は犯罪人を見捨てないのだ。尤も、その少年が死したときに閻魔大王が現はれ、地獄行きを告げるのは間違ひない。  しかし、この島国の人間社会は寛容かといふとそんなことはなく、世間は途轍もなく世知辛いのである。異物は排除されるのだ。それでも異物が存在可能な社会が重層的に存在し、何処かしらに異物と烙印を押されたものでも生きていける場が形作られてゐる。つまり、綺麗事のみでは人間社会は存続できなる筈はないのである。本音と建前、村社会、島国根性など、それは皮肉を込めていはれるが、この島国ではそもそもが重層的な社会構造を人間社会はしてゐる。だから、幼子を殺戮し首を刎ねたその少年の居場所は必ずあるに違ひない。つまり、その少年の罰は閻魔大王に委ねられ、宙ぶらりんのまま、その少年は罪を背負って生きていく外ない。生きてゐるうちにその少年がもしも覚醒したならば、或ひは閻魔大王のお目溢(めこぼ)しに合ふ可能性は残されてゐなくもないが、地獄行きを認識しながら生きていくのだ。浄土への道を自ら断ったその少年は、果たして地獄を背負ってでも生きていけるかどうかはその少年次第である。
九、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit. (吾思ふ、故に吾不安になる。そして、吾を超える。)
――デカルトとのCogito, ergo sum.は誤謬である。何故なら吾思ふことが、吾の存在を定義づけることにはちっともならぬからだ。吾は思ふはいいとして、その思ってゐるものが吾であるといふ確信は必ずしも得られぬものである。条件反射的に吾ありには繋がらないのである。なんて天邪鬼だらうと吾ながら苦笑する外ないが、でも、どうあってもCogito, ergo sum.は受け容れられぬ。それをいふなら、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といったほうが余程しっくりとくる。それは何故か。それはいふなれば、思ひに思ひ倦(あぐ)ねて思考が堂堂巡りを繰り返すうちにその堂堂巡りを繰り返す思考にはちょっとづつ差異が生じるのが必然であるが、その状態の時は誰しもが極度の不安の中にあるけれども、ところが、ある時、不意にそれまで堂堂巡りを繰り返してゐた思考は、あらぬ方向へとぴょんと飛躍し、自分でも思ひもかけぬ思考の扉が開き、神の啓示を受けたかのやうにそれまで堂堂巡りを繰り返し思ひ倦ねてゐたことの答へに何故だか辿りつくこと屡屡である。それは余りに摩訶不思議なことであるが、吾思ふといふことは、吾は、不安故に、或ひは思ひ倦ねてゐる故に思ふもので、その思ふといふ行為を通して吾は思考の堂堂巡りといふ渦動に呑み込まれ、息つく島もなく思考の渦動に溺れかかるのであるが、火事場の馬鹿力ではないけれども切羽詰まって南無三、と思ったときにズボズボと思考の渦動に呑み込まれ底へ底へと押しやられたときにぴょんと思考は跳ね上がり、宙空に飛び出すのである。さうして堂堂巡りを繰り返してゐる思考を第三者的審級の位置で見下ろしながらも思考はすかさず天を見上げて、堂堂巡りを繰り返してゐたときには思ひも付かぬ閃きを得るのである。この時、吾は吾を超えてゐるといへる。さうでなければをかしいのである。思考は絶えず吾を超えやうと吾である不安の中で藻掻いてゐるのだ。或ひは未解決問題に対して考へに考へ倦ねた結果、さうして嫌といふほどに堂堂巡りを繰り返し、遂にはその思考の渦動に呑み込まれるのであるが、あな不思議、追ひ詰められた吾の思考は、ぴょんと跳ね上がり、宙へと飛び上がる。その時、思考は吾を追ひ越してゐて、デカルトのCogito, ergo sum.では収まりきれぬ吾の様態が存在する。故にデカルトのCogito, ergo sum.は誤謬である。正しくはCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といはねばならぬ。
 闇尾超は生前、デカルトは嫌ひだといってゐたが、吾思ふに不安を見、そこに思考の堂堂巡りのどうしやうもない渦動を見、さうして思考が不意に飛躍するその不思議な経験を而してCogitoが吾を超える様を結論として導いてゐたか。確かに思考するとはどうあっても堂堂巡りの土壺に嵌まらずしては二進も三進もゆかぬ性質をしてゐて、どん詰まりのどん詰まりで閃くものには違ひない。闇尾超のいふ通り思考は絶えず吾を超えやうと藻掻き苦しみ、苦悶の果てにやうやっと閃くものであるが、それをして闇尾超はデカルトに一杯食はせて見せたか。しかし、闇尾超がCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といふ結論へと至るには何度血反吐を吐いたことだらう。それは想像に難くない。闇尾超のCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といふ結語にはある覚悟が感じられる。それは死しても尚、魂魄は命脈を保ち、搏動してゐるとこの闇尾超のNoteが饒舌に語ってゐることからも解る通り、デカルトに一杯食はせたときの闇尾超は、既に死を覚悟してゐたのだらう。死を覚悟したからこそ、闇尾超はNoteを書き出し、私にそれを残したのだ。さうして私は闇尾超の苦悶の思考に引き回され、かうして闇尾超のNoteを読みながら沈思黙考を迫られる。さうせずば、闇尾超が今にも化け出て私を呪ひ殺すに違ひない。Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.か。森羅万象が変化して已まぬ此の世界において、絶えず己を超えやうと何ものも藻掻き苦悶するとは、闇尾超の口癖だったが、多分、闇尾超は森羅万象が沈思黙考をしてゐて、思考のどん詰まりの渦動の中に溺れかけながら、やっとのことで己の存在を保ってゐると考へてゐたのかもしれぬ。さうであれば、闇尾超の到達した境地はいづれのものも皆、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.の様態にあり、さうして時が流れるとの考へにまで至ってゐると考へられなくもない。仮にさうならば、思考とは正(まさ)しく時間の別名で、時間が流れるところ全て遍く何ものも皆、思考してゐるといふ結論に闇尾超は至ったのではなからうか。森羅万象は思考する。これが闇尾超の思ひ至ったことなのだらう。然し乍ら、そもそも森羅万象が思考するとは何のことだらうか。路傍の石を取り上げてみるが、その石もまた思考してゐると看做せる覚悟が私にはあるのだらうか。確かに万物流転す。世界は一度時間が流れ出したならば、未来永劫に亙って已むことを知らぬが如くに変化して倦むことを知らず。存在はその世界に翻弄され、世界の現象に、ある時は丸呑みされながら、存在自体が変化せざるを得ぬ状況へと投企されるが、外的であらうが内発的であらうが、存在は千変万化し、或ひは最期は無へと突き進んでゐるやもしれぬ。闇尾超はそれは全て遍く思考の為せる業だと看做したに違ひない。もの皆、つまり、存在とは何ものであらうとも思考するものであると。すると、時間もまた、去来現が滅茶苦茶な筈で、時間が数直線のやうに表せるのはそれは時間のほんの一面しか捉へてをらず、時間もまた、思考のやうに過去と現在、過去と未来、未来と現在などを往還してゐて、とはいへ、「在る」と現在看做せてしまふのは、存在は現在に常に拘束されてゐると看做せなくもない。つまり、潜水艦の潜望鏡のやうに存在はちょこっと存在のほんのほんのほんの一部だけは現在といふ事象に顔を覗かせてゐるが、その内実は去来現を自在に飛び交ふ思考=時間がそのどでかい図体を潜水艦本体のやうに去来現に隠してゐるのではないか。ここで物理学のストークスの定理を持ち出せば、円運動をしてゐると、その法線上の運動に変換可能なことから、思考=時間が堂堂巡りに代表される円運動をしてゐると、図らずもその法線上に線上の、つまり、潜水艦の潜望鏡のやうな事象が現はれ、それが海面上を、つまり、現在に軌跡を残しながら航行するが如くに思考=時間は現在に在る存在とは直角を為す不可視の運動体として大渦を巻いてゐると看做せるのではなからうか。そして、闇尾超はその大渦をして杳体と名指してゐたのではなからうか。闇尾超の目には何を見ても其処に次元事象の違ふ大渦の渦動が見えてゐたのではないのではないだらうか。さうならば、全てにおいて合点が行く。だから、Cogito, ergo sum.ではなく、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.なのか。
 私は其処で、闇尾超のNoteから目を離し、天井を見上げた。闇尾超にはこの天井にも大渦を巻いた渦動が見えていたのか。闇尾超よ、それは物自体へ限りなく漸近したといふことではないのか。闇尾超がいってゐた杳体の正体とはカントの物自体に限りなく近しいものだったのかもしれぬ。闇尾超がもうこの世にゐないのが口惜しい限りだ。もっと彼と議論を重ねておけばよかった。後悔先に立たずとは将にこのことで、私は恥ずかしながら、涙を流してゐたのである。
十、 光に対して希望を条件反射的に見てしまふといふ思考は誤謬である
――希望とは闇に紛れ込んでゐるものであり、闇の中に灯る御灯(みあかし)の光に希望を見てしまふ思考はそもそもが誤謬である。光に騙されてはならぬ。闇の中で一点だけ灯る御灯に目の焦点が合ふといふアプリオリな、つまり、生理現象に釣られるやうにして光の背後に存在が控へてゐるからといって、光に希望を見るのは誤りである。闇の中にこそ深海生物のやうなGrotesque(グロテスク)な異形のものがうじゃうじゃゐるそれらが希望の正体であり、光の下で均整な姿形をした一見すると「美」を纏ってゐるやうに見えるものは曲者で、真善美に惑はされてはならぬ。確かに陽光の下、自然は美しく輝いてゐるが、だからといって、自然が存在の希望を受け止めてゐるかといふとそんなことはなく、むしろ自然は穏やかな表情を見せてゐるのは僥倖なことで、自然は何かにつけて存在に牙を剥き、それは凄まじいものである。一度見せた凶暴な自然現象は、何年にも亙って爪痕を残し、例へば人間に限れば、日常を取り戻すのに希望が見出せず、自然に襲はれたときは茫然自失に陥るのがこれまた自然の道理なのだ。さうして絶望の中、一寸先は闇といふ具合に人間は途方に暮れる。この時の状況が余りにも強烈なので闇にではなく光に希望を見出さうと、つまり、それは「希望の光」と呼ばれるのであるが、これが自然の惑はしでしかなく、光明に希望を見ることは悪魔の囁きにも似て土壺に嵌まる端緒になり得るのである。つまり、闇の中に灯る光は周りを見渡せなくするし、視野狭窄に陥る蓋然性が高いのである。さうなると己が間違った道を歩んでゐるかどうか判別できなくなり、大概は直感に頼り、残念な結果に終わること屡屡である。雲間から一筋の光が指す光景は珍しくもないが、しかし、自然の恐ろしさを刷り込まれた存在は、その一筋の光に希望を重ねてしまふ悪癖がある。これは矯正されるべきもので、希望は闇にこそ遍く同確率で鏤められてゐて、存在は闇に鏤められた希望を引っ摑んで闇を例へば実体が姿を隠してゐることから虚数の世界と看做せば、闇には闇に隠れた実体群で充溢してゐて、存在は闇を引っ摑んで無理矢理にも虚数の世界の闇に隠れた実体を触感で以て存在を認識し、さうして闇に穴を開けて、光が差し込んでくるのであるといへる。
――分け入っても分け入っても深い闇                    闇尾超
――趨暗性が強い私は、闇と光を選ぶといふ段になると必ずといっていひほど闇を選ぶのだ。これは生まれ持った天稟のものに違ひなく、闇の中にゐると落ち着く。これは幼き頃から感じてゐる、陽光下の息苦しさに由来するものであった。幼き頃は何故息苦しいのか解らずにいつも泣いてゐた。その息苦しさが何に由来するのか段段と解ってくると、陽光の抑圧ぶり、それは暴君のそれに近しいものであることが解ってくると、尚更私は光を厭ふべきものと看做したのである。それは何故か。私には陽光下の存在――存在なんて言葉は後に知ることになるのであるが――が、「それ」であることを強要されてゐるとしか思へなかったのであった。陽光下では存在は逃げやうがない。「それ」は徹頭徹尾「それ」であらねばならぬ。つまり、陽光下では私は私であることを強要されるのだ。それが息苦しさの根本理由であった。埴谷雄高はこれをして自同律の不快と名指して見せたが、しかし、それは思春期で大概は吾の有様に見切りをつけて過ぎ去る一過性のものに違ひないのであるが、私の場合は、私であることの息苦しさは今以て消え去ることがない大いなる蹉跌であり、其処から一歩も抜け出せぬのである。息苦しさには時空間が私の周辺で歪み、キリキリと私を締め付けるやうに感じられるやうになったことで、その束縛感は更に増幅され、それに対してはもう、お手上げなのであった。だから、私はそれが嫌で昼間は寝てゐて夜になると起き出す昼夜が全く逆転した生活を送るやうになったのである。
 乖離性自己同一障害。私はこの私の趨暗性をさう名付けて遣り過ごさうとしてみたが、全ては無駄であった。それもこれも光に正義があると刷り込まれてゐた結果の惨敗なのである。それに気が付くまでに何年かかっただらう。結局の所、私が辿り着いた結論は光に希望はないといふことなのであった。希望は闇にあるとコペルニクス的転回を行うことで、蹉跌が瓦解したのである。蟻の一穴ではないが、一度瓦解を始めると全ては崩落し、成程と全てに合点が行くのであった。  故に光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬である。この結論に至ることで私は救はれたのであった。
 闇尾超の光嫌ひは有名で、趨暗性といふ言葉は闇尾超にこそ当て嵌まる言葉であり、何故闇尾超が光を嫌ってゐたのかといふことは知らなかったが、さういふことであったか。成程、もう消えかかってゐる記憶を弄ってみると、幼き頃の闇尾超は確かに年がら年中泣いてゐた。自分でも何故泣いてゐるのかその理由が解らないらしく、闇尾超ばかりでなく、周りの大人たちも皆戸惑ってゐたのを覚えてゐる。後年闇尾超はNoteにも書いてある通り、学校にも行かず、昼間は寝てゐて夜になると活動を始める昼夜逆転の生活を送ってゐたが、皆はそれを自堕落なためといって闇尾超に対して眉を顰めてゐたさうだ。しかし、それは間違ひであった。闇尾超は光の下では否が応でも何故だか解らぬがとことん嫌ひな「私」と対峙することになり、それに堪へられなかったのだ。それを闇尾超は陽光の暴君的な抑圧と呼んでゐるが、存在がそれであることを強要される光の下を極度に嫌ってゐたことになる。それに対して息苦しさを覚え、それに加へて時空間がキリキリと締め付ける感触に悩まされてゐた闇尾超は、当然の帰結として、光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬であるといふ結論へと至ったのであった。コペルニクス的転回か。闇尾超がいふ通りだとすると、希望は闇では遍く鏤められてゐることになり、また、闇尾超は闇を虚数の世界とも規定してゐるが、これは私の考へと同じである。その虚数の世界に遍く鏤められた希望とはのっぺらぼうの眷属なのだらうか。何故のっぺらぼうが出てくるかといふと、闇尾超がいふ希望が闇といふ虚数の世界に遍く同確率で鏤められてゐるといふことは、どうしても私の思考の悪癖からのっぺらぼうを想像してしまふのだ。しかし、闇に希望が遍く同確率で鏤められてゐるとは限らない。それは斑に鏤められてゐると考へられなくもないのである。何故なら、闇にはものとして隠匿された存在も秘められてゐて、さうすると闇には見えぬながらも確かに存在してゐるものがあり、闇に遍く希望が鏤められてゐるとはいひ切れないのである。とはいへ、闇尾超は存在に対してさう述べてゐるのではなく、飽くまで希望に対して述べてゐるので、或ひは闇尾超のいふ通り希望は闇の中に遍く同確率で鏤められてゐるとといふ考へも全く否定できるものではない。  仮に闇尾超のいふ通り、光にではなく闇に遍く希望が鏤められてゐるとすると、闇の中で悪戦苦闘してゐる「私」は、希望の中で悪戦苦闘してゐることになる。それは唯、希望が見えてゐないだけで、希望は絶えず「私」にぴたっとくっ付いてゐて、闇へと手を伸ばせばすぐにでも希望に手が届くことになる。しかし、現実はそんなことは決してないのだ。闇に手を伸ばしても希望は摑める筈もなく、その行為は虚しい結果を残すだけといふのが現実ではないであらうか。ここで、思考の相転移といふ考へを持ち込んでみる。闇の中で希望が全く見えずに悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返す中で、「私」はさうしてなんとか希望を見出すこと屡屡である。それは思考が相転移を起こしたと看做せないだらうか。思考の相転移とは、私論に過ぎず、闇尾超の思考の堂堂巡りの末にどん詰まりに追ひ込まれた思考はぴょんと跳び上がり第三者的審級の位置に飛び出るといふ思考に似てゐなくもないのであるが、思考は悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すうちに相転移を起こすのである。相転移を起こした思考はそれまでとは全く違ふ思考の断片や端緒が見え出し、思考の仕方すら変はるのである。然し乍ら、一度の思考の相転移では未だに希望の欠片すらも見出せずに、また、只管に試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すことになる。さうするとまた、思考は相転移を起こし、それまでには全く見出せなかった思考の地平が拓かれるのであるが、それでも未だに希望は見出せない。藁をも縋る思ひで試行錯誤を繰り返し、何とかこの錯綜し混濁し澱んで腐りきった溝(どぶ)水(みず)の如き状況から抜け出さんと藻掻き苦しむ中で、再び思考は相転移を起こす。さうすると、「私」は思考の相転移で変はった思考の欠片や断片の変質により、やうやっと希望の端緒を見出すのだ。そこに至るまでの試行錯誤の繰り返しの失敗の数数は山のやうに堆く積まれ、それに倦み疲れずに試行錯誤を繰り返し、藻掻き苦しむことでやうやっと希望の端緒が見えるのである。ここでいふ思考の相転移とは、思考の仕方の変質を意味するばかりではなく、思考の断片や糸口も全く変容するその様を称して思考の相転移と呼んでゐるのであるが、不意に思考ががらりと変はるといふことはそんなに奇異なことではなく、極普通の出来事として誰にも思ひ当たるものがある筈である。闇尾超がコペルニクス的転回と呼んだ思考の転回は、この思考の相転移のことであるといってもをかしくない。
十一、私を摑まへることは不可能である。何故なら私を摑まへやうとするとハイゼンベルク不確定性原理が立ち塞がるからである。
――私が私を摑まへることは不可能である。何故なら私が私の内部を分け入って私を摑まへやうとしても私に対してもハイゼンベルク不確定性原理が立ち塞がり、私を摑まへたと思っても、それは曖昧模糊とした私に過ぎず、私を確定できぬのである。もし、私なるものが確定して捉へられてゐると思ってゐても、それは私なるものの虚像であって私とは似ても似つかぬもので、私らしきものがゐるのみである。何故ハイゼンベルク不確定性原理が立ち塞がるかといふと、私なるものを摑まへやうとするとき、私なるものは一度たりとも静止したことがなく、それを無理矢理静止させて私なるものをして私だと名指したところで、それは量子と同じく位置が確定できぬやうに私もまた確定できぬ類ひのもので、もしも私が確定できたといふのであれば、それは絶えず蠢き隠遁の術を使って頭蓋内の闇――私はそれを五蘊場と名付け私が現はれる場として規定してゐる――のいづこかに姿を晦ましてゐる筈で、頭蓋内の闇、即ち五蘊場に神出鬼没に出現する私は、捉へどころがないのが実態である。私を捉へる陥穽など五蘊場の彼方此方に罠を仕掛けたところで、五蘊場の私はいづれの罠もするりと擦り抜け、五蘊場の私に哄笑させるのが関の山である。それでも私を摑まへてゐると言ひ張るのであれば、それは私なるものの死体をして私といってゐるだけのことで、それは全く話にならぬ。私を摑まへやうと或る閾値を超えると私は忽然と茫漠として捉へどころがなく曖昧模糊としたものとなり、私を捉へることは不可能なのである。五蘊場における私は素粒子的な存在と看做せなくもなく、私は決して連続的ではなく、ひょいと身を躱してはあらぬ吾に姿を変へること屡屡で、その不連続な吾の在り方はいつかは吾は吾ならざる吾へと変容するべきその予行練習ともこれまた看做せるのだ。吾もまた、私であることに我慢がならず、絶えず憤怒の中にあるのを常としてゐて、憤怒の炎で吾の陽炎が揺らめき立ち、大概はその揺らめき立つ陽炎をして私と名指してゐるに過ぎぬ。仮に本来の吾といふものがあるとして語れば、憤怒の炎で燃え盛った吾は、ゆらゆらと揺れる人魂の如きものとして反物質の存在形態と同じく「反闇」としてその輝きは、周りを照らすことはなく、憤怒の炎で燃え盛る吾のみに収束する不可思議な光であり、Black holeがシュヴァルツシルトの事象の地平面では闇と見えるが、その内実は想像するに光が充溢した強烈な光が内向すると看做せると仮定すれば、反闇の光はBlack hole内部同様に内向する光で包まれてゐるのだ。その内向する光を纏った反闇の本来の吾は、光に包まれながら全く見えぬのである。さう看做せば、そもそも吾の捕獲を目論むこと自体無駄足なのである。
 闇尾超も吾を捉へることはハイゼンベルク不確定性原理によるものと看做してゐて、これまた偶然にしては出来過ぎであるが、頭蓋内の闇を五蘊場と名付けてゐたとは、なんといふ巡り合はせだ。闇尾超は弛まず吾の捕獲を目論んでゐたのだらう。然し乍ら、それは悉く失敗に終はり、ハイゼンベルク不確定性原理を持ち出し、反闇なる考へに思ひ至ったに違ひない。確かに私が吾を摑まへやうとすると、此方の目論見を見透かしてゐるかのやうに悉く失敗に帰す。これは闇尾超のいふ通りなのだ。五蘊場に存在するであらう吾なるものは、私は異形のものとして看做してゐる。闇尾超同様に私は敢へてそれを闇尾超とこれまた同じく異形の吾と名指してこの私とは似ても似つかぬGrotesqueなものとして或る意味異形の吾を見下すかのやうに看做してはゐるが、それは裏を返せば、異形の吾に畏怖を抱いてゐることに外ならず、尤も、私も異形の吾を見たことはないのだ。見たことがないものに異形の吾と名付けて悦に入ってゐるところもなくはないが、しかし、この全く見えぬ異形の吾は、磁石のS極N極ではないが、悉く私とは反発し、私と乖離してゐるのは間違ひない。闇尾超がいふ乖離性自己同一障害といふことはよく解るのだ。ハイゼンベルク不確定性原理か。成程、異形の吾を追へば追ふほど、或る段階、闇尾超はそれを閾値と呼んでゐるが、それを超えるともう雲を掴むやうに茫漠として異形の吾の尻尾すら見つかる気すらせず、茫然自失するのである。吾を見失って茫然自失するとは変なものいひだが、五蘊場の何処かに風穴でも空いてゐるのか、渺渺たる時空間へと通ずるそれはひゅうひゅうと幽かな風音を立ててゐて、五蘊場にはその幽かな風音だけが響いてゐるのであった。そんなことばかりなのである。毎度、異形の吾を摑まへ損ねては茫漠たる、或ひは渺渺たる五蘊場の闇の中で、私はぽつねんと独り孤独に苛まれつつも、にやりと嗤ってはその孤独を噛み締めながら、私から逃げ果せた異形の吾のその狡猾さに舌を巻くのであった。それが、私と異形の吾との関係の全てである。
十二、地獄は復活させねばならぬ
――浄土が天国といふものに取って代はって久しいが、再び浄土と地獄は復活させねばならぬ。特に寂れてしまった地獄は是非とも復活させねばならぬ。それは永劫といふ観念と深く関係してくるのであるが、地獄がなければ未来永劫といふ観念は羸弱(るいじゃく)なものに成り下がるのである。それは何故かといふと地獄こそが未来永劫といふ観念を支へる根本だからである。どうして根本になるのかといふと、地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく地獄の責め苦を受け続けねばならぬからである。地獄の責め苦を受けてゐる途中に意識を失ってしまったならば、それは最早苦悶ではなく無痛状態に終はってしまふからである。それでは責め苦にならぬだ。それ故に地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく、地獄の責め苦を受けねばならぬ。これの何処が永劫に繋がるのかといふと地獄が未来永劫存在するといふことで、現存在はやうやっと己を律し倫理的に現世を生きやうといふ自覚が芽生えるのである。刹那主義や相対主義などの悪魔の囁きに耳を貸さずに生きるには地獄が厳然と存在せねばならぬのだ。ただし、現代においては輪廻転生は許されず、地獄に堕ちたものは未来永劫地獄の責め苦を受け続けるのである。其処には救ひはない。地獄の服役期間などといふ生易しいものは存在せずに一度地獄に堕ちたならば、二度と這ひ上がれぬ形而上学的な世界として復活しなければならぬ。地獄の恐怖政治が罷り通る現世でなければ、享楽的な現世に胡座を舁いて「楽」を貪り喰らふ自堕落な存在に満ち溢れ、人間中心主義といふとんでもない世界が継続し、人間以外は絶滅して行くといふ死屍累累の山が堆く積み上げられるとっても窮屈な世界が展開する筈である。そんな現世では脱人間を声高に叫ぶ新興宗教が勃興し、再び宗教に振り回される絶望的な世界が巻き起こるに違ひない。さうならないためにも輪廻転生がなく未来永劫地獄に堕ちたものの復活は最早ないといふ救ひやうのない地獄の復活が望まれる。其処は奈落のまたその下に位置する新しい地獄で、この此の世への復活がぶち切れた地獄の再生は現世での現存在が「自由闊達」な生が保証される最低条件なのだ。何故自由闊達な生を保証する最低条件かといふと現代のこの島国での倫理の最後の砦は「他人に迷惑をかけぬ」といふことで、この倫理観の羸弱さは言わずもがなである。何故なら地獄がないことで、「誰でもよかった」といふ殺人が余りにも多く、それは他人に迷惑をかけぬといふことと表裏一体なのである。更にいへば猟奇的な殺戮もまた、余りにも多過ぎるのだ。死体損壊もまた、余りにも多いのだ。死者への冒瀆が過ぎるのだ。それを止めるのは復活のない未来永劫責め苦が続く地獄の再生が必要なのである。その地獄の恐怖政治が現世の再生の唯一の道のりである。
地獄の再生か。闇尾超らしいな。闇尾超の頭には魂の未来永劫の存続があるに違ひない。五蘊場に存在すると看做してゐる吾の永続に己の死後を託したのであらう。このNoteには確かに闇尾超の吾、或ひは魂は生きてゐてさうでなければかうして私の心を揺さぶりはしない。このNoteには言霊として闇尾超が存在してゐるのだ。そのために、闇尾超は過去には存在しなかった未来永劫地獄に堕ちたものは救はれない地獄の再生を己の永劫の存続の担保にしてゐるのだ。そこには早逝することに対しての闇尾超の忸怩たる思ひが如実に表はれてゐて、多分、闇尾超は死後、己は地獄にも浄土にも行かぬ未来永劫に彷徨へるものとしてこの地上に留まりたかったのかもしれぬ。地獄も魂の彷徨も浄土も全てが永劫といふ位相で見ればいづれもが断絶してゐて、闇尾超は何としてでも死後の此の世を未来永劫彷徨ひながら、宇宙顚覆の宿願を遂げたいのに違ひない。しかし、闇尾超よ、お前の宇宙顚覆といふ宿願に憎悪以外何があるといふのか。仮に宇宙顚覆に存在革命などといふ取って付けたやうな崇高な考へがあるのであれば、そもそもがインチキだ。埴谷雄高の言ではないが、「インチキをでっち上げる」といふことに血道を上げることにお前の魂の願ひはあるのか。泰然自若としたこの壮大無敵な宇宙をインチキを以てしてその存在根拠の足を掬はうとしてゐるのか。念じ続ければ或ひは宇宙が素っ転ぶとでも思ってゐるのか。全てが不合理だ。へっ、今思ひ出した。さういへば闇尾超は宇宙を認識するには不合理から始めなければならぬといってゐたっけ。闇尾超は全ては承知の上か。それでも尚、宇宙顚覆を企てなければならぬ根拠は何か。闇尾超にとってそもそも宇宙とは闇尾超といふ存在を闇尾超たらしめてしまふことに対する已むに已まれぬ不服従の証だったかもしれぬな。この不愉快を齎す宇宙こそが顚覆されるもので、宇宙への不服従を言挙げした闇尾超は森羅万象を代表して人身御供になったのだらう。さうでなければ、闇尾超のこと、己の死を受容できる筈はないではないか。無念を晴らすためにも闇尾超は未来永劫に亙って輪廻転生せぬ地獄の再生を目論んだに違ひない。
十三、実念論私論
――ソクラテスプラトンに系譜を持つ観念実在論としての実念論とは何の関係のない「念が存在に先立つ」といふ大義名分を掲げた実念論を私は信ずる。さうでなければ、森羅万象が千変万化するこの世界の有様が説明できぬ。念が存在に先立つことでのみ、ちんけな吾からの脱出が可能で、そもそも念は自在である。自在な念に追ひ付かうとして吾は変化(へんげ)を重ね、それでも全く追ひ付けないからこそ吾の存在価値があるともいへる。それは世界に順応するためにはどうあっても念が存在に先立ってゐなければならぬ。目眩く変化する世界に対して悠長な吾に存在を任せてゐては死滅するのが落ちである。念により吾は尻を叩かれないことには変化しやうとはしない。それは今ある世界に対して吾は順応してゐるから胡座を舁き、例へば世界が急激に変化したとき、変化する前の世界に最も順応してゐた存在がまづ、滅んで行くのは世の必然である。世界の変化に絶えず存在は先んじてゐなければ、存在はサルトルのいふやうに偶然の必然に帰すのみである。それでは存在の存続は覚束なく、激変する世界、若しくは自然の中で、存在を存続させるには絶えず変化を渇望してゐる念の存在が決定的な意味を持つのだ。念が存在に対して先んじてゐるからこそ、激変する世界の中で、生き残る存在は必ず存在してゐて、それが路傍の石であっても激変する世界には順応してみせるのだ。況して生物においては何をか況や。いづれの存在、つまり、森羅万象は互ひに念が先んじてゐることで世界の様相は渾沌の坩堝と化し、その中で、念が先んじてゐない存在は死するのみである。念が複雑に絡み合って世界の渾沌が生じてゐると考へれば、吾先を争って存在に先立つ念により、見事に変化して見せて渾沌の世界に絶えず順応するのである。そして、念は一度出現すれば、それは未来永劫に亙って存続するに違ひない。否、それは根拠薄弱だ。さうあって欲しい。念は未来永劫に亙って存続して欲しい。髑髏の五蘊場に留まるも善し、髑髏の五蘊場から解放されて、この世界、或ひは宇宙を自由自在に飛び回るも善し。
最近、死に行くもの、若しくは死したものたちが、感応してならないのだ。誰だか解らぬが多分、死に行くものなのだらう。私の五蘊場に死に行くものの念のカルマン渦が生じるのだ。それはどういふことかといふと、死に行くものの念が、多分、星が死に行くときに超新星爆発するやうに激烈な爆発を起こし、念が光速を超えて膨脹しては私の五蘊場が川に立つ杭の如くに作用して、その膨脹し行く念が私の五蘊場でカルマン渦を巻き、死に行くものの心残りの夢などが鮮烈に見えるのだ。それは不思議な出来事で、私はそれを念のRelayと呼んでゐるが、さうしたことが世界各地で起きてゐるに違ひないとも思へるが、しかし、私はその死に行くものの念に指名されたのも確かに違ひない。さうして念はRelayされ、未来永劫に亙って存続する。さう考へずば、説明がつかないことが私の身に起きてゐる。そして、これは私の死が近い徴なのだらう。死んだものたちの念が想起されて仕方ないのだ。死んだものたちは生き生きとしてゐて、此の世の春を愉しんでゐる。それを思ひ出といふには余りにも肉感的なのである。生生しいのだ。夢幻が逆転し幻の方が肉界ではないかと思へるほどに肉感的で余りにも生生しいのである。それも念のRelayの為せる業なのだらう。私の肉体が念の通り道になってゐるとしか思へぬのだ。この不思議は死に行くものや死んだものたちが私に念をRelayし、肉界での念の夢中遊行の実現をさせてゐるに違ひないのだ。イタコではないが霊が降りてくるやうに念が私を突き動かすのである。
 今度は闇尾超特有の実念論か。念が存在に先立つとは之如何。イタコのやうに霊が降りてくるが如く念が闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻くとは、一体、闇尾超の身に何が起きてゐたのだらうか。当然、闇尾超自身の念も闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻いてゐた筈である。だから、死に行くものの、そして死んだものたちの念が肉界のやうに肉感的で生生しかったのだらう。死が星の最期の超新星爆発の如く光速を超えた激烈な爆発を伴った膨脹だと。それが闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻いて、死に行くものの名残惜しい夢などが生生しく鮮烈に見えるといふこととは、之如何。闇尾超はある種の神秘主義に辿り着いてしまったのだらうか。仮にさうだとして、念のRelayか。憤怒のRelayと私は闇尾超に見てゐたが、それは間違ひのやうだ。精神のRelayとは埴谷雄高の言だが、闇尾超が敢へて念といふからには、確かに闇尾超の五蘊場は念の夢中遊行の場と化してゐたのだらう。念と念が出遭ふとき、既にお互ひの勝手を知ってゐて、一瞥する前にお互ひのことが心の髄まで解る不思議な体験に遭遇してゐたに違ひない。生生しい念たちの交感。その輪の中心に闇尾超の念がゐた筈である。それはさぞかし愉しかったのだらう。闇尾超をして念が存在に先立つと言はしめたことは、デカルトに反旗を翻しCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.との思考に到達した闇尾超のこと、思考が吾を超えるやうに闇尾超の念も闇尾超を超えてしまったに違ひない。その奇異な体験が死期迫った闇尾超の身に起きたといふことは、闇尾超にとって強烈な体験だったのだ。それが余りにも生生しかったので、闇尾超はCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.の正しさを噛み締めてゐたのかもしれぬ。これが闇尾超がデカルトを凌駕した瞬間だったのかもしれぬ。死を前にして漸くデカルトの呪縛から解放された闇尾超は、さぞかし嬉しかったに違ひない。 ――祝杯だ。酔ひ潰れるまで飲まう。 と、闇尾超に念のRelayを託した念どもと闇尾超は最期の晩餐を自覚して飲み明かしたのだらうか。勝手知ったる念どもとともに心行くまで闇尾超は死が迫った残り少ない日日を愉しんだのかもしれぬ。
十四、闇の世界を握り潰せし
――詩を書いた。
闇の世界を握り潰せし
私は其処に何かの兆しがないかと眼前の闇を只管に凝視す。 ――何(なに)故(ゆゑ)か、吾なるものが憤怒の燃え盛る炎と化し、全身には蝋燭の炎が最期の瞬間に一際輝くのに似て力が滾(たぎ)るのは。 さうして吾は内部の囁きに唆されるやうに眼前の闇の世界を無性に握り潰したき。 ――闇の世界? 其は何ものぞ。ちぇっ、そんなものは犬にでも呉れちまえ。 吾ながら珍しくをかしかったので、 思はず苦笑するも、忌忌しき闇の世界はまんじりともせず黙して語らず。 ――嗚呼、かうして吾なるものは滅び行くのか! 吾は愈愈(いよいよ)最期の時を迎えしか! さう私は独り言ちてはむんずとか細い手を力なく伸ばしては内部に滾る力を一心に手に込めて闇の世界を握り潰せし。 すると、闇の世界は静寂を邪魔せしものの出現で憤怒の声を上げし。 ――何するものぞ! 世界と呼ばれしこの吾をだ、握り潰して変へやうとする不遜な輩は! 吾が貴様に変えられやう筈もない! ぶはっはっはっ。 だが、ふと漏らしたその哄笑で世界は存在を始めし。 さう、存在しちまったのだ。 闇の世界は虚しく響く哄笑を発せし為に 図らずも意に反して存在を始めし。 その刹那、闇の世界は呻き。 ――しまった!
このやうにして 世界は始まりし。 だが、宇宙は未だ微睡みの中。 待つのは巨大な巨大な巨大な鉄槌を振り下ろせし神の一撃のみ。 さうして宇宙は始まりし筈が、 当の宇宙は生まれたがらずあり。 而して神の一撃は振り下ろされたし。 さうして宇宙、開闢す。
けれども、闇の世界は私とともに再び業の中に埋没す。                                        完

蟻地獄

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蟻地獄
 それは近所の神社の境内で罐蹴りか、或ひはかくれんぼをしてゐた最中に不意に高床の社の床下に隠れやうとした刹那に見つけてしまつた筈である。それが薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の幼虫である蟻地獄と名付けられたものの在処であつたことは、家に帰つて昆虫図鑑で調べるまでは解からなかつた筈なのに、幼少の私はその擂鉢(すりばち)状をしたその形状を一瞥しただけで一辺に惚れ込んだ、つまり首つたけになつたのは間違ひないことであつた筈である。其処には、丁度雨が降りかかるか降りかからぬかの際どい境界の辺りに密集して、擂鉢状の小さな小さな小さな穴凹が天に向かつて口を開けて並んでゐたのであつた。さて、さうなつたなら罐蹴りかかくれんぼかは判然としないが、どちらにせよ、そんなものはそつちのけで未知なる蟻地獄を調べることに夢中になつたのは当然の成り行きであつた筈である。それは、多分、こんな風に事が運んだ筈である。先づ、擂鉢状の蟻地獄をちよこつと壊してみるのである。さうして、そのままちよこつと壊れた蟻地獄をじつと凝視したままでゐながら己でははつきりとは解からぬが何かが現はれるのを仄かに期待してゐる自分に酔ふ如くにそのまま凝視してゐると、案の定、其処は未知なる生き物の棲み処で小さな小さな小さな擂鉢状の穴凹の底の乾いた土がもそつと動いたかと思ふと、直ぐ様餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてか、蟻地獄の主たる薄羽蜉蝣の幼虫が頭部で土を跳ね上げる姿を幽かに見せて、暫くするとそのちよこつと壊れた蟻地獄を巧みにまた擂鉢状に修復する有様を目の当たりにした筈である。幼少の私は、思ひもよらずか、或ひは大いなる期待を抱いてかは如何でもよいことではあるが、しかし、その擂鉢状の乾いた土の中から未知なる生き物が出現したのであつたから歓喜したのは言ふまでもない。さうなつたからには修復されたばかりの擂鉢状をした蟻地獄をまたちよこつと壊さずにはゐられなかつた筈である。今度はその小さな小さな小さな擂鉢状をした乾いた土の穴凹に棲む未知なる生き物たる蟻地獄を捕まへる為である。幼少の私は、特に昆虫に関しては毛虫やダニや蚤やゴキブリに至るまで素手で捕まへなくては気が済まない性質であつたから、未知なる生き物を捕まへようとしたのは間違ひのないことであつた。期待に反せず蟻地獄のその小さな小さな小さな乾いた土の穴凹の底がもそつと動いた刹那、私はがばつと土を掴み取り、その擂鉢状の穴凹に棲んでゐる主を乾いた土の中から掬ひ上げたのであつた……。  それは朽木に巣食ふ白蟻をちよつとばかり膨らませたやうな、或ひは鋏虫(はさみむし)の一種のやうな、或ひはダニの一種のやうな、或ひは蜻蛉(とんぼ)の幼虫であるやごに姿形が似てゐることから蜻蛉の一種の幼虫のやうな、将(はた)又(また)私が知らない鍬形(くわがた)虫(むし)の新種のやうな、兎に角奇妙でゐて底知れぬ魅力に富んだ姿形をしたその生き物が乾いた土の中から蟻やダンゴ虫等の虫の死骸と共に現はれたのである。 ――何だこれは?   未知の生き物との遭遇は何時も胸躍る瞬間である。唯、幼少の私はその毛虫の如き、或ひは、天道虫(てんとうむし)の幼虫のやうな、将又蜻蛉の幼虫たるやごにも似たその姿形を見た刹那、蛾の仲間か、或ひは蜻蛉か、或ひは天道虫や甲虫(かぶとむし)や鍬形虫と同じやうに、何かの昆虫の幼虫であることは直感的に見抜いた筈である。 ――何だこれは?   掌中に残つた土に姿を隠さうと本能的にもそもそと後じさりするその未知の虫の未知の幼虫をまじまじと凝視しながら何度も私は心の中で驚嘆の声を上げた筈である。 ――何だこれは?  と。次に私は、多分、恐る恐るその小さな未知の生物を触つたに違ひない。そしてそれは思ひの外ちよこつとばかり柔らかいので再び ――何だこれは?  と驚嘆の声を心中で上げた筈である。さうして私はその未知の生き物を眺めに眺めた末に元の乾いた土の上にその未知なる生物を置き、将又まじまじとその未知なる生き物の所作を観察した筈である。その未知なる生き物はあれよと言ふ間に土の中に潜り、小一時間程そのまま眺め続けてゐるとその生き物が平面の平らな乾いた土を擂鉢状に鋏状になつた頭部で跳ね上げながら巧みに作り上げる様を飽くことなく眺め続けた筈である。それにしても幼児とは残酷極まりない生き物である。知らぬといへ、蟻地獄の餌である蟻等の地を這ふ昆虫がその小さな小さな小さな擂鉢状の乾いた土の穴凹に落ちることは蟻地獄にとつて正に僥倖に違ひなく、蟻地獄とは何時も餓死と隣り合はせに生きる生き物であつたので、蟻地獄の巣が少しでも壊れると温存しておかなければならぬ体力を消耗してまで蟻地獄は土を跳ね上げて餌を穴凹の底に落としにかかる労役に違ひない体力を消耗することを敢へてするにも拘はらず、幼少の私は、やつと出来上がつたばかりの擂鉢状のその小さな小さな小さな蟻地獄の巣を再びちよこつと壊しては、再度餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてその乾いた土の穴凹の底で土を跳ね上げては虚しき労役をした挙句に再び擂鉢状に乾いた土を巧みに作り上げるといふ、幼少の私にはこれ程蠱惑的なものはないと言つたその蟻地獄の一挙手一投足の有様をみては、再びその蟻地獄をちよこつと壊すことを何度となく繰り返しながら、何とも名状し難い喜びを噛み締めてゐた筈である。  最初に土を掬ひ上げた時の蟻等の昆虫の死骸が蟻地獄の餌であることはその日満足の態で家に帰つて昆虫図鑑で調べるまでは解からなかつたに違ひない幼少の私は、その時、その周辺に密集してゐた蟻地獄の巣を次から次へと壊しては蟻地獄にその擂鉢状の乾いた土で出来た巣を修復させるといふ《地獄の責め苦》を、知らぬといへ蟻地獄に使役させることに夢中になつてゐたのであつた……。幼少の私にとつては蟻地獄が土を跳ね上げる様が力強く恰好よかつたに相違なく、私はその後も何度も何度も擂鉢状の蟻地獄の巣を壊しては蟻地獄が頭部で乾いた土を跳ね上げる様を見てはきやつきやつと心中で歓喜しながら蟻地獄に対して地獄の労役をさせ続けたのであつた……。  家に帰つても未だ興奮冷めやらぬ筈であつたであらう私は、家に帰り着くや否や直ぐに昆虫図鑑を取り出して今さつき出遭つたばかりの未知なる生き物が何であるのかを調べ始め、さうして、遂にあの未知なる生き物が何と蟻地獄と名付けられてゐるのを昆虫図鑑の中に見つけた刹那、「あつ」と胸奥の何処かで叫び声を上げたに違ひないのである。 ――蟻地獄――。  私の大好きな昆虫の一つであつた蟻の而も地獄! 何といふ名前であらうか。多分、幼少の私は何度も何度も蟻地獄といふ名を胸奥で反芻してゐた筈である。 ――蟻地獄――。  その名は様々な想念を掻き立てるに十分な名のであつた。蟻地獄といふ名は今考えても何やら此の世ならぬ妖怪の名のやうな奇怪な名なのであつた。名は体を表わすと言へばそれまでなのであるが、それにしても蟻の地獄とは何としたことであらうか。幼児の私はその名すらも知らなかつた《虚無》若しくは《虚空》といふ言葉が持つ《魔力》と同じやうなものを、それとは名状し難いとはいへ、直感的に、または感覚的に蟻地獄と名付けられたその生き物に感じ取つてしまつた筈である。幼少とはいへ、私は茫洋とだが直感的には掴み得る蟻地獄といふ名に秘められた此の世にぽつかりと空いたあの《深淵》の形象をそれとは微塵も知らずに蟻地獄という言葉に見出してしまつた筈であつた……。 ――蟻地獄――。  それは此の世と彼の世を繋ぐ呪文の如く突如として私の眼前に現われたのであつた。 ――蟻地獄――。  幼児の私は既に地獄とは何か知つてゐた筈である。さうでなければこれ程までに蟻地獄に執着する筈はなかつたに違ひないのである。それは例へば親が深夜の寝室で性交してゐる情景を目にしたかの如く、何やら見てはいけないものを見てしまつた含羞をも併せ持つた言葉として幼児の私に刻印されたのであつた。 ――蟻地獄――。  それは此の世では秘められたままでなければならぬ宿命を持つた存在として幼児の私には感じ取られたのかもしれなかつた。それ程までに《蟻地獄》といふ言葉は何とも不思議な《魔力》を持つた言葉なのである。その後何年も経なければ知りやうもなかつた《深淵》といふ言葉が、蟻地獄のそれと気付いたのはパスカルの「パンセ」を読んだ時であつたが、幼児の私は、《深淵》といふ言葉を知る遥か以前に《深淵》に対するある種くつきりとした《形象》を、蟻地獄を知つたことで既知のものとして言葉以前に直感的なる《概念》――それを《概念》と呼んでよいのかどうかは解からぬが――、しかし、《概念》若しくは《表象》若しくは《形象》等としか表現できないものとして私の脳裡の奥底にその居場所を与へられることになつたのであつた。 ――蟻地獄――。  蟻やダンゴ虫等、地を這ふ生き物を餌としてゐた蟻地獄の生態を知るにつけ、成程、蟻地獄を捕まへるべく蟻地獄の巣ごと手で掴み取つた時に、蟻やダンゴ虫の死骸も一緒に掌の上にあつたのも合点のいくことであつた。それにしても蟻地獄の生態は奇妙なものであつた。何故蜘蛛の如く罠を仕掛けてじつと餌があの小さな小さな小さな擂鉢状の罠に落ちるのを待ち続ける生き方を選んだのか、幼児の私は知る由もなかつたが、しかし、その生き方にある種の《断念》の姿を、もつと態よく言へば《他力本願》の姿を見たのかもしれなかつた。  《自力》で餌を追ふことを《断念》し、只管(ひたすら)あんなちつぽけな擂鉢状の穴凹に蟻等が落ちて来るのを待つ《他力》に自らの生死を全的に任せてしまつたその蟻地獄の生き方に、餓死することも覚悟した上での《他力本願》の一つの成就した姿を、幼児の私は親鸞を知る遥か以前に知つてしまつたのかもしれず、その蟻地獄の、一方である種潔い生き方は、尚更、蟻地獄を興味深き《正覚》した生き物として、しかし、当の私本人はそれとは露知らずに脳裡に焼き付けることになつたのかもしれなかつた。 ――蟻地獄――。  蟻地獄にとつて餓死は普通にある当たり前のことであることが解かると、私にとつて蟻地獄はそれだけで既に餓鬼道を生きる愛おしい生き物に成り果せたのであつた。 ――蟻地獄――。  この愛しき生き物の生き方は幼少の私にとつて特別な衝撃を与へ、その衝撃の影響の大きさはずつと私の脳裡に留まり続けたまま、後年はつきりと言葉で知ることになつた《他力本願》を此の世で実践して見せる《正覚者》として、また、蟻地獄は他の生き物と比べて別格の生き物として、私に記憶されることになつたのであつた……。  その日から私の闇に包まれた漆黒の頭蓋内にも、今もその陥穽たる罠に引つ掛かり落つこちる、さながら蟻と化した《異形の吾》をじつと待つ蟻地獄が巣食つてゐるのである。その蟻地獄はその姿を決して私の頭蓋内に現はすことはないのであつたが、隙あらば《吾》自体を喰らふべく、その畏怖すべき気配ばかりを強烈に漂はせながら闇黒の私の頭蓋内に身を潜ませてゐたのであつた。  ところで、その日、すつかり蟻地獄の虜になつてしまつた幼少の私は、興奮が収まらぬまま布団に潜り込み、電燈が消された闇の子供部屋の中、じつと闇を見据ゑてその日の出来事の一部始終を反芻してゐた筈である。而して幼少の私の頭蓋内の闇には唯一つの疑問が蝋燭の炎の如く灯つてゐたに違ひないのである。 ――何故蟻地獄は餓死を覚悟した上であんな小さな小さな小さな擂鉢状の罠に自身の生存の全てを委ねてしまつたのであらうか?   幼少の私にとつてその疑問は疑問として無理からぬのであつたが、しかし、その答えは意外と簡単なのである。蟻地獄が蟻を追つて蟻を捕獲する道を選んだとすると、それは蟻地獄にとつては最も確実至極な自殺行為に外ならないといふことなのである。蟻程恐ろしい昆虫は此の世に存在しないのである。蟻にかかれば此の世の森羅万象が蟻の餌になつてしまふ程に蟻の団体としての力は凄まじいのである。  蟻の巣の出入り口を一日眺めてみれば、蟻が生きとし生けるもの何でも餌にして、自身一匹では到底歯が立たぬ相手も数の力で圧倒し餌にしてしまふその凶暴振りに感嘆する筈である。その蟻を主食として選んだ業として蟻地獄はその身を地中に潜ませ、単体としての蟻を捕まへる外に蟻を餌とするのは不可能なのである。その餌を追ふことを《断念》し、此の世の《最強》の生き物たる蟻を餌にしてしまふその図太さの上に餓死をも厭はぬ餓鬼道をその存在の場にした蟻地獄のその徹底した《他力本願》ぶりは、私に一つの《正覚者》の具現した例証を齎すのであつたが、しかし、その此の世の《最強》の《正覚者》が此の世に隠微にしか存在しないその有様は、何か《存在》そのものの在り方、若しくは《物自体》の有様を暗示してゐるやうに思へなくもなかつたのである。爾来、私の頭蓋内の闇には前述したやうに私自体を喰らはうとその身を闇に潜めてゐる蟻地獄が巣食ふことになつたのであつた。  それにしても蟻地獄が餓鬼道に生きるのは蟻を餌にしたことに対する因業にしか思へぬのは何故なのであらうか? そして、蟻の存在が蟻地獄を此の世に出現させた因に外ならないやうな気がしてならないのは何故なのであらうか? つまり、此の世の摂理とは、それを因果応報と呼ぶとすると、《存在》には必ず《存在》を餌にする蟻地獄の如き《地獄》がその陥穽の大口をばつくりと開けて秘かに《存在》が堕ちるのを待ち構へてゐるに違ひないのである。  《存在》が一寸でもよろめいた瞬間、《存在》は蟻地獄の如き底無しのその奈落へ堕ちて、《神》に喰はれるか、或ひは《鬼》に喰はれるか、或ひは《魔王》に喰はれるか、将又(はたまた)永劫にその奈落に堕ち続けるかするに違ひないのである。それをパスカルは《深淵》と呼んだが、此の世に《存在》してしまつたものは何であれ《吾》を強烈な自己愛の裏返しで憎悪し、《吾》以外の《何か》へ変容することを絶えず強要されながら、しかも、《存在》の周辺には底無しの《深淵》が犇めいてゐる《娑婆》を生きる外ないのである。其処で ――それでは何故《存在》が《存在》するのか?  といふ愚問を発してみるのであるが、返つて来るのは無言ばかりである。そしてこの無言なる《もの》が曲者なのである。ドストエフスキイは、この無言なる《もの》が全てを許してゐると仮定して《主体》なる《存在》のその悍(おぞ)ましさを巨大作群に結実させてゐるが、さて、その無言なる《もの》を例へば《神》と名指してみると、《存在》はその因果応報の円環から遁れる術をドストエフスキイ以上に人類に提示した人間がゐるかと問ふてみるのであるが、答へは未だに「否」としか答へられない憾みばかりが残るのである。それ故に先の愚問に対する答へは自身で発するしかないのであるが、私の場合、今もつて何も答へられず、唯、私の頭蓋内の闇の中に《吾》を、つまり、《異形の吾》を喰らふ蟻地獄を潜ませるのがやつとなのである。  高気圧の縁を高気圧からの、若しくは自己以外の外部の風に流されるままにしか動く外ない颱風は、一方で颱風内部では猛烈な風雨が渦巻く颱風のその動きは、しかし、如何見ても颱風が自律的に動いてゐるとしか見られない私の心模様を映す形で《無言》の《神》に対峙する《吾》は、自己内部の猛烈な風雨に比べると羸弱(るいじやく)でしかない外部のその風に流されてゐるに過ぎない颱風が恰も自律的に動いてゐるやうに見えてしまふ如く、《神》から《自由》を与へられてゐる錯覚の中に、換言すれば、《神》から吹く心地良き風には無知を装ひその風を風ではなく敢へて《自由》と名付けては嬉々として、その《自由》を満喫するべく更なる《自由》を求めることで返つて颱風の如く外部から吹き寄せる微風に過ぎぬ《自由》に呪縛されてゐるにも拘はらず、さうとは全く気付かなかつた《吾》自身が単なる外部の心地良き微風に過ぎぬ《自由》に流されてゐるだけといふ錯誤の中に憩つてゐる大馬鹿者に過ぎないことに不意に気付いてしまふと、《吾》といふ生き物は狼狽(うろた)へるのである。その狼狽へ方は数の力を借りると此の世で最強な《存在》にも拘はらず、しかし、蟻地獄に落ちると羸弱な《単独者》に為り果てて、正に一匹の羸弱な蟻に変化してしまふ如き《存在》なのであつた。  経験則に照らすと《自由》を謳歌するには蟻地獄に落ちた《単独者》たる一匹の羸弱な蟻になる覚悟が《何か》によつて強要される。それは台風の進路を予測するのに隣り合ふ高気圧のことを全く考慮せずに台風の進路を予測するといふ、換言すれば暗中の中を灯り無しに突つ走る《愚行》と同じことなのかもしれないのである。つまり、颱風が自律的に自身の意思で動いてゐると看做す《暗愚》とそれは同じで、しかし、さうとはいへ、それでも尚颱風が自己たる《吾》の意思に従つてあくまで自律的に動いてゐると看做して只管(ひたすら)自己弁護する哀れな《吾》を主張するはいいが、しかし、その実、後に残るのは只管自身内部で空転し猛烈な風雨が逆巻く己の有様だけに対峙する世界=内に閉ぢてしまつた阿呆な《存在》の姿である。そしてそんな颱風の《自意識》は絶えずこんな愚問を己に発してゐる筈である。 ――はて? この渦に呑み込まれる《吾》とは、一体何なのであらうか?  と。例へば仮に颱風にも自身を客観視して已まない《異形の吾》若しくは《対自》といふ自我が芽生えてゐるならば、その《異形の吾》は、自身が最早自身が渦巻くその渦から決して出られない、恰も蟻地獄に落ちた蟻の如き自身を苦笑する外ないのである。此処で止揚などといふインチキを用ひるのは禁物である。未だ嘗て《吾》から出られた《吾》は此の世に《存在》することを許されてゐない筈だからである。さうならば、颱風もまた己からは死んでも遁れられない《異形の吾》といふ何とも悩ましい自我を抱へ込まざるを得ないのである。 ――出口無し――。  これが《異形の吾》が自身に発せられる唯一の言葉に違ひない。それは当然至極なことである。《吾》といふ《存在》は、それが何であれ、《吾》といふ《存在》から決して出られない故に、《吾》が《吾》である保証、若しくは存在根拠を辛うじて維持してゐられるのである。仮令《吾》が《他》に変化出来る魔法を《吾》が手にしたところで、結局のところ、《他》に変化せし《吾》は《吾》でしかないのである。 《吾》とは、《吾》が《吾》であることを自覚させられ、また、その出自の如何に拘はらず、《吾》は蟻地獄に落ちた一匹の蟻の如く《吾》といふ《場》から最早永劫に出られぬことを決定させられた《存在》なのかもしれない。そんな《吾》はその《存在》の、若しくは意識活動の大半を《異形の吾》の憤懣を宥(なだ)めすかすことに費やされることになるのである。その因の一部は「他人の庭はよく見える」といふ喩へ通り《他》と己を比較することからも生じるが、しかし、さうとはいへ、己といふ《存在》が自身の《存在》に満足することはあり得ず、仮に自身に満足してゐる《吾》が《存在》するとすれば、それは《吾》の怠慢でしかない。《吾》と名指された《存在》は絶えず内外から自身の《存在》を喪失するかもしれぬ恐怖に苛まれながらも《吾》を此の世に屹立させて、だがその《存在》の仕方は《吾》といふ《存在》の自棄のやんばちでしかないが、しかし、何としても自身の《存在》を崩壊の危機から救ふべく《吾》は此の世に対して、若しくは《神》に対して ――《吾》、此処に在り!  と叫ばずにはゐられないのである。だが、一方で ――その《吾》に何の意味がある?  と、更にぼそつと胸奥で呟く《吾》がまた《存在》するのである。スピノザ風に言へば、そのぼそつと呟いた《吾》がまた《吾》の胸奥の奥の奥に《存在》する、そして、《吾》にぼそつと呟く胸奥の奥の奥の奥の別の《吾》といふ関係が《無限》に続く、云々。それ故その《吾》とはabsurb、つまり、不合理である、と、其処で《無限》といふ《もの》へと思考の飛躍に駆られたくなる衝動もなくはないが、しかし、幾ら ――その《吾》に何の意味がある?  と、胸奥でぼそつと呟く《吾》が《存在》しようとも、《吾》は《吾》からは逃げ出せないのである。そしてまた、 ――だからそれが如何したといふのか?  と、自身を嘲笑ふ《吾》もまた己には《存在》し、絶えず己を嘲笑してゐるのである。そな《吾》を嘲笑する《吾》自身を敢へて規定するならば、一人称でもあり、二人称でもあり、三人称でもあり得るし、更に言へば、《四人称》と名付けたくなる《脱自》すらをも何なく飛び越えてしまふ《存在様式》を持つ《吾》が《単独者》として《存在》してしまふ宿命にあるのかもしれない……。  そして、その《四人称》の《吾》とは颱風の如く自身の内部では猛烈な風雨が逆巻く自身の渦に呑み込まれた何とも摩訶不思議な《存在》の仕方をする《吾》であり、此の世で最強の《もの》のなれの果てたる蟻地獄に落ちた一匹の羸弱な《単独者》たる蟻の如き《もの》として私には表象若しくは形象されるのであつた。  さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラつクホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすつぽりと嵌まつて其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとつて《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとつてその《吾》は如何あつても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽつかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引つ掛かつてしまふのである。  《主体》は宇宙史の全史を通して穴凹が塞がりこの宇宙から自存した《存在》として出現した例は今のところ無い筈である。眼窩にある目ん玉の瞳孔を通して外界を見、鼻孔を通して呼吸をし、口を通して食物を喰らひ、肛門を通して排便をし、生殖器を通して性行為をする等々、《主体》は必ず外界に開かれた《もの》として此の世に現はれるのである。つまり、《主体》はこれまで一度も穴凹が塞がれた《単独者》であつたことはなく、《主体》自らが穴凹だらけといふばかりでなく、外界たる世界もまた《客体》即ち《他》といふ特異点の穴凹だらけの《もの》として《主体》には現はれてゐる筈なのである。そして《主体》にとつては内外を問はず深淵たるその穴凹に自由落下する方が《楽(らく)》なのもまた確かなのであるが……。 ………… …………  さて、翌日、小学校から帰つた私は一目散に例の神社へと向かつたのであつた。其処で幼少の私は先づ何故蟻地獄が高床の神社のその床下の乾いた土の、それも丁度雨が降り掛かるか掛からぬかの境界に密集してゐるのかを確かめた筈である。そして、私は、蟻地獄が密集してゐるその方向の数メートル先に桜の古木が立つてゐるのを認めたのであつた。幼少の私は多分、何の迷ひもなくその桜の古木に歩み寄り、そして蟻の巣を探した筈である。案の定、その桜の古木の根元には黒蟻の巣の出入り口があり、絶えず何匹もの黒蟻がその出入り口を出たり入つたりしてゐるのを見つけたのであつた。 ――やはり、さうか。  蟻地獄が雨が降り掛かるか掛からぬかの境界辺りに密集してゐたのは自然の摂理――これは一面では残酷極まりない――としての生存競争故の結果に過ぎなかつたのであつた。そして、幼少の私は其処で黒蟻を一匹捕まへて蟻地獄が密集してゐる処に戻つたのである。次にざつと蟻地獄の群集を見渡し、その中で一番穴凹が小さな蟻地獄に捕まへて来た黒蟻を抛り込んだのである。 ――そら、お食べ。  擂鉢状の穴凹の底からちらりと姿を現はした蟻地獄は、果たせる哉、昨日目にした蟻地獄とは比べものにならぬ程、小さな小さな小さな姿を現はしたのである。その小さな蟻地獄は高床下の最奥に位置してゐたに違ひなく、私は、その小さな蟻地獄が黒蟻を挟み捕まへて地中に引き摺り込む様をじつと凝視してゐた筈である。 ――そら、お食べ。  後年、梶井基次郎の「桜の樹の下には」に薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の死骸が水溜りの上に石油を流したやうに何万匹もその屍体を浮かべてゐるといふやうな記述に出会つてからといふもの、桜を思へば蟻地獄も必ず思ふといふ思考の癖が私に付いてしまつたのは言ふ迄もないことであつた……。 (完)

光に希望を見てしまふこの条件反射的な思考法は誤謬である

視覚がものいふ世界の把捉の仕方において 当然、光が尊ばれるのはいふに及ばぬが、 だからといって例へば闇の中で光に希望を見てしまふ この条件反射的なる思考法は誤謬である。 闇の中においては仮令、光が差し込まふが 光に背を向けて闇の奥へと突き進むのが正しい姿勢である。 それは、闇の中に光が差し込むことで、 それまで闇の中でぢっと黙考してきたことが断絶し、 いとも簡単にそれが棄てられてしまふのであるが、 無心に光を信ずるこの条件反射的な思考法が 正しいと保証するものが何にもないことに 少し立ち止まって考へれば、 誰もが気付く筈である。 それにも拘はらず光=希望と看做す条件反射はなくならぬどころか、 益益堅牢な記号として此の世に幅を利かせてゐるが、 この条件反射に従順に反応してしまふことは 泰然たる自己肯定に安住する世界が仕掛けた罠であることに やがて自縄自縛に陥る二進も三進もゆかぬ吾の状態を見れば、 火を見るよりも明らかである。 白日の下では吾は逃げ場を失ひStripperストリッパーよろしく、 吾を晒さずば吾の存在証明足らざるを得ぬ光の世界の残酷さに 吾はまもなく打ちのめされる。 さうして吾は内部の闇に閉ぢ籠もるのであるが、 その居心地の悪さは非情である。 ならば、初めから光に釣られることなく 闇に留まるべきなのだ。 さうして黙考に耽溺し、 残酷な光から逃れながら、 懐深い闇の中で、 自由に溺れる悦楽を満喫すべきなのだ。 さうして吾は狡猾な光の罠にかかることなく、 分け入っても分け入っても闇の中で、 自己解放する醜悪なる頽廃に 身を委ねるのも乙なものなのである。

忍び寄る跫音

――ミシリッ、ミシリッ。 と真夜中の古い木造の階段を上ってくる跫音がする。 しかし、私はそれには知らんぷりを決め込んで、 『場の量子論』を読むのに熱中してゐる。 何やら最近際騒がしい量子重力理論への入り口として もう一度読み直してゐるのである。 カントがア・プリオリと封印してしまった 時空間を解放するためにも 物理数学でカントがア・プリオリとして封印してしまったものを 再び日の目が当たる娑婆へと解放するには、 物理数学で対抗する外ないと 量子重力理論を品定めしてゐる。 そんな時に何ものかの跫音が聞こえだし、 ――えへら、えへら。 と嘲笑を放っては、 私の視界の境界にひょいと顔を出しては あっかんべえをする。 それでも私は知らんぷりを決め込んで、 Pipeの煙草に火をつけて 紫煙を胸奥深く吸ひ込んで、 ――ふうっ。 と煙を吐き出す。 成程、時空間も連続ではなく、 飛び飛びの非連続なものとの思考は 私の考へてゐた時空間の姿について補完するものとして 腑に落ちるところではあるが、 しかし、物理数学も数多ある世界観の一つに過ぎぬとして 私はそれをして私の考へが深まることはないが、 唯、カントがア・プリオリのものとして封印した時空間は やっと解放されて、 時空間そのものが思索のTargetになったことは 喜ばしいことではある。 と、そんな時忍び足で跫音を立てずに私に近づく何ものかは ――ぺん。 と私の後ろ頭を叩き、 それでも素知らぬふりをする私に 地団駄を踏んで私を羽交ひ締めにする。 それでも素知らぬふりをして煙草を吹かす私は、 そいつの相手をするほどには心がざわつかぬ。 さうして私は深く私にのめり込み、 瞼を閉ぢては黙考に耽溺する。
――私とは絶えず私でないものへと変容しやうとすることを夢見る、絶えず私に対して憤怒を持ち続ける、つまり、私を持ちきれぬ存在であるが、しかし、その実、私は私に胡座を舁いてゐて、傲慢にも私であることに安住もしてゐる……。 と、そこで、私は階段を上ってきたそいつに刺され、 吾が腸が腹から食み出るのを見て卒倒する。
――是非に及ばず。
消えゆく意識にそんな言葉が浮かんでは意識は遠のき、 私は内界の闇か外界の闇かは解らぬが 底知れぬ闇の底へと沈んでいった。